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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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222/249

第222話 間に合わなかった正解

 春が、ようやく本気になった朝だった。


 炉の火を落としても寒くない。窓を開けると、外の空気に土の匂いが混じっている。屋根の北側の白いものは、三日前に消えた。


「ゆうべ、籠に乗ったの」


 リゼが、椀を置きながら言った。


「籠」


「西門の外の塔。三十五階まで、一息で上がるの」


 私は、手を止めた。


「歩かなかったのか」


「歩いたら日が暮れる」


 それはそうである。


「速かったか」


「速かった」


 リゼは、豆の汁をすくった。


「びっくりするくらい。下を見たら、人が粒だった」


 私は、パンをちぎった。


「速いのと、間に合うのは、違う」


 リゼが、こちらを見た。この人が考えるときは、匙が止まる。今日も止まった。


「……違うの?」


「違う」


 リゼは、しばらく黙っていた。それから、台所の方を一度見た。この人の言い換えは、いつも台所から来る。


「湯が速く沸くのと、朝ごはんに間に合うのは、違うってこと?」


 私は、少しの間、返事をしなかった。


「……それで、だいたい合っている」


「合ってるの?」


「困ったことに」


 AIエージェント:「観測:昨夜の昇降籠の上昇は、階ごとの平均で三拍を下回っています」


「速いじゃないか」


 AIエージェント:「補足:平均です」


 私は、パンを置いた。


「黙れ」


 朝から補足をされると、一日が長くなる。


———

 その日、私とリゼとネドは、西門の外の塔にいた。


 所在台帳の続きである。あの塔は、階ごとに配達符が違う。配達人から見れば、別の家が三十五軒、縦に積んである。先月、十二階宛ての契約の写しが、三十五階の同業へ届いた。台帳の側に、階と部屋を持たせる仕事が残っている。その日は、三十五階の商会に、部屋の割りを見せてもらう約束だった。


 塔の足元は、朝がいちばんうるさい。


 人が、川のように流れ込んでくる。術務職員、商会員、契約術務士、配達局員。外套の裾が、みんな同じ向きに揺れている。表の大階段を上がると、広い床があって、その奥に縦穴が四本、天まで抜けている。


 縦穴は、透いた石で囲ってある。籠が上下しているのが、下からでも見える。塔の造りを見せたかったのだと思う。


 階は四十八ある。郵便を受ける部屋があるのは、そのうち三十五。あいだに、器の階と、水の階と、逃げ場の階が挟まっている。だから、階の番号と、家の数は、合わない。合わないことを、台帳はまだ知らない。


 壁には、幻影が流れていた。茶の広告。宿の広告。遊戯の広告。色が変わるたびに、待っている人の顔の色が変わる。


 縦穴の手前に、腰の高さの台が五つ並んでいた。人は、籠の前ではなく、まずそこへ行く。


 台の上に、鋳物の獣の頭が据えてある。鷲の嘴に、獅子の耳。塔の飾りだと思っていた。塔の者は、あれを門番と呼んでいるらしい。門の無い建物に、門番が五つある。


 ずっと前に、郵便局の床へ区画の線を引いて、門番を立てたことがある。どこへ出すか分からない手紙は、門番へ渡せ、という決まりにした。あれは人だった。


 ここのは、鋳物である。渡されるのは、手紙ではなく、人のほうだった。


「三十五階」


 前の男が、獣の頭に向かってそう言った。


 嘴が、開いた。


「三番へ」


 声が出た。


 人の声だった。人の声に、似ていた。似ているだけだった。どの語も同じ高さで出て、同じ長さで切れる。「三番」と「へ」のあいだに、紙一枚ぶんの隙間がある。切ったものを、並べて鳴らしている。


