18
メイベル王国を出立して五日が経過した昨日、一行は漸く陽国へと入国した。国土が広いメイベル王国は、四方に伸びる主要な道路を整備している。他国に比べれば舗装された道の多さは他国と比較しても格段に高い。この為メイベル王国が用意した馬車での移動は事前の計画通り順調に進んでいた。
陸続きの陽国は国土こそ小さいものの縦に長く続く国土はやはり地球にある日本を思わせ、何とも表現しにくい感情を沸き立たせる。
ああ、やはりこの国は日本そのものじゃないか。私の故郷とそっくりそのまま同じという訳では無いけれど、まるで日本に似せて作られたかのようなこの国は、私にとってはまるで故郷に里帰りしたかのような気持ちにさせられてしまう。いや、私自身が勝手にそう錯覚しているだけなのだけれど。
涼しげな川のせせらぎに耳を傾けながら、そっと馬車の窓を覗き込んだ。
「何とも長閑ですね」
「ええ、とても穏やかな場所です」
窓から見える陽国は道の両脇に水田が連なり、農夫達が汗を流しながら懸命に農作業に励んでいる。時折見掛ける子ども達の姿は溌剌としたもので、その元気のよさに思わず笑みが溢れた。
「この辺りは小作農家が殆どのようですから。けれど本当にこの辺りは富んでいますね。ここ数年、飢饉や冷害なども無いようですから、安定した収穫が出来ているのでしょう。この辺りの年貢は、他の地域に比べれば緩やかなものですから」
「左様ですか。成る程、皆が小綺麗な様も道理ですね」
目に見える範囲でのみ言えば、農夫達は一見して小綺麗である。無論、着ている物は野良仕事用の物なのだろうけれど、継ぎはぎが殆どなく、多少の縒れが見えるのみで貧困の色を感じさせる薄暗い小汚なさというものは綺麗さっぱり感じられない。
国境付近の都市は何処も貿易や物流を拠点とする要となっているのだろうが、陽国に関してのみ言えば、それは極一部の都市のみなのだろう。
カタコトと上に下に、左に右にと揺れる馬車の振動を感じながら、無表情で私を注視する女官から視線を外し、再び窓の外を見つめた。
「良い天気だわ」
「ええ、本当に。ですが寵妃様、体調が優れなければ直ぐにお知らせ下さいませ」
「ありがとう、メイファン。直ぐに伝えます」
「はい」
静かに頷いた女官の名は、メイファン・アイリス。私がまだ妾妃として上がる以前からマルセルの命で側近くに仕えてくれている女性である。とはいえ、王宮に居た頃は殆どその姿も見かけなかったのだけれど。確か、今の年齢は二十三歳だったか。この世界では既に結婚適齢期を過ぎてはいるけれど、メイファン自身は結婚願望が無いらしい。
ロードナイトの如き赤みの強いピンク色の髪をきっちりと結い上げ、隙なく曲裾を纏うメイファンは、何処か神経質そうな空気を携えてぴくりとも表情筋を動かす事無く無表情を貫いている。別段、何事か含む所があるという訳ではなく、単にそれがメイファンの自然体であるらしいのだ。
けれど、そうとは言っても気にならないと言えば嘘になってしまう。だからいつの日か私はメイファンに問うたのだ。
『メイファン、あなたがもしも私の側近くで仕える事が真に苦痛であるのならば、私が陛下に進言致します。勿論、あなたの処遇については良き様に取り計らいます』
『寵妃様――』
『メイファン、如何かしら?』
メイファンは首を振り、『その必要はございません』と言う。
その表情には些かの動揺も見つける事は出来なかった。
『私は自分の意思で寵妃様のお側に居るのです。もし寵妃様に不快なお気持を抱かされていたら、申し訳ございません』
『そんな、不快だなんてそのようなこと、一欠片もないわ。ただ、あなたはいつも表情を動かさないでしょう? ですから私が何か貴女に大変な事を押し付けてしまっていたのではないかと――』
『――申し訳ございません、寵妃様。私は寵妃様に大変なご無礼を致しておりました』
