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この部屋に連れて来られて何日が経ったのだろう。窓もなく、外の様子が一向に窺い知れないこの部屋では、一日に二食出される食事だけが時間を推し量る事の出来るものでもある。
部屋の中に常に焚かれた蝋燭の火は明るく部屋の中を照らしているが、それでも自分は一体これからどうするべきなのか分からなくなってくる。強硬的にこの部屋から脱出するべきなのか、もう暫く相手方の出方を待つべきなのか。
そんな悩みが大きく膨らんできた頃、俺は夜半に訪ねてきた人物と対面していた。
その人物の後ろに控えている文官らしき人物の視線は鋭く俺を射抜き、両脇で控えた武官は腰の剣柄に手を添えて俺の動向を注視している。その気迫の籠った眼差しからは、恐らく俺が何か一つでも不穏な動きをすれば、俺の首は間違いなく胴体から切り離されるだろう事実を言外に伝えている。
言われなくとも、この夜半に人目を避けて訪ねて来られるような御方が居るこの場にあって、そのような愚か者の真似などしないというのに。
俺はただじっと、肌をちりちりと焼く殺気にも似た威圧感を全身で受け止めながら、微動だにせず揖礼したままぐっと腹の下に力を入れた。そうしていなければ、怯む感情に抗う事が出来なくなってしまう。俺は単なるいち平民ではあるが、陽国の武官でもあるのだ。無様な真似をすることなど出来はしない。それが例え虚勢であったとしてもだ。
「お前が陽国の武官、ヒカイか」
「…はい」
ああ、やはり露呈していたのか。頭の片隅でそう冷静に受け止めている自分が居る。
豪奢な衣装を纏うその人の名は、恐らく―――。
「お前が我が妃と同行していた事は既に承知している。陽国からも、お前の処遇に関する返書が届いている」
読め、と放り投げられた書状には、国王陛下に俺が陽国の武官である事、また先任使者の一人としての処遇を求める一文が添えられていた。几帳面で神経質そうな性格が伺われる教本通りの整った字体は、正しく俺の主の筆。まさか、主自ら嘆願して下さるとは。噛み締めた奥歯が軋むように音を立てた。
「その年で羽林郎とは、大したものだ」
この瞬間、俺はただのヒカイから、羽林郎ヒカイに戻ったのだろう。頭上に降って来る国王陛下の言葉に垂れていた頭を更に深く深く垂れた。
「お前達が何を狙って我が妃を拐かそうと画策したのかは知らぬ。だが、我が妃に対して指一本触れてみろ。その命、無いものと思え」
「御意」
指一本、か。言いたい事は終わったとばかりにすぐさま踵を返したメイベル王国国王陛下は、武官と文官を引き連れて僅かな衣擦れの音を響かせ、部屋を出て行った。
その姿が闇に紛れて消えた瞬間、ヒカイの膝ががくりと崩れ落ちた。緊張の糸が消え、大袈裟に感じる程大きなため息がヒカイに与えられた広い部屋の中に響く。全く、どうすれば良いのだろうか。
「あれが、メイベル王国国王、マルセル・ヴィ・メイベル陛下か」
実際に目の前にすると、途轍もない御方だと感じる。やはり国王陛下は主と同じ、王者の風格を持つ方なのだ。
―――いや、実際にそうなのだろうな。
「ラピス寵妃にも既に伝わっている、のだろうな」
いつかは伝わるだろうという事は分かっていた筈なのに、胸の奥がささくれ立ったように騒めき出す。だが、自分の立場というものは以前から変わっていない筈だ。ならば俺は、俺の役割を全うするまでの事だ。
俺は一層の疲労感を感じて、寝台に寝転がった。
*
この王宮に戻ってきて十日、同時にヒカイと離れて十日が経過した頃、私は漸くヒカイとの面会を許された。
マルセルが陽国へ送った返書は直ぐに陽国へ届いたらしく、既に陽国の使者数名がこのメイベル王国へ入国し、昨日には王宮入りを果たしたのだという。それ故か今朝から王宮内は常に無く、慌ただしい空気に包まれている。
『なんとも手回しの良い事だ』と苦笑していたマルセルの言う通り、既に使者を立ててこちらの返書を今か今かと待ち侘びていたかのような迅速な対応に、私自身も驚かされてしまう。高々隣国の妃を一人招くだけだというのにどうしてこんなに手際が良いのか、何ともなしに身構えてしまう。
陽国という国はこのメイベル王国に接している隣国の一つでもある。
その気候や風土はメイベル王国と似たものであり、メイベル王国とは友好的な関係を築いている国でもあるけれど、なにせメイベル王国の国土は広い。この為、王都に住んでいた私には、陽国がどのような成り立ちをした国であるのか、どのような文化が発展しているのかを日常で知る機会というものは殆ど無かった。