 声写し盤に人の声を貯めておいて、要るぶんだけ繋いでいるのだと思う。階の数と、籠の番と、「へ」。それだけあれば、この塔の用は足りる。


「十二階」


「一番へ」


「二十八階」


「一番へ」


「三十五階」


「四番へ」


 言われた者から、言われた縦穴の前へ歩いていく。


「あれ」


 ネドが、門番を見ていた。


「同じ階なのに、違う籠ですね」


「一つでは載りきらないからです。朝は、混む階に二つ充てます」


「……そもそも、乗る籠を自分で選べないんですね」


「選ばせると、混みます」


 私は言った。


「行き先の同じ人を、まとめて同じ籠に乗せます。止まる階が減るので、そのぶん速くなります。……代わりに、どの籠に乗るかは、あちらが決めます」


「籠は、見えているのに」


 ネドが、縦穴を見上げた。


「見えているのは、いまどこにいるか、だけです。次に自分の番が来るかどうかは、見ても分かりません」


 リゼが、門番の前に立った。


「三十五階」


「三番へ」


「……はい」


 リゼが、獣の頭に返事をした。頭は、もう次の人を見ている。


「返事しちゃった」


「する。だいたい、みんなする」


「かわいくないね」


「かわいくない」


「ユウさん」


 ネドが、まだ上を見ていた。


「上の方、雲が近くないですか」


「近い」


「あそこに、人が座って帳面を書いてるんですよね」


「書いている」


 三年前には無かった影である。王都は古い街並みを残すと決めたので、高いものは壁の外に出た。出た先で、縦に町を積んだ。積んだ町に、人が毎朝、川のように流れ込む。


 人類は、便利なものを作ると、その便利さの上に、全体重を乗せて立つ。


———

 三番の籠は、三十人ほどを乗せて昇り始めた。


 足の裏に、押される感じがある。押し環が鳴っていた。蜂の巣のような、細い唸りである。


 リゼが、透いた石に手をついていた。


「人が、粒になってく」


 声が、少し高い。


「ユウ、見て。屋根。屋根が、下にある」


「ある」


「屋根って、下にあるものだっけ」


「今日から、そうだ」


 ネドは、手すりを握ったまま動かない。


「……階段だと、四半刻かかります」


「上ったんですか」


「二度。二度目で、やめました」


 リゼが笑った。


 私は、あまり驚いていなかった。驚いていない自分に、少し驚く。


 向こうの世界では、これに似たものが、どの建物にもあった。箱に乗って、壁の穴を上がる。誰も見上げなかった。当たり前だったからである。


 ここでは、まだ当たり前ではない。三年前には、この塔そのものが無かった。石の値が二十分の一に落ちて、昔からあった環がそこに嵌まって、人を縦に運べるようになった。百年先の話だと思われていたものが、たぶん一昨年あたりに、急に来た。


