あの日あの時あの場所で 3
「―――マルセルが、メイベル王国国王?」
まるで余りにも現実味の無い事を聞かされたとでも言うように呆然と、けれど少しばかり顔色を悪くしたルリコが口元を押さえてふらりとよろめいた。
その体を支えれば、腕の中に納まったルリコが体を固くしてそっと胸を押し、一歩後ろに下がる。余りにも動揺したその様には驚きを禁じ得ない。これ程までにルリコが驚愕を露わにしたのは、もしかすると初めての事ではないだろうか。
思わず、ルリコの名を呼ぶ。
「ルリコ…?」
「陛下、何も仰ってはいなかったのですか?」
呆れた表情で呟くのは、ルリコの世話を任せたリュウホウだ。この屋敷にルリコを住まわせて既に半年が経過しているが、私自身の事については殆ど話した事が無かった。言う機会ならば幾らでもあったし、ルリコ自身も“仕事のため”に屋敷を空けがちになっている私を訝しく思っている事も知っていた。だが、方向性が何ら定まらぬ内に私の背景について話す事など有り得ない。
ルリコを信用していない訳ではない。そんな単純な話で済むのであれば、すぐさま対処していた。しかし、私の振る舞い方一つで国の在り方すら変わる現状、安易な行動を取る事は得策ではない。
無論、私が王宮ではなく毎晩のようにこの屋敷に訪れて居る事は周知の事実であり、そこに愛妾を住まわせているのではないかと王宮で密かに話題になっていようとも、だ。
「ルリコ」
「申し訳、ございません。よもやマルセ…いえ、国王陛下とは知らず、数々のご無礼を致しまして誠に申し訳もなく。平にご容赦下さいませ」
そのまま直に平伏せんばかりに床に膝を付いたルリコを押しとどめ、近頃は漸く肉がついてきた腕をそっと握る。大袈裟に感じる程びくりと体を揺らすルリコは視線を空に向け、蚊の鳴くような小さな声で「申し訳ございません」と呟いた。
そのような顔をさせたくは無いというのに、降ろされた前髪に隠れた目はうろうろと辺りを彷徨い、色を無くした唇が小さく戦慄く。
「怯えるな。私を見ろ」
「陛下」
「マルセルだ。お前にはその名で呼ぶようにと言っただろう?」
「恐れ多い事にございます」
「ルリコ」
低く唸るようにそう催促すれば、泣きそうな程顔を顰めたルリコが「マルセル」と掠れた声で言った。
軽い足取りで近付くリュウホウは、「拗れてますね」と言いつつもルリコの背後に立った。
「驚かれた事とは思いますが、陛下に対する態度を変える必要はありません。陛下御自らがそれを望んでおられるのですから」
「は、い」
「ですが今は少しばかり休む時間が必要でしょう。陛下、御方を寝所にお連れしては?」
「私ならば、大事ございません」
「何を仰っておいでか。貴女は少しばかり疲れているのですよ。休まねば、体調を崩してしまいます」
「よもや陛下に不調を移される訳ではございませんね?」と脅すようにリュウホウが重ねて言えば、ルリコは蒼白な顔を必死に横に振り、「寝所で休みます」と答える。
ルリコ付きとしている“影”の女官にルリコを任せて部屋から二人が出ていくのを見送り、乱暴に引き寄せた椅子にどかりと座り込んだ。些か粗雑な行動ではあるが、内心の苛立ちを押し隠す事など出来はしない。
―――まるで、初めて会う人間の如く私を複雑な表情で見つめていた先程のルリコの視線を思い出す。
よもやあれ程までに動揺するとは思っても見なかった。ルリコであれば、「ああ、やはり」とだけ返されると思っていたのに。意外にも繊細な胸の内を晒すかのようなルリコの行動には驚かされるばかりだ。
度胸があるのに、時に繊細な表情を垣間見せ、同情を誘う。
けれど強かで強い女性の力を失う事は無く、頼もしい程の胆力を見せ、私自身も驚く程の忍耐力を発揮する事もあるというのに、寂しさを滲ませる子どものような表情をする時もある。
ルリコの人柄というのか、内面というものは非常に複雑だ。無論、人間という物はそういった傾向があるけれど、ルリコの場合、どれが真に迫ったルリコであるのかを分からなくしてしまう。そういう一面をルリコは持っているのだ。
掴めそうで、掴めない。掴んだと思ったら、霧の如く消えてしまう。
