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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第二章
23/35

19

 ―――時は少し遡る。それは都を目前とした寺社で宿を借りた日の夜の事。

 時刻は既に深夜に差し掛かる夜半、ヒカイは僅かな月明りが照らす板張りの簀子すのこを手燭で進み、目的の部屋へと静かに進んでいた。

 寺の僧侶達も既に就寝している時刻だ。足音を消して棟を繋ぐ透渡殿(すきわたどの)を渡り再び母屋周りの簀子すのこを進むヒカイを見つめる者は誰一人としていない。夜陰に乗じて身を隠すように着装しているのは黒い無地の狩衣だった。冠は被らず腰に佩いた刀は刀身が短い小刀だ。本当ならば太刀を持ち歩きたい所だけれど、眼光鋭い僧侶達に一睨みされれば部屋に置いてくる他無かった。


 周囲を警戒しつつ慎重に足を運ぶのは、ヒカイの天敵とも言える人物がこの寺社に泊まっている為だ。その人物とは、メイベル王国の妾妃にして陽国へ共に赴いた国賓、ラピス・ヤラ・メイベル妃殿下の背後に控え、常にその身を警護している護衛武官―――ではなく、妃殿下の世話役として同行しているあの女官である。

 ヒカイの見間違いでなければ―――いや恐らく絶対に見間違いなどでは無いだろうけれど―――あの女官は妃殿下が王宮へと連れ戻される際、ヒカイと戦い勝利を収めた上、ヒカイをメイベル王国の牢獄へ入れたあの女性なのだ。

 赤みを帯びたピンク色の髪に翡翠色の曲裾を纏うその姿は、楚々として可憐。その素性を知らなければ良家の子女だと言われてもすんなりと納得してしまえる程度の気品をあの女性は纏っている。そう、知らなければ、だ。ヒカイにとってしてみれば、あの女性は正しく敵そのものである。

 勿論、女性―――確か名をメイファン・アイリスとか言ったか――にとってもヒカイは敵なのだろうが。


「何で、彼女が妃殿下の女官として出て来るんだ……」


 思わず小さく毒づいてしまったのは、ヒカイ自身あの時の敗戦を苦々しい記憶としてしっかりとその胸に刻んでいる為だ。実際、ヒカイがあの戦いでメイファンに遅れを取っていた事は事実。悔しいが、真正面から戦っても勝てる見込みは無い。勿論、ヒカイ自身武官としてそれなりの実力を有しているし、それはヒカイの主たる主上も認めている事ではある。

 けれども相手がそれを上回っているのだから、ぐうの音も出ない。恐らくは経験の差だろうとヒカイ自身は思っている。

 人を殺す為だけに鍛えてきたメイファンの剣と、純粋に人を守る為に鍛えてきたヒカイの剣は似ているようでその実全くの別物だ。殺すと守る、この差には大きく深い溝がある。


「妃殿下は、あの女官の正体に気付いているのか…?」


 いや、気付いてはいないだろうなとその考えを即座に否定した。

 はっきり言って、メイファンは恐らくメイベル王国の暗部に所属している暗殺者だ。それもとびきり優秀な手練れ。ヒカイ自身も、陽国の暗部と対峙した事があるから、その辺りは良く分かっているつもりだ。けれども恐らく妃殿下はメイファンの正体について知っては居ないのだろう。そうでなければあれ程までに砕けた様子で接する事など出来ない筈だ。


 思い出すのは昼間の事。

 柔らかな口調でメイファンに接する妃殿下は、穏やかな微笑みを浮かべていた。荒事等とは無縁の平和なその笑みは、ヒカイ自身にも向けられ、思わず頬が緩んだ程だった。まあ、その一瞬後に鉄面皮のメイファンから鋭い視線を向けられた訳だが。

 本来であれば陽国にはっきり言って素性が怪しいメイファンのような人間を入国させる事は愚策に過ぎるものの、暗部に所属する人間が自らを暗部の人間であると明言する筈もなく、かといってメイベル王国の国王より遣わされてきた人間を送り返す事も出来ず。

 つまりはそういった諸々の諸事情をも飲み込んで相手を警戒し監視する程度に留めておく事しか出来はしないのだ。まあメイファン自身も勝手の分からない異国の地で大きな事を起こそうなどとは思わない筈だけれど。


「やはり、主上にお頼みして警戒を密にするしか無い、か」


 それ以外にヒカイが出来る事はない。勿論ヒカイとていざとなれば刺し違える覚悟ではある。しかし用心しておく事に越した事はない。

 よし、と一人頷きながらもヒカイの足は着実に進み続け、漸く目的の場所へと到着した。妻戸(つまど)の前に詰めている武官に会釈すると一瞬視線が絡み合い、僅かに眉を上げた武官が軽く頷くのを確認した後、ヒカイは妻戸を閉めて廂の間に入って行った。