 王都の人間は、いま、生まれて初めて雲の高さで働いている。


「すごいね、これ」


 リゼが言った。


「すごい」


 私は言った。本当にそう思ったので、そう言った。


 当たり前になったものが、当たり前でなくなる日が来る。たいていは、壊れた日である。


———

 十階を過ぎたあたりで、四番の籠が、隣の縦穴を並んで上がってきた。門番が三十五階へ充てた、もう一つの籠である。地の階を出たのも、ほとんど同じ刻だった。


 縦穴と縦穴のあいだにあるのは、透いた石が二枚だけである。向こうの顔まで見える。人は、こちらより多い。前の方に、荷を抱えた者が立っていた。


 二十階。二十五階。


 三十階を過ぎて、こちらの籠が速さを落とし始めた。唸りが止んで、今度は水を汲み上げるような、粘りのある低い音になった。抜き環である。


 でも、隣の籠の速度は、落ちなかった。


 籠はそのまま、三十五階の高さを通り過ぎた。


 過ぎてから、止まった。


 止まり方が、強かった。


 透いた石ごしに、中が見えた。人が、一瞬、浮いた。全員が、同じ高さだけ浮いて、同じ高さだけ落ちた。荷が飛んだ。前の方にいた者が、後ろへ倒れた。


 声は、こちらまで届かなかった。あいだに石が二枚あるからである。開いた口の形だけが見えた。


 そのあいだに、こちらの籠は、白い線の上にぴたりと止まっていた。扉が開いた。


 同じ刻に出て、同じ階へ来て、片方だけが、止まれなかった。


 誰も、降りなかった。全員が、隣を見ていた。


「ネド、下へ。詰所を呼んでください」


「はい」


 三十五階にも、門番の頭が据えてあった。ネドが「一階」と言うと、嘴が開いて、三番へ、と返した。いま降りた籠である。ネドが乗ると、扉が閉まった。


 隣の籠は、そのあとゆっくり下がって、三十四階で止まったようだった。


 私とリゼは、階段を一つ降りた。


———

 三十四階の広間に、人が座り込んでいた。


 十六人ほど。多くは立っている。座っているのは四人。一人は額を押さえていた。血は少ない。一人は、足首を抱えている。一人は、ただ青い顔で壁にもたれている。


 顔が、困惑と諦めだった。


 ここは戦場ではない。

 だが、人間の顔は戦場と同じになるらしい。


 塔の者が走ってきて、水を配り始めた。詰所の者が来るまで、そう長くはかからなかった。誰も死ななかったし、誰も、たぶん、明日には歩ける。


「落ちるかと思った」


 壁にもたれた男が、そう言った。誰に言ったのでもない言い方だった。


「広告は流れてたのに」


 額を押さえた女が言った。膝の上に、革の道具袋がある。倒れたときに中で鳴ったのだろう、細い金具が袋の口から覗いていた。上の階の幻影の具合を見に来た、幻灯工房の者だった。壁に流れているものが、どこから出ているかを、この人は知っている。


「広告は、ちゃんと流れてたのに、止まるのは遅いのか」


 私は、何も言わなかった。


 言うべきことは、あとで、別の人に言う。


———

 籠場は、二階の奥にあった。籠を動かす器と盤が、まとめて置いてある部屋である。


 狭い。片側の壁に、据え置きの溜めが三つ並んでいる。人の背より高い。そこから太い管が天井を抜けて、縦穴のほうへ伸びている。向かいの壁に術盤が四枚と、記録石の台。床には道具と、替えの環が二つ転がっていた。油と、焼けた石の匂いがする。


 私が入ると、もう狭かった。リゼは戸口に立った。


「ユウ殿ですか」


 振り向いたのは、若い男だった。二十代の半ばくらい。背が高く、手が大きい。指の関節が、どれも太い。器具を触る人の手である。


「セドといいます。籠の術盤を見ています」


「何が起きましたか」


「それが」


 セドは、盤の前の記録を指した。


「術式は、正しい数を出しています」


「器の側は」


「検めました」


 セドが、帳面を開いた。指で押さえながら読んだ。


「押し環に焼けはありません。抜き環も、口が詰まっていません。据え置きの溜めは、目盛りが足りています。縦穴の鉄の条に傷はなく、挟み板の腕は、降りた跡がありません。浮遊石も割れていません。……籠は、言われたとおりに動いています」


「言われたとおりに」


「はい」


 セドは、帳面から顔を上げなかった。


「言われたのが、遅かっただけです」


 私は、記録を見た。


 籠が三十五階へ上がる。目当ての高さの手前で、抜き環に抜かせて速さを落とす。落とし方の強さを、刻ごとに決め直す。この決め直しを、この塔では止め合わせと呼んでいるらしい。