『メイファン?』
『私のこれはとても自然なものなのです。どうぞ平にお許し下さいませ』
『あなたが謝る必要は無いわ』
『いいえ。私が寵妃様の憂いの元となっているなど、どのようにお詫びをすれば良いのか…』
そこではたと気付いた。この流れでは、まるで私がメイファンを責め立てていたようではないか。そのようなつもりは微塵も無かったというのに。背筋に冷や汗が流れ落ちた。言い訳じみた言葉だけが脳裏に浮かんでは消えていく。話の切り出し方を間違えるだなんて、本当に何てことなの。。
目の前のメイファンは床に平伏して私の言葉を待っている。
微動だにしないその体から発せられるメイファンの感情は、けれど何の色も感じさせないもの。言葉の端々に残る微かな歯切れの悪さだけが、メイファンの感情を発露させている。
『ごめんなさいね、メイファン。私は些か急いていた様だわ。他意は無いのよ。貴女を侮辱した訳では無いの。それだけは分かって頂戴』
『寵妃様』
有能で、静かな女官。私にとってメイファンは、信頼をもって寄り添える数少ない人間の一人だ。
友人などではない。ただ、主従としてでの間柄でしかない私達だ。けれどもそれでも、私はメイファンを信用している。それはマルセルの命で付けられた女官だからではない。メイファンは私を裏切る事など無いと、そう感じさせてくれる何かをメイファンは持っているのだ。
『メイファン、私はあなたが嫌でなければこれからも側近くで仕えていて欲しいわ。如何かしら?』
『ですが、私は寵妃様の御心を煩わせてしまいました』
『あなたにそのつもりなどない、という事は十分に分かりました。いいえ、寧ろ私の思い違いで貴女に心労を掛けてしまったわね』
『寵妃様』
『私はあなたの事情に踏み込み過ぎたのかもしれないわ。ごめんなさいね、メイファン』
『いいえ、寵妃様。ですが私の事はどうぞお気になさらないで下さい。そのお心を砕かれるのはどうぞ陛下のみに。寵妃様を守り助けて行く事こそが、私の使命なのですから』
『……ええ、そうね。これからも私の側に居てくれる?』
『寵妃様の御心のままに』
流れるようにそう答えたメイファンに私はふっと笑みを浮かべた。
『ありがとう。これからも宜しくね?』
『はい、寵妃様』
あの時面を上げたメイファンは唇に微かな笑みを刻み、鉄面皮と影で称される事もある顔を僅かに綻ばせた。普段、鋼鉄の石の如く無機質さを感じさせるメイファンの空気が、時折柔らかく変化したり、或いは引き締まるのを理解し始めたのは、その頃の事だった。メイファンは決して、無表情などではない。その空気を感じる事さえできれば、その変化など如実に感じる事が出来るというものだ。
―――ああ、私はその人間らしい素直さを持つメイファンの姿に幾度も救われていたのかもしれない。
メイファンは感情を揺らす事のない常に凪いだ空気を纏っている。無論、そこには時折色を変え、感情を感じさせるものが宿るのだけれど。だからこそ、メイファンの側はとても居心地が良かった。
まるでどっしりと根を張る大木に寄り添うが如く、周囲の人々と環境が目まぐるしく変わっていく中で、メイファンだけは出会ったあの時と変わる事のない眼差しを私に向けて来るから。
もしかしたらメイファンは、マルセルやリュウホウの次に、私にとって大切な人なのかもしれない。
馬車がゆっくりと往来を進み、緩やかな坂の上にある社に止まった。半刻程、ここで休憩を入れるらしい。馬車から降りようか、それともこのままでいるのか一瞬迷ったものの、即座に動いたメイファンに制止され、私は僅かに浮かした腰を再び椅子へと戻した。
窓の外に見える景色は鬱蒼とした森の緑一色だ。ここらかもう少し先に行くと、再び民家の多い開けた土地が見えるらしい。
