第143話 美しすぎる聖域
朝の食卓に、珍しくリゼが新聞札を広げていた。
焼いた卵の匂い。
湯気の立つ野菜汁。
その向こうで、リゼの眉が少し寄っている。
「ねえ、《星詠みの庭》って知ってる?」
「名前だけは」
「ミナの友人が熱心に通ってるんだって」
「通う」
「仮想の庭らしいわ。歌姫の祭礼を見たり、友人と集まったり、空中庭園を歩いたり」
リゼは新聞札をこちらへ向けた。
そこには、きらびやかな宣伝文句が並んでいる。
雲の粒まで描かれる空。
衣装の刺繍まで見える歌姫。
何千もの分身が集える広場。
光の粒が舞う大広間。
高級個人術盤で味わう最高峰の仮想体験。
「すごそうではある」
「でしょ。でも、燃えてる」
「物理的に?」
「違うわよ」
よかった。
だが、たぶん別の意味で燃えている。
最悪だ。
———
刷新された《星詠みの庭》は、公開直後から荒れていた。
魔文の報せ欄にも、利用者の文が流れている。
扉を開けるだけで十秒以上かかる。
広場に入ると分身が固まる。
歌姫の登場演出で術盤が落ちる。
友人一覧が開かない。
祭礼中に音だけ遅れる。
地面の下に落ちる。
会話欄が背景に埋もれて読みにくい。
普通の個人術盤ではまともに動かない。
高級術盤を買った人ですら快適ではない。
旧い庭のほうが軽かった。
リゼが一枚ずつ読んで、顔をしかめた。
「このために高い個人術盤を買った人もいるんだって」
「かなり痛い」
「でも、絵は綺麗なんでしょ?」
「絵は綺麗だけど、扉を開けるのに十秒かかる聖域か」
「それって、そんなにまずいの?」
「毎日使う場所でそれをやると、利用者は毎日十秒ずつ失望するんだ」
リゼは黙った。
鍋の火を弱める。
「家の玄関が、毎回なかなか開かない感じ?」
「そう」
「中が豪華でも、嫌になるわね」
「なる」
仮想の庭でも、日常は日常だ。
美しい一回の見世物と、毎日使う居場所は違う。
———
運営共同体の謝罪文も出ていた。
硬い文面だが、言葉は逃げていない。
期待を裏切ったこと。
高価な術盤を用意した利用者がいたこと。
長年の共同体を傷つけたこと。
短い期間では直せないこと。
それでも逃げずに対応すること。
悪い謝罪ではない。
ただ、利用者の怒りは収まらない。
「謝るより扉を早くして」
「美麗な床より友人一覧を開かせて」
「旧い庭を返して」
「このために術盤を買ったのに」
怒りは正しい。
悲しみも正しい。
そして、作った側も全員悪人ではない。
こういう時が一番難しい。
ルドーから呼び出しが来たのは、その日の昼だった。
———
《星詠みの庭》運営工房は、王都西区の大きな建物に入っていた。
扉の前には、庭の紋章。
星を抱く枝。
細かい装飾が美しい。
中に入ると、熱い術盤と乾いた紙の匂いがした。
長机には、問題一覧の札が積まれている。
壁には、空中庭園、歌姫の舞台、市場、大広場の幻影見本。
美しい。
そして、部屋の人間の顔は美しくない。
困惑と諦め。
何度見ても、障害現場の顔だ。
ルドーが短く言った。
「現場だ」
「見れば分かります」
「責任は」
「王城ですか」
「運営だ」
珍しい。
少しだけまともだった。
———
工房の術師が、問題一覧を広げた。
扉が遅い。
広場が重い。
祭礼で落ちる。
分身描きが不安定。
友人一覧が開かない。
会話欄が読みにくい。
音が遅れる。
地形から落ちる。
「問題一覧は作ってあります。順に潰せば」
「触っていいですか」
「もちろんです」
私は個人術盤を借り、《星詠みの庭》へ入った。
最初の扉。
重い。
確かに十秒以上かかる。
扉の金具の光、石畳の濡れた反射、空の雲の影。
全部が丁寧に描かれている。
だが、私はまだ中に入れていない。
「……美しいですね」
術師の一人が、少しだけ嬉しそうにした。
「はい。そこは特に力を入れて」
「でも、最初に見たいのは扉の金具ではありません」
笑顔が消えた。
すまない。
だが、言わなければならない。
———
広場へ入る。
分身が多い。
衣装が細かい。
髪飾りが揺れる。
遠くの噴水がきらめく。
歌姫の予告幕が空に浮かぶ。
そして、こちらの分身が一瞬固まる。