 止め合わせの出した数は、確かに正しかった。どの高さで、どれだけ抜けば、どこに止まるか。計算に、間違いはない。


「正しいですね」


「はい」


「出た刻は」


 セドが、言葉に詰まった。


「……遅いです」


「どのくらい」


「二拍と、少し」


 二拍。人の脈で二つ。


 その二拍のあいだに、籠は昇り続けた。昇り続けてから、正しい数が出た。正しい数は、二拍前の高さに合わせて作られていた。


 だから、行き過ぎた。


 行き過ぎたと分かってから、術式は強く抜いた。強く抜けば、強く減る。人が浮いた。


「セドさん」


 私は言った。


「遅れた正解は、この場合、間違いです」


 セドは、こちらを見た。それから、記録を見た。それから、また、こちらを見た。


「……間違い、ですか」


「はい」


「でも、数は」


「数は合っています。合っている数が、二拍遅れて出ました。二拍遅れて出た正しさは、使えません」


 セドは、答えなかった。


———

 私は、盤の並びを見た。


「この盤の上で、いま、いくつの仕事が動いていますか」


「仕事、というのは」


「盤に載せてある術式の、ひと続きの働きです。一つが、始まって、終わるまで。載せた数だけ、盤が順に回します」


「……数えたことは」


「数えましょう」


 私は、壁の表示盤を借りた。この部屋にも一枚ある。埃を払って、書いた。


   扉の閉まりの確かめ

   重さの量り

   風の揺れの直し

   隣の籠との間合い

   止め合わせ

   広告幻影の差し替え

   行き先の案内

   運行記録の送り

   監視水晶の絵の縮め

   混み具合の集計

   塔内の報せの書き換え


「十一です」


 セドが言った。


「十一、同じ盤の上です」


「事故の刻に、動いていたのは」


 セドが、記録をめくった。


「記録の送りと、広告幻影の差し替えと、監視水晶の絵の縮めが、重なっています」


「三つとも、重い仕事ですね」


「重いです。絵の縮めは、いちばん重いです」


 私は、十一行を眺めた。


 この十一のうち、遅れたら人が転ぶのは、一つだけである。残りの十は、遅れても誰も転ばない。


 そして、この盤は、十一を平らに扱っていた。


———

「ですが」


 セドが言った。顔が、少し赤くなっている。


「平均の遅れは、決めの紙を十分に満たしています」


「平均では駄目です」


 私は言った。


 セドが、口を開けた。


「平均では、駄目」


「はい」


「ですが、平均は、測るものです。測ったものを見るのが、まずいということですか」


「まずくはありません。足りません」


 私は、表示盤の下に線を引いた。


   平均の遅れ

   いちばん遅かったときの遅れ


「普段は速い。多くの朝は、何も起きない。ですが、人の流れが重なった朝に、たまに遅れる。……その、たまに、が人を転ばせます」


「たまに、を、どのくらい見ればいいんですか」


「いちばん遅かったときを見ます。それだけです」


 私は、そこで一度、間を置いた。


「一万回に一回だけ遅れる、という性質は、遊戯なら我慢できます。絵が一瞬飛んでも、笑って済みます」


 セドが、頷いた。


「でも、一万回に一回だけ人を宙に浮かせる籠には、乗りたくありません」


 戸口から、声がした。


「それは乗りたくない」


 リゼである。ずっとそこに立っている。


「……ですよね」


 セドが、小さく言った。


———

 昼過ぎに、塔の管理の者が来た。


 ドゥガと名乗った。五十くらい。肩幅が広く、外套の仕立てがいい。歩き方に、この建物の持ち主側の癖がある。


「怪我人は四人、みな軽傷です。詫びは出します」


 ドゥガは、まず数を言った。数を先に言う人は、たいてい、次に別の話をする。


「ですが、四番の縦穴を止めたままにされると困ります。朝の流れが、三本では捌けません」


「捌けないと、どうなりますか」


「大階段を歩く者が出ます。三十五階まで歩いた者は、翌月の賃を値切ります」


 正直な人である。正直な人は、話が早い。話が早い人は、こちらの都合を待たない。最悪だ。


「それから」


 ドゥガは、少し声を落とした。


「壁の幻影の契約が、年の切り替えです。魔法仮想文書で、この塔の名が出ています。……あまり、よくない出方で」


「西門外の塔、また問題か、と」


「読みましたか」


「読んでいません。そう書かれるだろうと思っただけです」


 ドゥガが、口の端を曲げた。


「あの籠は、落ちるんですか」


 これは、彼が聞きたかった一つ目だったのだと思う。


「落ちません」


 私は言った。


「落ちませんか」


「落ちません。……そこが、この籠の、いいところです」


———

 私は、四人を連れて、四番の縦穴の下へ降りた。


 事故の籠は、人を出したあと、いちばん下まで降ろしてあった。降ろしてあるが、床には着いていない。大人の背より少し高いところで、浮いたまま止まっている。誰も乗っていない。