 薄暗い廂の間には、部屋を区切るように御簾が掛けられている。その御簾越しに膝を付き、ヒカイは部屋の主へとそっと声を掛けた。


「花山院様、ヒカイです」

「入れ」


 ヒカイは一度手燭を遠くへ置き、御簾を捲り上げて手燭を手に部屋の中へと入って行った。部屋の中央に敷かれたしとねに座る花山院は夜という事もあってくつろいだ格好をしている。冠も付けず、小袖の上から単衣を肩に掛けた姿はしどけなく、恐らく宮中の女房達が見れば色めき立つような姿である。流石は宮中で一、二を争う貴公子だな、とヒカイは冷静に分析する。

 羨ましい方だとは思うが、ヒカイにとって花山院のこの姿はもうすっかりと見慣れたものだ。流石に公では口に出す事等出来ないが、花山院とヒカイがこのような夜半に密談する事は最早日課にもなっており、何と言うか花山院に懸想する女房達には申し訳無いが、花山院の貴重な時間を割いてでも解決せねばならぬ問題が山積みなのだ。


「遅かったな」

「申し訳ございません。少し思索に耽っておりました」

「何事か問題でもあったのか?」

「いえ、少し気になる事がありまして。ですが、然程の問題でもございません」

「そうか、ならば良い」


 暗い部屋の中で唯一の明かりは、花山院の側に据えられた寺の僧侶が用意してくれていた燈台とうだいとヒカイが持ち込んだ手燭のみ。花山院の近くに腰を下ろしたヒカイは、花山院が取り出した書簡を受け取り、静かにそれを開いた。書簡は宮中から届けられたもので、その中には主上の密書も含まれている。

 暗喩を用いて書かれたそれらに目を通しながら、花山院の言葉に耳を傾ける。

 書簡に書かれた内容は、宮中でまことしやかに流れている噂話や東宮派と東宮反対派の今日までの動きなどだ。政治的な部分はヒカイにとってあまり関係のない話だなどと切り捨てる事は出来ない。何故ならばヒカイは政治の中枢に立つ一族の末席を担っているのだから。

 ヒカイの生家、草薙家は先の天皇家の流れを汲む一族である。故に未だ陽国上層部での発言権は大きく、現帝である主上の従兄弟、花山院とも浅からぬ縁を持っている。


「私は明朝、一足先に主上にお会いしてくる。恐らく準備は整っているだろうが、念の為だ」

「畏まりました」

「ヒカイには、妃殿下達に付いていて貰う。無理はするな。けれど用心を怠るなよ」

「はい」

「明日には都に着くんだ。あまり時間は無いがメイファン…とか言ったか、あの女官についても出来る限りの調査はしてあるだろう。くれぐれも侮られる事の無い様にな。我らの行動全てが陽国の意思であると認識されるのだから」

「分かりました」


 素早く読み込んだ書簡を丁寧に花山院へお返しすると、ヒカイはふっと笑みを浮かべる花山院を静かに見返した。


「全く、主上のお考えは私には分からぬよ。何故、妃殿下を我が国へ迎える必要があったのかすら、未だ明かされてはおらぬ。だが主上の命とあらば我らはそれを完遂するまで。何事かが起きる可能性も無くは無いのだ。何せ我が国は一枚岩ではないのだからな」


 ぽつりと呟かれたその不穏な一言にヒカイは僅かに気色ばんだ声を上げる。


「花山院様、それは…」

「あくまでも推測に過ぎぬ。だがここで東宮反対派が権勢を増してきたのには裏があるに違いない。恐らくは未だ立太子礼を受けておられぬ東宮の行き過ぎた行動の結果もそれに含まれているのだろうがな。彼の国にはその辺りを悟られぬようにせねばなるまいよ」

「承知しております」


 素早くそう返答したものの、さらりと口にした花山院の言葉にヒカイの内心は頭を抱えてしまいたい程の混乱の中にあった。何故国賓を招いている今となって、数年に一度しか起こらないような出来事が次々と起こり始めているのか。ああ、いや、それは違うか。恐らくは、わざとこの時期に被せてきているに違いない。


「我が国の恥が知られては事だからな。それに弱味をわざわざ見せてやる訳にもいかぬ」

「ええ、仰る通りです。我々は出来得る限りの力を持ってこれらを早急に対処せねばなりません」

「ああ、そうだヒカイ。そなたも十分覚悟しておくようにな」

「はい。私の力が及ぶ限り」


 一つ一つの出来事はそう大した事ではないのだ。けれどもそれが一塊となると、途轍もなく大きな問題となってヒカイの前に立ち塞がるのだ。ただの一武官であるヒカイには関係ないだろう、という部分にまで影響を及ぼす程に。