だからこそ、何の思惑があって私を呼んでいるのか、いまいち私には想像がつかない。
恐らくはマルセルや、この目の前に立っているリュウホウであれば何か情報を掴んでいるのだろうけれど、私に伝える気は更々無いらしい。
私が幾ら尋ねてもはぐらかすか、陽国に纏わる歴史書か風土記等の書物を積み上げて、
『陽国へ行くまで全て読んで下さいね。後で試験して差し上げます』
と腹黒い笑みでそう威圧されるかのどちらかで、ともかく今は一つでも情報を得る為に陽国の書物を読み漁っている状態である。
有難い事に、陽国ではメイベル王国と同じ大陸共通言語を公用語としているので、特に問題なく読み進められている。ただ、既にメイベル王国では廃れてしまった古来の独自の言い回しが残る陽国の書物は、一部難解な表現技法もあって、この世界に来た当初に行った識字学習を再び行う羽目になったのは、複雑な感情を抱かざるを得なかった。
このシャナカーンという世界に来て、もう直ぐ五年。私を含めて私の周囲は錆び付いていた歯車が動き出したかのように、どんどん形を変えて変化している。それはまるで、この先に待つ大きな嵐の前触れとでもいうかのように。
空を見上げて立ち止まってしまった私に、リュウホウが声を上げた。
「ラピス寵妃、如何なされましたか?」
「いえ、何でもありません」
軽く首を振って再び歩き出せば、訝し気な視線を向けられる。けれどもそれを綺麗に黙殺して、私は再び女官の先導のもと、何故か陛下の命によって同行すると言うリュウホウを供にして、ヒカイが居る部屋へと進んで行った。私達の背後には、何事か起きた時の為に精鋭の護衛武官が数名控えている。
ふと、一陣の風が吹き抜ける。私は複雑に結い上げた髪に挿した幾つもの花簪にそっと触れた。
今回は特に国賓級の方と面会するとあって、女官達に早朝から数人掛かりで細釵禮衣と呼ばれる礼服を着付けて貰い、国宝級の宝飾品を用いて着飾っている。視界の端できらきらと反射する上品な耳飾りは、美しい紅玉が連なり、髪に挿した幾つもの花簪は少し頭を動かせば抜けてしまうのではないかと危惧する程にずっしりと重い。
これは明日、首と肩が凝るだろうなと、胸の奥で嘆息する。
ヒカイが居る部屋は、外宮に近い離宮の一室である。女官達が慌ただしく行き交う離宮の奥、国賓専用に誂えられた突き当りにあるその部屋付近は、常に無く物々しい空気に包まれていた。ざっと見ただけでもその部屋の周囲には武官が四、五人控えているし、部屋の前には王宮の衛士二人が詰めている。
まあ、他国の使者殿がヒカイと共にこの部屋の中に居るのだから、何事も無いよう警戒するのは当然だろう。
衛士が私達の姿を見ると深く一礼した。リュウホウが衛士達に指示を出し、ヒカイが居る部屋の扉をノックした。
「ラピス妾妃殿下の御成りです」
部屋の奥から聞こえる応の声に衛士が恭しく扉を開いた。
ここまで先導してきた女官が扉の側に控え、護衛武官が先に入室する。リュウホウが目線で入室を促し、私はその背に続いて部屋へと入室した。
広い部屋の中には落ち着いた色合いの調度品が並び、その部屋の中央にある応接用の長椅子の前に、ヒカイは居た。その隣に見えるのは、陽国の使者殿だろう。顔を伏せているから僅かにしかその容貌は伺えないのだけれど、使者として遣わされてきた方にしては些か若い気がする。精々、リュウホウと同じ位だろうか。
頭の片隅では冷静にそう判断しているけれど、私の頭を占めるのは目の前に並ぶ二人が纏う衣装についてだった。
私は二人の衣装を見比べて僅かに息を呑んだ。目の前に並ぶ二人の纏う衣装は、メイベル王国の衣装とは少しかけ離れているものだ。
勿論、その素材となっているであろう布は一目で最高級の品である事は分かるのだけど……。
実際、このような衣装を目にしたのはこれが初めてだというのに、身の内に沸き起こる既視感を私は拭う事が出来なかった。一体何処でこれに似た衣装を見たのだろうか。
ヒカイと使者殿が纏っている衣装はそれぞれ彩色が異なっており、ヒカイは赤色の薄く透けた袍を纏い、使者殿は黒色の袍を纏っている。頭に被った冠は、ヒカイが被る物が両頬に飾り毛があり頭の後ろで丸く巻かれているのに対し、使者殿の物は頭の後ろから下方向に緩く垂れさがっている。
この衣装は、何処かで見た筈だ。
それも極最近などではなく、遠い昔に、何処かで。
そうして数秒――いや、数十秒もの間、二人を凝視していた私は、不意に脳裏に浮かんできた答えに驚愕した。二人の姿が私の脳裏で見覚えのある一枚の写真に重なった。
確かそれは私が日本で暮らしていた頃に、授業で習ったある時代、ある場所で着装されていた公家の装束ではあるまいか。
まさかそんな、そんな事って…!