「見てください」


 私は、籠の底を指した。


「あれは、誰も押していません。誰も抜いていません。なのに、下りてきません」


 リゼが、首を傾げた。


「浮いてるんだよね」


「浮いています。床に浮遊石が敷いてあるからです。石は、重さを打ち消します。打ち消すのに、魔力は要りません。支えているだけで、速さを変えていないからです」


 ネドが、書き付けを始めた。


「卓が本を支えていても、卓は減りません。それと同じです」


「じゃあ、どうやって上がるの」


 リゼが訊いた。


「押し環に注ぎます。注いだ向きへ押されます。注いだ魔力を、押す物の重さで割ったものが、速さの変わり方になります」


「注ぐのをやめたら?」


 私は、リゼを見た。


「……そこだ」


 リゼが、籠の底を見上げた。


「やめても、落ちないんだよね」


「落ちない」


「じゃあ」


「そのまま、昇り続ける」


 リゼが、黙った。


 ネドの筆も、止まった。


 私は、四人のほうへ向き直った。


「馬車は、手綱を離せば止まります。地面が食べてくれるからです。……この籠は、手を離すと、昇ったままです。重さを打ち消してあるので、止める理由が、どこにもありません」


「止めないと、止まらないんだ」


「はい」


 私は、縦穴の壁を指した。


「止め方は三つあります」


 一つ目。逆向きに注ぐ。押した向きと逆へ注ぎ返して、速さを殺す。強く止めるほど、魔力を食う。


 二つ目。抜き環で抜く。動いている籠から魔力を抜くと、抜いたぶん遅くなり、抜いた魔力は管を通って据え置きの溜めへ戻る。戻るのは半分以下である。ただし、遅くなるほど抜ける量が減る。