 難儀なものだと、とうに当事者となっている花山院はヒカイの苦悩に気付きながらもそれを敢えて指摘する事はせず、無難に言葉を返した。


「ならば良い。まあ我が国の政権が如何様になろうとも彼の国には関係の無い事ではあるのだがな」

「ええ、仰る通りです」


 生真面目に頷くヒカイの目と同じく、花山院の目には真剣そのものといった光が浮かんでいた。だからこそヒカイは今一度自身を戒める事で、気を引き締めた。


「だがこれは好機でもある。我が国で暗躍する貴族らを引き出すには丁度良い機会だ。ここで一度釘を刺しておくのも良いかもしれぬ。その辺りも主上のご意向を伺いつつ進めていこうか」


 けれどもその瞬間、脳裏に浮かんできた一人の女性の姿にヒカイは蓋をし見えない振りをする。それは何とも反射的な行動だった。今この場で自分が考えて居る事が知られたとするならば、ヒカイ自身にとって大切なものはなんなのかと問われたら、きっと上っ面の言葉しか口に出来ないだろうから。

 思考を若干飛ばしていたヒカイは、目の前に座る花山院の眉が瞬きする間に一瞬釣り上がり、元の位置へと戻って行く光景を見ることはなかった。


「まあ、そういう訳だ。さて、私も明日は朝が早い。今日はこれで仕舞いとするか、ヒカイ」

「はい、花山院様」


 これで密談は終わりだ。まあ今晩は、という注釈が付くが。手燭を手に立ち上がったヒカイに、花山院が「なあ、ヒカイ」と声を掛ける。その声の気安さに振り向けば、花山院は酷く真剣な眼差しでヒカイに言い聞かせるように念を押した。


「お前は妃殿下に気を許しているようだが、油断はするな。妃殿下も彼の国の要人なのだからな」

「はい」


 その言葉にしっかりと言葉を返し、ヒカイは花山院の部屋を後にした。平静を装っている訳ではなく、単に自身の胸に宿った複雑な感情を心の奥底に沈めたヒカイは、花山院を振り返る事無く妻戸を通って部屋を出ていく。

 以前は僅かな動揺の影すら悟らせなかったヒカイの変化に花山院が気付かない筈もなく、

 「本当に分かっているのであれば良いのだがな」

 などと呟いた花山院の言葉が、背を向けるヒカイの耳に入って来る事などありはし無かった。

 




 同時刻。陽国の都の一角に建つ、さる屋敷でも密やかな密会が行われていた。

 都で夜半に牛車が行き交う事はそう珍しい事ではない。大抵の貴族が外出を控える時刻ではあるが、想い人の屋敷に忍んでいく貴族等は少なく無いのだから。


「陛下より、密書が届いた」

「まあ。陛下は何と?」

「兎も角接触を急げと。まあ、内裏に出仕すればいずれ会う事にもなるだろうが、それを早めろと仰っておいでなのだろう」

「然様でございますか。光景(みつかげ)様は、どうなさるおつもりなのです?」

「無論、王命に従い明朝には接触するつもりだよ」

「そうですか」


 くすくすと鈴を転がしたような軽やかな笑い声が上がる。柔らかな女の肢体に触れながら、光景と呼ばれた男はそっとその身を褥へ横たえた。


「漸く事態が動くな。お前にも働いて貰うぞ、水影(スイエイ)

「はい。光景様」





 翌朝、ヒカイは些か憂鬱な気持ちを抱えたまま起床した。都はもう目と鼻の先ではあるけれど、それを喜びはすれ、このように憂鬱な気持ちを抱く事など本来であれば有りはしないだろうに。もそもそと朝食を終え、出立の準備を進める中、都から送られてきた牛飼い達に指示を飛ばしていると、ふと背後から声が掛かった。


「おはようございます、近衛中将殿」


 メイベル王国伝統の衣装をその身に纏い、柔らかく笑みを浮かべた妃殿下を見た瞬間、何故かヒカイはその憂鬱な霧が晴れていくように感じ、思いがけず、「おはようございます」と微笑んでいた。

 だからか、にこやかに微笑む二人の間に割って入り、無表情ながらもぴくりと眉を潜めたメイファンが、「寵妃様、あちらの牛車に乗せて頂くようですよ」と素早く妃殿下とヒカイを引き離したのは当然の行動と言える。些か苦笑気味にそれを見送ってヒカイは馬に跨った。

 都から今朝早くに寺社に到着した牛車は、国賓である妃殿下を迎える為だけに誂えた特別な物だった。ヒカイでさえ、このような牛車に乗っている方を見るのは初めての事である。物珍しそうに牛車に乗り込んだ二人を確認し、ヒカイは牛飼い童を先導して寺社を後にした。



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