沈黙を保ったまま呆然と二人を見つめる私を、隣に立つリュウホウが鋭い眼差しで射抜た。その眼差しの強さにはっと我に返ると、胸の中に吹き荒れる感情を無理やり胸の底に沈め、私は努めて平静を装ったままきゅっと唇を引き結んだ。
今は、目の前の出来事に集中しなければ。考える事は、後でも出来るのだから。一度ぎゅっと目を瞑り、私は一歩前に踏み出した。
そうして、深く頭を下げたまま丁寧に供手の礼を取った二人を前に、私はそっと声を掛けた。
「面を上げなさい」
*
久方ぶりに見るラピス寵妃の姿は、気高くも雅な気品が自然と滲み、豪奢な衣装と相俟って一層近寄りがたく感じた。
うっすらと開いた赤く紅を刷いた唇は美しく孤を描き、神秘的な漆黒の瞳は静かに俺を見つめている。結い上げた髪に挿した宝飾品はどれもが最高級の物と分かる一級品。凛と背筋を伸ばしたラピス寵妃は、正しくその地位に相応しい高貴な女人だ。
……俺とほんのひと時だけ旅を共にしていた女性と同一人物とは、とても思えない。
やはりこの方は、俺とはそもそも身分が違うのだと思い知らされる。けれどもその顔色が少しばかり青白く見えて、俺は思わずラピス寵妃をじっと見つめた。
「――お久しぶりですね、ヒカイ。壮健そうなご様子、安堵致しました。陽国の使者殿、遠路遥々我が国にお越し頂き、恐悦至極に存じます。旅の疲れが癒えぬ中での此度の訪問、ご容赦下さいませ」
あの時と変わらず親し気に話しかけられ、俺は思わず瞠目する。実際、ラピス寵妃には詰められても可笑しくは無いと覚悟していた程だ。第一俺は、俺自身が陽国の武官であるという事すら話してはいないのだから。
ラピス寵妃の背後に控えた文官が、「妃殿下」と苦言を呈する。隣で跪く花山院様にはある程度の事情をお話していたとはいえ、ラピス寵妃の砕けた態度には少しばかり驚かれているようだった。然しラピス寵妃はそれに気にした様子もなく、ふっと微笑んだラピス寵妃は、「ああ、そういえば、私達はまだ正式な挨拶をしてはおりませんでしたわね」と呟いた。
「ヒカイ。私の名は、ラピス・ヤラ・メイベル。メイベル王国国王、マルセル・ヴィ・メイベル陛下の妾妃の地位を授かっております」
「ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。陽国にて羽林郎を拝命しております。ヒカイ・草薙と申します。再びお目に掛かる栄誉に預かり、誠に光栄に存じます、ラピス妾妃殿下。また、この場をお借りして、妃殿下にお詫びを申し上げ――」
「近衛中将殿、私はあなたに感謝こそすれ、お詫び頂く事など何一つございません」
きっぱりとそう言い切ったラピス寵妃は、ただひたと俺を見据えた。
「この件は、また後程。そちらが、陽国の使者殿ですね?」
「はい。ラピス妾妃殿下、お初にお目に掛かります。陽国にて侍中を拝命しております、サガラ・花山院と申します」
「かざんいん様…字は、どのようにお書きになられるのでしょう?」
「このように書きます」
花山院様が手近にあった文机から紙を取り出し、さらさらと書き上げた紙をラピス寵妃に見せる。
「近衛中将のお名はどうお書きになるのですか?」
再び花山院様が紙に字を書いて見せる。そこには花山院様の筆で流麗な字が二つ並んでいる。
陽国では古来より人名、特に姓を表す際には今では廃れつつある伝統的な識字を用いている。現在のメイベル王国ではこの識字を用いる機会も少ないと聞いているが、ラピス寵妃は驚く様子もなく感慨深そうにその字を眺め、美しい繊手でその紙を撫でた。
「美しい字ですね」
この識字を習わない他国の人間であれば、一目でそれが名を表す字とは分からず、単なる記号としてしか見ていないというのに、成程、ラピス寵妃はその辺りも博識であるらしい。
そう俺が思ったのも束の間、ラピス寵妃の背後に控えた文官の青年はそのラピス寵妃の様子を見て僅かな驚きと共に眉を顰めた。これは一体どういう意味なのだろうか。ただ静かに字を眺めているラピス寵妃を見つめてみても、答えは出てこない。
花山院様がラピス寵妃から受け取った紙を文机に置き、ラピス寵妃に椅子を勧めた。
「ありがとうございます、花山院侍中。草薙近衛中将もどうぞお座り下さい」
「いえ、俺…いや私は同席する身分にございませんので」
言葉が続かず口ごもる俺に、ラピス寵妃は小さく微笑んだ。その笑みに込められた親しげな情愛は、俺個人へのものだと思って良いのだろうか。
「草薙近衛中将には、私個人の御恩というものがございます。少しばかり、私のお話にお付き合い下さいませ」
「……御意」
ラピス寵妃の差し向かいに座った俺と花山院様ををラピス寵妃が目を細めて見る。その目に宿る奇妙な光が何に向けた事なのか、この時の俺にはまだ知る由も無かった。




