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―――そして時は流れ、ヒカイの立太子式は滞りなく進んで行った。厳粛な空気の中で唯一外国の王族として参列したのが私だけであった為か、四方八方から痛いほどの視線を感じたけれど、それは致し方のない事として。
「どうしてあなたが来たのか、やはり腑に落ちないわ」
式も終盤に差し掛かり、漸く一息付けた頃、私の隣に座したリュウホウにぼそりと毒を吐いた。周囲に人の影は無い。だからこそこうして毒を吐けるのだ。けれどリュウホウは何というか、こういう場であっても飄々とした空気を崩す事なく、「ほう」と呟く。その態度に若干の苛立ちを感じながら更に毒を吐いた。
「私は一人でも大丈夫だというのに、陛下は何をお考えなのかしら」
「それは勿論、私以外に妃殿下の供を成せる者が居ないからでしょう」
「尚書郎とはそのようにふらふらと外国へと出歩けるような地位だったのかしら?」
「王妃殿下、私はそれほど暇ではありませんよ。その程度お分かりになるでしょう? 勿論、陛下のご下命により殿下のお側に来たこと位、殿下であればお察しの事と思いますが」
「そうね」
そう返答した数拍の後、私は声を抑えてリュウホウに詰め寄った。いや、詰め寄ったというのは語弊があるか。脇息を乗り越えるようにリュウホウの方へと身を乗り出す。
周囲の視線が一瞬の内に鋭い刃の如くこの身を貫く感覚を全身で感じながらも、それを気にしている余裕は今の私には無かった。
「今、なんて言ったの? リュウホウ」
「陛下のご下命により……」
「そこではないわ。王妃殿下、と呼ばなかった? 私の聞き間違いかしら」
聞き間違いよね? という意思を込めて確認したというのに、リュウホウはどうしてか皮肉気な笑みを浮かべて、「勿論言いましたが」と囁く。
その言葉に思わずひゅっと息を呑んだ。と同時にまるで心臓が駆けるようにどくどくと鼓動が跳ね上がった。
「私はまだ妾妃の筈だけれど?」
「ええ。つい昨日までは」
「……どういうことなのっ」
「殿下、少しお声を落として下さいませんと。まだ御式は続いているのですよ?」
渋々と座り直して視線だけは前に向き直り、意識をリュウホウの方へ向ければ、リュウホウはくつくつと喉の奥で笑う。まるでそれは嘲るような、それでいて哀れむような視線に僅かに唇を噛んだ。
「陛下が妃殿下を王妃へ押し上げるようご指示なさいました。殿下ならばその理由もお分かりでしょう?」
「分かりたくは無いけれどね」
唸る様に首肯する。胸の奥がざわめいた。
「そうでしょうとも。けれどもこれが現実です。受け入れなさい。メイベル王国史上初の、外国の立太子礼に参列した妃殿下として、殿下の名は歴史に燦然と輝く事でしょう」
「そんなの私は望んではいないのだけど。それに私はマルセルに、惚れ直させてみなさいと言ったつもりだったのだけど」
それがどうしてこうなるのか。ここまで言ってもリュウホウは私の心情など気にした様子もなく笑うのみ。
「陛下とどのようなお約束をなさったのかは私には分かりかねます。しかしあなたが王妃となった事は事実。これで心置きなく私も政務に励めるというものです。これよりはあなたが陛下をお支えしなさい。勿論逃げる事など許しません。まあ陛下もそのおつもりだとは思いますが」
「外堀を埋めてどうしたいのやら。それに、何だか嫌味な言い方ね、リュウホウ」
「当然でしょう。この時の為に、私は尚書郎にのし上がったのですから」
負け惜しみのように言う私をさらりと受け流すと、リュウホウは口を閉じ未だ続いている式を真っ直ぐに見つめた。どれだけ恨みがましく見つめても、もうリュウホウがこちらを見る事は無かった。
もう本当にリュウホウにこれ以上言葉を重ねても無意味なのだという事が分かって、ある意味決心が着いたのだろう。ぐっと腹に力を籠め、式が終わるその時まで皆が望むメイベル王国の妃としての役割に徹した。
―――私がメイベル王国へと帰国したのは、それから約二週間後の事だった。
リュウホウの言っていた通り、私は既に王妃という地位に繰り上げられており、女官長は本格的に私の供回りとして側に居るようになった。まだ子の居ない妾妃でしかなかった私が、王妃というメイベル王国一、高貴なる女人たる立ち位置に召し上げられるなど、前代未聞の事である。数多の高官、国司達からの謁見の申し入れを辟易としつつ受け入れながら、しみじみとそう実感する。実際、今回の一件はマルセルやリュウホウら側近達が強硬に押し通した事であり、結果的にこれが成されたとはいえ、多少の禍根は残っているようなのだ。