ルリコの表情はその時々で全く別の物を見せてくれる。それが何処か楽しく、何処か微かな苛立ちを募らせる。別段ルリコが自分を偽っている訳ではないと分かってはいても、だ。ルリコ自身は気付いてはいないのだろうが、ルリコは態度を使い分けている。誰もに丁寧に接する訳ではなく、誰もに慈しみを込めた言葉を掛ける訳ではない。本音と建前がはっきりしていると言い換える事が出来るのかもしれないが。
そういう意味では私自身はルリコにとって特別だったのだろう。私の前でのルリコは、実に様々な一面―――弱い部分ですらも―――を見せてくれていたのだから。信用されていると思えばこそ、微かな苛立ちも今までは抑えられていられた。
けれども今もそうせよと言われれば、頷く事など出来ない。
特に、あからさまに他人行儀な態度を見せられた後では。
「まさかルリコを遠い人間のように感じる日が来ようとはな」
嘆息すれば、リュウホウがからかい交じりに「陛下が女の事で悩まれるなど、初めて目に致しますね」と微笑む。それは面白がるような響きでもあったし、何処か呆れを滲ませた響きでもあった。リュウホウがここまで感情を露にするのも珍しい。
「これまでがあまりにも順調過ぎたのやもしれぬな」
「仰る通りですね、陛下。ですが陛下は御方の事をよくご存じでいらっしゃるのでしょう?」
リュウホウの目に宿るのは、私の内面の奥深くまで見通そうとするようなそれで、何と言う皮肉かと笑う事しか出来なかった。
然しながら私自身がルリコの事で確信を持って言える事が一つだけある。
それはルリコの中には太く強い芯があるという事だ。それは揺らぐ事の無いルリコの強さにも繋がっているもの。ある意味そこが、ルリコの頑なに閉じてしまった心を解きほぐす起点となるのかもしれない。
「陛下、如何なさいますか?」
「如何する、とは?」
「御方の事です。というより、陛下はルリコ――失礼、御方を放すつもりは無いのでしょう? であれば、やはり愛妾という形で納めるしかないのでは? 今でもそのようなものなのですから」
「…そうだな」
頷くものの、先程のルリコの様子からしてそのままにしておくことは出来ないだろう。
「ですが、きちんと妾妃として召し上げる事は出来ないでしょう。大体、身元すら変わらないのですから」
「リュウホウ」
「私は何も間違ってはいないと思いますが?」
「口が過ぎるぞ」
すっと目を細めて睨めば、飄々とした声で「申し訳ございません」という声が返って来る。とはいえ、反省していないだろうことは分かっていたので、ひたと見据えれば腰を折って謝って来る。
だがしかし、リュウホウの言う通りである事は確かなのだ。妾妃として上げるとなれば今まで私が落としてきた女共が何を言うか分かったものではないし、女共の親やら後見人も黙ってはいないだろう。無論、官達をも納得させなければなるまい。
とはいえ、ルリコ以外を妃に召し上げるだなどと今では考えられないのだから、どうするも何も答えは決まっているようなものだ。
「後はルリコ次第か」
リュウホウは僅かに眉を寄せて私を見る。
「何故そこまで御方の気持ちを慮っておられるのですか? 陛下ならば御方の意思に関係なく愛妾にする事など容易いでしょうに」
「リュウホウ、ルリコは他の女共とは違うのだぞ?」
そこなのだ、結局は。
大体、私が国王だと分かった時点で媚びて来る女共が殆どの中、怯え切った表情で私から離れようとする女は貴重だ。無論、駆け引きに持ち込もうと演技でそのような事をする女は居るのだろうが、ルリコのあれは真実どうしたら良いのか分からないといった表情そのものだった。
「それでは、現状維持という事で宜しいですか? 取り敢えずの処置として、ではありますが」
「そうだな」
「まあ、御方の事です。下手な行動はお取りにならないでしょう」
「そう願おう」
現状として出来る事は限られている。故に一時的な結論としてそう決めたものの、その直後に飛び込んできた女官によって事態は思わぬ展開へと向かって行った。
*
「―――ルリコが居なくなった?」
「はい。数分、目を離した隙に。申し訳ございません」
跪いて淡々とそう述べた女官は、「畏れながら屋敷の者達に手分けをして探して貰うようお願いしております」と付け加えた。この屋敷に詰めている下男下女は極僅かだ。私がそう指示をしたとはいえ、それが仇になるとは思いも寄らなかった。