メイベル王国に居た時と然程変わらぬ長閑な景色であるというのに、何処か落ち着かない気持ちとなるのは、まだ見ぬ陽国の宮城を焦がれるような思いで夢想しているからなのだろうか。
陽国の都へ入る事が待ち遠しいと思う一方で、陽国の都と宮城を見ぬままにメイベル王国へと帰ってしまいたいと思う感情が私の心の奥に広がっている。
「私がここに居るのは、個人的な感情故の事ではない」
深く、深く息を吸って、一度大きく息を吐く。
「私はマルセルの妾妃」
胸に刻み込むように、心に染み込むようにしっかりと呟く。その声音は些かの動揺も感じさせないものだった。それに満足して一人馬車の中、微笑む。脳裏に蘇るのは王宮で別れたマルセルの姿だ。その姿を思い浮かべただけで、体の強張った部分がゆるゆると解けるように感じる。
今の私にとってマルセルは帰る居場所そのものでもあるのだと、そう思うのだ。
それから暫しの休憩を挟んで、御者に何事かを聞いてきたメイファンが馬車の中に乗り込んだ。
「今晩はこのまま順調に行けば街中の寺社に泊まるようです」
「そうですか。では、都まで暫く掛かるのかしら?」
「いいえ、明日には都に入れると御者が申しておりました。ですから恐らくは明日、宮城に上られるのでしょう」
一度言葉を切ったメイファンは私の目をじっと見返した。
「陛下より、参内なされる際には十分に用心せよと申し付けられております。ですから寵妃様もその心積もりでお願い致します」
「ええ承知しておりますとも。メイファン、メイベル王国の民として、引いてはメイベル王国の妃として私は恥じぬ振る舞いを致します」
「はい、寵妃様」
馬車から見える景色は段々と街に近付いているようだった。それからふと、気になってはいたけれど聞けていなかった疑問を口にする。
「ああ、そういえばメイファン。貴女、近衛中将殿と知り合いなの? 貴女を見ていた近衛中将殿が大層驚いておられたけれど」
「いいえ、寵妃様」
「そう」
きっぱりとそう言い切ったメイファンは常と変わぬ無表情に僅かな苛立ちを滲ませて馬車の窓を見遣った。
*
「これが、陽国の都…」
昨日、メイベル王国から連れてきていた馬車を自国へ返し、陽国が用意してくれていた牛車に乗り換えてゆっくりゆっくりと牛車は都の大路を進む。
御簾の隙間から見える大路は、舗装された平坦な道だった。大路を歩く民達は豪奢な牛車を見るや否や無遠慮な視線を向けて来る。私達に用意された牛車は、他の貴族達が乗っている物とは違い、華美な装飾が施されている。
馬車とは違い、速度のみで言えば馬車の方が格段に早く、牛車はそれに比べれば余りにもゆったりとしたものだけれど、この大路には馬車など似合わない。そう思わせる程度には牛車はとても風情があった。それに何より、未だ陽国で牛車は主な交通手段にもなっているのだ。この辺りは、合理性を極めたメイベル王国とは余りにも掛け離れている。
陽国は真実、伝統を重んじる国なのだろう。地球にあった日本と同じように―――。
「寵妃様、落ち着かれませ」
「ええ、そうね」
僅かに身を乗り出していた体を押し戻し、後ろに控えたメイファンの言う通りに息を吐いた。些か興奮し過ぎたかもしれない。少し、子どもじみた行動だったかなと今更ながら苦笑してしまう。さり気無く周囲に気を配るメイファンを横目に、私はゆったりと腰を落ち着けた。
「メイベル王国とは随分様子が違うわね」
「陽国は、独自の文化が発展した国ですから」
物見窓を僅かに開けて外を眺めていると、牛車を引く牛飼童は微かに緊張を滲ませて、ちらちらと御簾越しに私達を見つめてくる。明らかに陽国とは違う装いをした私達が気になって仕方がないのだろう。可愛らしい童子だ。
「寵妃様、あちらが大内裏ですよ」
「あれが……」
視線の先に見える巨大な門の前には、沢山の人々が列を成していた。