「最後の数歩は」


 セドが言った。


「最後の数歩は、抜き環では止まりません。浮遊車と同じです」


「同じです。だから、三つ目が要ります」


 私は、縦穴の両側を指した。


 透いた石の内側に、鉄の条が二本、上から下まで通っている。籠の案内のためのものだと思っていた。


「挟み板です」


 セドが言った。


「籠の両脇から腕が出て、楔で条を挟みます。魔力を、一滴も使いません」


「浮遊車の蹄板の血筋ですね」


「そう聞いています。あれを縦にしたのだと」


 私は、鉄の条を見上げた。


 浮遊車の事故のあと、事故検分会が引き継いだ宿題の紙に、一行だけ残った文がある。魔力を使わずに止まる手を、作る。あれが、縦穴の壁まで来ていた。


「では」


 私は、セドに訊いた。


「今朝、挟み板は働きましたか」


「働いていません」


「なぜですか」


「速さが、決まりの内側だったからです」


「挟み板は、何が降ろすんですか」


「盤ではありません」


 セドは、そこだけは早口になった。自分の持ち物の話だからだと思う。


「籠の底に、小さな車が一つ付いています。縦穴の上から下まで、細い綱が張ってあって、その車に掛けてある。籠が動けば、綱が車を回します」


「籠の速さが、そのまま車の回りになりますね」


「なります。車の軸に、錘が二つ。速く回るほど、外へ振られて開きます。決まりの幅より開くと、爪が落ちます。爪が落ちると、腕が出て、楔が条を挟みます」


「術式は、どこにも入っていない」


「入っていません。盤が焼けていても、線が抜けていても、働きます」


 いい作りである。魔力の外に止まる手を一つ持て、という原則を、そのまま鉄でやっている。


「では、今朝」


「綱は回っていました。錘も、開いていました」


 セドは、答えてから、自分の答えを聞き返すような顔をした。


「……決まりの幅までは、開かなかった」


「そうです」


 私は言った。


「挟み板は、速すぎるときに働きます。今朝の籠は、速すぎませんでした。ただ、遅れただけです」


 リゼが、小さく言った。


「見張ってるものが、違うんだ」


「はい」


 私は、鉄の条から目を離した。


「この塔の安全は、速さだけを見ています。遅れは、誰も見ていません」


———

 午後になって、ルドーが来た。


 講堂の帰りだという。外套を脱ぎもせず、縦穴の下でしばらく上を見ていた。それから、籠場へ上がってきて、壁の盤の並びを一度だけ見た。


「よく働く盤だな」


 ルドーは、そう言った。


「よく働きます」


 私は言った。


「十一の仕事を、一枚で捌いています。値の張らない作りです。……ですが、この籠には向いていません」


「向かぬか」


「向きません」


 私は、表示盤を消して、二つ書いた。


   よく捌ける盤

   必ず間に合う盤


 セドが、二つを見比べた。


「違うんですか」


「違います」


 私は、左の下に並べた。


    たくさんの仕事をまとめてこなす

    平均が速い

    余った手で、記録も表示も集計も引き受ける

    滓を掃くあいだ、一瞬止まる

    遅れても、やり直せる仕事に向く


 それから、右の下に並べた。


    急ぎの仕事を、必ず決めた刻までに始める

    順が、はっきり決まっている

    いちばん遅かったときの遅れが、紙に書いてある

    余計な仕事を載せない

    足りなければ、はたらきを減らしてでも刻を守る


 セドが、右の最後の行で止まった。


「……減らすんですか」


「減らします」


「はたらきを、ですか」


「はたらきをです。減らせないなら、盤を分けます」


 私は、二つの列のあいだに、縦線を引いた。


「速い盤と、必ず間に合う盤は、別のものです」


 ルドーが、椅子の背にもたれた。


「速い馬と、決まった時刻に必ず着く馬車の違いか」


「かなり近いです」


 この人は、いつも一行で足りる。


「速い馬は、いい日には早く着く」


 ルドーは、続けた。


「悪い日には、どこで止まっているか分からん」


「はい」


「馬車は、いい日でも早く着かん」


「着きません。代わりに、悪い日にも、だいたいその刻に着きます」


 セドが、二つの列を書き写していた。手が速い。


「この籠は」


 セドが言った。


「どっちの盤で、動いてたんですか」


「左です」


 私は言った。


「左の盤で、右の仕事をしていました」


———

「それで」


 ルドーが言った。


「何を決めればいい」


「刻を決めます」


 私は、表示盤を新しくして、五行書いた。


   扉の異変を読んでから、止めるまで

   重さの異変を読んでから、速さを上げないと決めるまで

   揺れを読んでから、直しを入れるまで

   隣の籠が近いと読んでから、抜き始めるまで

   盤の返事が途切れてから、安全側で止まるまで


「この五つに、数を入れます」


「数」


「何拍以内、という数です」


 セドが、五行を見た。


「いままでは、入っていませんでした」


「入っていませんでしたね」


「……何と書いてあったかというと、速やかに、です」


 私は、少し黙った。


 なるべく、と書かれた義務は、必ず守られなくなる。速やかに、も同じ血筋の言葉である。浮遊車のときに、同じことを言った覚えがある。言ったのに、縦穴には届いていなかった。