ぎりりと奥歯が軋む。ルリコに万が一の事があった場合、平静でいられるとはとても思えない。
「行動力のある女子どもは厄介ですねぇ」
したり顔で頷くリュウホウを睨み付け、蒼白な顔で床を見つめる女官に指示を出す。
「早く見つけ出せ。見つけ次第、私の前に連れて来るように」
「御意」
「だが覚悟しておけ。ルリコに傷一つでも付いていた場合、影であれ何であれ、その命無いものと思えよ」
「御意」
音もなく素早く部屋を出て行った女官を見送り、思わず重い溜め息が漏れた。今すぐにでも飛び出していきたい衝動に駆られ、僅かに腰を浮かせれば、素早くリュウホウがそれを押し留める。全く察しの良い男だ。だが、それでこそ私の右腕とも言える。
「陛下」
「分かっている。私は待つだけだ」
ルリコに関する事となると、どうも私は我を忘れてしまう傾向にあるらしい。だがそれでも組み立てていたこれからの方向性について、改めて脳内で組み直す。さてあの頑固なルリコをどう説得するべきなのか。兎も角、公式的にはルリコは既に私の愛妾である事は確かなのだ。ならばそこから攻めるしか無い。
「御方は薄々、陛下の立ち位置についてご存知でいらっしゃったのやもしれませんね。というよりも確信が持てぬままにここまで来てしまったというべきでしょうか?」
「リュウホウ」
「ですが御方に帰る場所など何処にも無い。御方もそれを分かっていたから逃げるなどという暴挙に出たのでしょう。御方がここにいるのは、ある意味状況に流された結果のようなものなのですから」
リュウホウの言う事は正論だ。しかし、だ。
「それでも、ルリコを手放すつもりなどない」
「ならば強引にでも頷かせる他はございませんね、微力ながら私も出来る事を致しましょう」
「ああ、頼んだぞ」
*
それから―――。
ルリコは直ぐに見付かった。けれども逃げようとばかりするルリコを押し留めて話をする事など出来ず、どうにか説得を試みて明日きちんと話をする事をルリコに了承させた時には既に深夜となっていた。
翌日の荒れ模様は散々だった。しかしながらルリコをこの屋敷に留め、且つすべてを話した上で私の側に居る事を頷かせた事は、私にとって大きな転機にもなったのだ。
「私の側で生きろ、ルリコ」
「……はい」
愛している、と自然に口から言葉がこぼれ落ちた。愛、愛か。そのような陳腐な言葉で片がつくのであれば、ここまで頭を悩ませる事もなかっただろうに。
果てしない執着心と独占欲は、ルリコを前にすると後から後から知らず湧いて出てくるのだ。嵐に翻弄される小舟のようにルリコは戸惑い、困惑も露に私を見るが、その目の中に確かに存在する情愛の色が私の乾いた心を撫で擦っていく。
本当に、ルリコと出会わなければ、これ程までに強烈な――凡そ人間らしい――感情を味わう事など無かっただろう。それを思えば、私は奇跡にも似た運命によってルリコという存在を得たという実感が湧いて来る。
いや、まだだ。まだ完全にルリコが私のものになったわけではない。だからこそ私には成すべき問題がある。
誰の為でも無いルリコの為に、私はあらゆる事を成し遂げる。
そう決めたのは、ルリコへの僅かな贖罪をも含んでいたのかもしれない。ルリコには、帰るべき場所などこの世界の何処にも無いのだろうから。
この時から私は、ルリコを正式に妾妃として召し上げる為に根回しを始めた。
無論、その間にも様々な問題が噴出し、その時々で決断を迫られてはいたが、ルリコが逃げ出す事は無かった。
恐らくこの時に、ルリコ自身も何か大きな決断をしたのだろう。そうでなければ、様々な障害を前にして敢然とした様で立ち向かう姿勢など見せはしなかっただろうから。
そして現在、遠目から眺めるルリコの出立を見守り、遠ざかっていく馬車が見えなくなる頃、漸く私は立ち止まっていた回廊を歩き出した。
ルリコの側には今また“影”の女官が付き添っている。ならば何が起ころうとも安心する事が出来るだろう。あの頃よりも強固な守りをルリコの周囲に張り巡らせているのだから。
「陽国に紛れ込ませた者は如何している?」
「万事、恙なく」
「ばらば良い」
側近の打てば響くかのような力強い自信を覗かせる返答に満足し、私は歩みを進めた。