とはいえ、反王妃派などと呼ばれる官吏は極少数。殆どの官吏は此度の一件を慶事として受け止めているらしい。結果的に私は、既に王妃と言う立場を下りる事など出来ない立ち位置に居る事は事実だった。
正式にマルセルの隣に立つ事が出来る王妃となって、それまでとは変わった所と言えば、これまでマルセルの私室から遠い位置にあった部屋がぐっと近くなり、互いの寝室に足を運ぶ事が容易になったことくらいか。
周囲の女官や官吏との接触が増え、私的な贈り物を寄越す者達が増えたのには辟易をさせられるものの、ある程度私の意思を尊重されるようになったという事は、王妃という地位に押し上げられた良い利点の一つなのかもしれない。
それから―――。
「ルリコ、如何した?」
「何でも無いわ、マルセル」
「そうか」
含み笑いを漏らすマルセルは、何処か楽しげに私の隣に腰を降ろした。
私が帰国した際、「何故、事後承諾という形で王妃として繰り上げたのか」という問いに対し、マルセルは「外堀を埋めて置かなければまた何処かに行くだろう?」とえらく真剣な眼差しで答えた。
私の気持ちはどうなるのか、と重ねて問えば、マルセルは「惚れ直させると言っただろう? だからこそ、対等な身分で口説ける環境を整えたまで」と答えた。
それは屁理屈ではないのか…と嘆息したのは記憶に新しい。けれど惚れた弱みだ。何も返答をする事は無かった。
「陽国に里心が付いたか?」
「まあ。そう思う?」
「いや、無いだろうな」
低く嗤うマルセルの肩に寄りかかり、私はそっと部屋の前に広がる見事な庭園を眺め見た。その美しさはまるで絵画に描かれた美しい芸術そのものだった。そうして静かに眺められるのは、陽国へ向かう前には持ちえなかった穏やかに凪いだ心のお陰でもあるのだろう。陽国へ向かわなければ決して味わう事の出来なかった穏やかさでもある。
「この国が、私にとっては故郷よ。そう、自分で決めてしまったから。けれどそうね、出来ればまた陽国へ行きたいわ。ヒカイにも会いたいし、何よりあの国は穏やかで安穏とした空気がそこここに満ちている。優しい国よ」
「この国では味わえないものか。いずれはこの国にも、斯様な空気となれば良いのだが」
「そうね」
そう笑って私はマルセルの首に手を回し、降りてきたマルセルの唇に私の唇を重ねた。
*
その翌年、ラピス・ヤラ・メイベルは男児を出産し、メイベル王国では初となるいち妾妃から国王に並び立つ王妃へと召し上げられた。
マルセル・ヴィ・メイベルは当初多くの情婦を囲っていたがある時期を境にすべての情婦達を切り捨て、最終的に当時唯一の妾妃であったラピス・ヤラ・メイベルのみを手元に残したという。事のあらましは定かではないが、近年の研究によれば、妾妃を正妃として召し上げる為ではないのかとする説が主流となっているものの、それまで囲っていた情婦すべての縁を切った理由というものは未だ謎に包まれている。
後に宰相にまで登り詰めたマルセルの側近であり腹心であったリュウホウ曰く、「陛下が愛したのは生涯でただ一人、それは寵妃様である」と記している事から、高級官吏から娘達や縁者を召しあげるよう迫られたマルセルが苦肉の策で情婦として囲う事でその要求から逃れていのではないかという説も盛んに唱えられているものの、これもまた単なる方便に過ぎず、マルセルはただ女好きであったのではないかという説が有力視されている。
とはいえ妾妃が王妃となる前後に事が大きく動いている事は事実であり、そこにマルセルの意向が強く反映されていた事は歴史が証明している。
当時、妾妃の側近として側に居た女官長はこの節目にあった出来事を黙して語ろうとはせず、この時期に伺候していた官吏達もまた、この一件で口を割ることは生涯無かったという。
ラピス・ヤラ・メイベルのエピソードで最も有名なものは、隣国の元東宮、草薙近衛中将ヒカイとのエピソードだろう。二人は個人的に親しく文を交わす仲であり、東宮が立太子した際にはまだ妾妃であったにも関わらず臨席し、元東宮の立太子を心から喜んでいたという。
草薙近衛中将ヒカイ(後に東宮位を譲位し右大臣となった)は生涯独身を貫いた異色の人物ではあるが、それは次代の東宮に配慮したものであり、元々元東宮自身も婚姻を望んではいなかったが故の事である。
しかしながら当時の帝、嵯峨宮の日記を紐解くと、元東宮は既に婚姻していた女性に懸想し、この為に他の女性と婚姻しなかったのだという主旨の話が描かれている。しかし当時の元東宮の親しい女性の中で婚姻した女性の姿は無く、唯一親しくしていた女性がラピス・ヤラ・メイベルであることから、その懸想した女性とは妾妃の事では無いかという噂が立っているものの、これも単なる噂の域を出ない眉唾ものの説である。




