第129話 正本が一つなら写しは迷わない
講堂の朝は、少し浮き足立っていた。
王都の祭礼が近い。
窓の外では、屋台の骨組みを運ぶ荷車が通り、学生たちもどこか落ち着かない。
楽しい予定がある日の授業は、だいたい難しい。
人の意識は、すでに屋台の焼き菓子の方へ行っている。
最悪だ。
———
リゼが授業前に、少し困った顔で言った。
「昨日、中央の乗合馬車広場で案内が変だった」
学生たちが一斉に反応した。
「またですか」
「窓口では三番乗り場って言われたのに、見せ板は五番でした」
「遅延札だけ直って、出発時刻が古いままだった」
「満席なのに空き席ありって出てました」
出る。
出る出る。
人の不満は、案内板の話になるとよく出る。
ルドーは表示盤に短く書いた。
人に見せる術
「何が難しい」
学生の一人が言った。
「見やすさ」
「速さ」
「間違えないこと」
「目立つこと」
ルドーは最後だけ見た。
「目立てばよいのか」
「よくないです」
「はいは一回だ」
「はい」
なぜ私ではないのに始まるのか。
ルドーが私を見た。
「説明しろ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
結局来る。
———
私は表示盤に、中央の乗合馬車広場の図を描いた。
裏の運行台帳。
乗客向け見せ板。
窓口向け表示。
現場職員向け確認板。
「まず、見せ板は真実そのものではありません」
学生たちが少し首を傾げた。
「本当の情報は、裏の運行台帳にあります。出発時刻、乗り場、遅延、運休、空き席状況、呼び出し状況」
私は台帳から見せ板へ線を引いた。
「見せ板は、それを人に分かる形に写したものです」
リゼが言った。
「料理そのものじゃなくて、店先の献立札みたいなもの?」
「近い」
「献立札を直しても、台所の鍋は変わらない」
「かなり近い」
私はもう一本、窓口向け表示へ線を引いた。
さらに職員向け確認板へ。
「問題は、現場では見せ板そのものを直接直してしまうことがある、という点です」
———
表示盤の見せ板だけを赤く光らせる。
「たとえば、乗り場が三番から五番へ変わった。急いで、乗客向け見せ板だけ直す」
次に、窓口向け表示を古いまま残す。
「窓口はまだ三番を案内する」
さらに、職員向け確認板を別の値へ変える。
「現場職員は四番だと思って列を作る」
学生たちが嫌な顔をした。
「ありそう」
「昨日見た」
「最悪」
私の口癖を取らないでほしい。
だが、最悪だ。
「変更箇所が多い。一部だけ直る。直し忘れる。複数人が別々に触る。変更の順序がずれる。これが重なると、裏と表が食い違います」
ルドーが短く言った。
「人が頑張るほど乱れる」
「はい」
「ひどいな」
「かなりひどいです」
———
私は表示盤に大きく書いた。
正本は一つ
「正本が一つなら、写しは迷いません」
裏の運行台帳を一つだけ光らせる。
「見せ板を真実にしてはいけない。真実は別にあり、見せ板はそれに従うべきです」
学生たちは、少しずつ頷き始めた。
「見えるものをいじって合わせるのではなく、見えるものの元を正さないといけない」
リゼが言った。
「台所の注文台帳を直せば、献立札も厨房札も給仕札もそこから写せる」
「そういうことだ」
「でも、見える札だけを慌てて直すと、みんな別々になる」
「かなり正確だ」
人は見えているものを直したがる。
見えているからだ。
だが、見えているものが何かの写しなら、写しだけ直しても次にまたずれる。
見た目を整えるのではなく、見た目の元になる状態を整える。
そこが大事だ。
———
学生の一人が手を上げた。
「でも、裏の台帳が変わるたびに全部写し直すのは遅くなりませんか」
「良い質問です」
私は見せ板全体を淡く光らせた。
「全部を毎回、人が気にして直すのは大変です。ですが、術が変わったところを見極め、必要な部分だけ差し替えるなら、かなり安全になります」
出発時刻はそのまま。
乗り場だけ変わる。
遅延印だけ灯る。
空き席表示だけ小さく変わる。
「人が『ここを消して、こっちを書いて、あっちも直して』と逐一触るのではなく、まず正本の現況を変える。あとは見せたい姿を決め、術が必要な差し替えを行う」
リゼが言った。
「家の掃除で、客間だけ見栄えを直すんじゃなくて、物の置き場を決める感じ」
「近い」
「置き場が決まっていれば、出し直す時に迷わない」
「そういうことだ」
———
私は表示盤に、三つの見せ方を並べた。
乗客向け
窓口向け
職員向け
「見せ方は違ってよいです。乗客には乗り場と時刻を大きく出す。窓口には予約状況を加える。職員には呼び出し順や列の状態も出す」
「違っていいんですか」
「違っていい。ただし、元の正本は同じでなければならない」
ここを間違えると、見せ方の違いが真実の違いになる。
それは事故だ。
ルドーが短く言った。
「写しは多くてよい」
「はい」
「正本は一つ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
今日も忙しい。
———
授業の終わり際、講堂の連絡札が鳴った。
王都中央乗合馬車広場からだった。
「明日から祭礼で利用者が増えます」
札を読んだ職員が言った。
「加えて、午後から天候が崩れる見込みです。乗合馬車の乗り場変更や運休が増える可能性があります」
講堂の学生たちが顔を見合わせた。
授業で扱ったばかりの不安が、そのまま現場から来ている。
「現場の案内盤は」
ルドーが短く聞いた。
「すでに、窓口と見せ板で何度か食い違いが出ています」
私は額を押さえた。
正本が一つでない場所に、祭礼と悪天候をぶつける。
王都は時々、実験が荒い。
リゼが小さく言った。
「明日、かなりまずそう」
「かなりまずい」
その予感は、たぶん当たる。
最悪だ。