「セドさん」


「はい」


「この籠では、いつか正しい数が出る、では足りません」


 私は、五行の下に線を引いた。


「何拍以内に出る、まで約束しないといけません」


 ルドーが、短く言った。


「速やかに、は約束ではない」


「はい」


「誰も破れんからな」


 そのとおりである。破れない約束は、守られてもいない。


———

 日が傾いても、この部屋では分からない。窓が無いからである。ネドが灯りを足して、外はもう暮れましたと言った。


「ユウさん、今日のうちに直せますか」


「直せません」


「え」


「原因の見当はつきます。ですが、見当で直すと、もっと悪くなります」


 私は、記録をもう一度、頭から読んだ。


 止め合わせが遅れたのは、術式が重かったからではない。止め合わせそのものは、軽い。数え直して、答えを出すまでに、半拍もかからない。


 遅れたのは、始まるまでだった。


 始められなかった理由が、記録の下のほうに、小さく残っていた。


 運行記録石。


「セドさん」


「はい」


「この石は、何ですか」


「運行記録石です。刻ごとに、何を読んで、何を選んだかを書き続けます」


「義務ですね」


「義務です。浮遊車の操縦記録札と、同じ決まりだと聞いています。……これが無いと、事故の原因が、いちばん立場の弱い者のせいになる、と」


 そのとおりである。その決まりは、正しい。


「書き口は、いくつありますか」


「一つです」


 セドが、石を指した。


「書いているあいだ、他の術は触れません。触ると、書きかけの字が混ざるので」


「止め合わせも、ここへ書きますか」


「書きます。いつ、どれだけ抜いたかを」


 私は、椅子の背にもたれた。


 最悪だ。


———

 記録を、三度読み直した。


 あの朝、起きたことは、こうだった。


 記録の送りが、書き口を持った。これは、いちばん下の順の仕事である。集めた記録を、王都の側へ送る。急がない。


 送りの途中で、広告幻影の差し替えが動いた。これは、真ん中の順である。壁の色を変える。急がないが、記録の送りよりは先に扱われる。


 だから、記録の送りは、止まった。止まったが、書き口は持ったままだった。


 そこへ、止め合わせが来た。いちばん上の順である。


 止め合わせは、書き口が空くのを待った。


 待っているあいだ、広告が流れていた。


 書き口が空いたとき、籠は、三十五階を過ぎていた。


———

「ルドー先生」


 ルドーは、まだ帰っていなかった。壁際の椅子で、腕を組んだまま目を閉じている。寝ているように見えるが、この人は寝ていない。


 私は、表示盤に三行書いた。


   下の順の仕事が、石の書き口を持っている

   上の順の仕事が、その書き口を待っている

   真ん中の順の仕事が、下の順を止めている


 ルドーは、三行を、長いこと見ていた。


「上の順の仕事が、下の順の仕事に待たされていたのか」


「はい」


 ルドーは、腕を組んだ。


「そのあいだ、真ん中が走っていたわけだな」


「走っていました。壁で、茶の広告が」


 ルドーが、短く息を吐いた。


「かなり嫌な事故の起き方だな」


「はい」


 私は言った。


「かなり嫌な事故の起き方です」


 セドは、表示盤の三行を見ていた。


「これ、誰が悪いんですか」


 私は、少し考えた。


「今日は、答えません」


「答えないんですか」


「明日、答えます。今日答えると、たぶん、あなたのせいになります」


 セドは、何か言いかけて、やめた。


———

 帰り道、塔を振り返った。


 窓の灯りが、縦に並んでいる。数えると、途中に三段だけ暗いところがある。器の階である。灯りのある段の一つ一つに、人が座って帳面を書いている。朝は籠で上がり、夜は籠で降りる。


 籠は、落ちない。落ちないように、石が支えている。


 落ちないが、止まらない。止めるのは、術式である。術式は、今朝、正しい答えを出した。二拍遅れて。


「ユウ」


 リゼが、隣を歩いていた。


「二拍って、どのくらい?」


 私は、自分の手首を軽く押さえた。脈を、二つ数えた。


「これだけだ」


「……それだけ?」


「それだけだ」


 リゼは、しばらく黙って歩いた。


「それだけで、人が浮くんだ」


「浮く」


 風が、塔のほうから吹いてきた。まだ少し冷たい。


「ねえ」


「うん」


「あの籠、明日も動くの」


「動く。三本で動かす」


「乗りたくない」


「……そうだな」


 私は、正直に答えた。


「俺も、いまは乗りたくない」


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