会話欄が背景の光に埋もれる。
友人一覧を開こうとすると、表示が詰まる。
リゼが横から覗き込んだ。
「綺麗だけど、友達を探しにくい」
「それが本質だと思う」
「庭に来たのに、待ち合わせ場所が分からない感じ?」
「かなり近い」
私は術盤を止めた。
「これは、個別の不具合だけじゃないですね」
工房の術師が身を乗り出す。
「問題一覧は作ってあります。順に潰せば」
「たぶん、その一覧を全部潰しても、快適にはなりません」
部屋が静かになった。
———
私は表示盤に、庭の流れを書いた。
扉
広場
友人一覧
会話
祭礼
「利用者が最初にしたいことは、何ですか」
「庭を見ることです」
若い術師が即答した。
私は首を振る。
「違う人も多いはずです。友人に会う。約束の場所へ行く。会話する。祭礼に間に合う。歌姫を見る」
私は別の列を書いた。
雲
刺繍
反射
光粒
遠景
「今の庭は、下の列を優先しすぎています」
「美しさは価値です」
「価値です」
否定しない。
美しさは力だ。
人を集める。
記憶にも残る。
「でも、会う、話す、集まる、間に合う。共同体の中心が後回しになっています」
工房の奥で、誰かが息を呑んだ。
———
年配の幻影師が、低い声で言った。
「旧い庭は、美しい幻影で勝ちました」
「でしょうね」
私は頷いた。
「たぶん、昔はこれで勝てたんです」
全員の視線が集まる。
「美しい空、美しい衣装、それで利用者は喜んだ」
私は扉の見本を指した。
「だから今回も、それをやればいいと思った」
誰も反論しない。
「でも今の利用者は、まず友人に会いたいんです」
リゼが小さく言った。
「昔は料理の見た目で評判になった店が、今は昼休みにすぐ食べたい客を待たせてる感じ?」
「それだ」
「綺麗なのは大事。でも毎日待たされたら困る」
「そういうことだ」
成功体験は、次の成功の材料になる。
同時に、次の失敗の型にもなる。
最悪だが、本当にそうだ。
———
術師たちは、しばらく黙っていた。
やがて、若い運用担当がぽつりと言った。
「……分かっていたんです」
誰も止めなかった。
「重いことも、遅いことも」
彼は問題一覧の札を握りしめた。
「でも、止められなかった」
「理由を聞いても」
「季節祭の予定が決まっていました。歌姫の巡業契約もありました。個人術盤商会との連携も。宣伝費も、期待も、積み上がっていました」
別の術師が言った。
「公開してから直すしかない、と」
人間は、未来の自分に借金を押しつけるのがうまい。
その借金を払うのは、たいてい利用者と現場だ。
「出した瞬間から、失望も本番で動きます」
私は言った。
部屋の空気が、さらに重くなった。
———
運営責任者のセイオンは、そこで初めて口を開いた。
明るい声を持つ人だ。
だが、今はその明るさがかなり削れている。
「では、どうすれば」
「短期の不具合修正は必要です。扉、会話欄、友人一覧、祭礼の落ち方。これは止血です」
「止血」
「はい。でも、根は設計思想です」
私は表示盤の二つの列を見た。
美しさ。
会うこと。
話すこと。
集まること。
待たせないこと。
「今の庭を直すだけでは、たぶん足りません」
セイオンの顔が少し歪む。
それでも逃げなかった。
「……今の庭を直すだけでは、足りないのですね」
「はい」
「作り直し」
「直すんじゃなくて、作り直す判断が必要かもしれません」
その言葉は、部屋に落ちて、しばらく消えなかった。
———
《星詠みの庭》は、美しい失敗だった。
美しさを捨てればよかった、という話ではない。
美しさで一度勝ったからこそ、その成功に引っ張られた。
雲を描いた。
衣装を描いた。
反射を描いた。
光を描いた。
だが、友人に会う道を軽く見た。
しかも、重いと分かっていた。
遅いと分かっていた。
それでも、予定と契約と期待が公開へ押し出した。
問題一覧を潰すだけでは、たぶん足りない。
何を先にする庭なのか。
誰の毎日を支える庭なのか。
そこから作り直す必要がある。
美しすぎる聖域は、入口で人を待たせすぎた。
そして、居場所は入口で待たされ続けると、居場所ではなくなる。




