15
―――事態が動いたのは、それから三日後の事だった。
先触れにやって来た女官と共に、私は中庭へとやって来ていた。王宮に戻ってから五日が経っているけれど、私の周囲に敷かれた警備は以前よりも更に厳重なものとなっていて、それが解かれることになるのは恐らくもう少し時間を要するのだろう。
対外的に私は誘拐されていたのだから、この状況は甘んじて受ける他無かった。それは主に、女官達やこれまで私の警備に当たっていた武官達の名誉の為に。けれども今日ばかりはそれが少し緩和されている。きっと――というよりも恐らく絶対にマルセルが何か皆に命を下したのだろう。勿論それは歓迎するべきではあるのだけれど、この先に待つ御方からどのような話があるのか疑問がむくむくと頭を擡げる。
メイベル王国の王宮、その広い中庭には趣の違う様々な庭園が広がっている。待ち合わせはその中でも比較的小規模な庭園の四阿だ。武官達は距離を取って、女官達は少し離れた場所に控えたその先には、ピンと背筋を伸ばした気品溢れる美女が待っていた。
「お久し振りですわね、ラピス寵妃」
「お待たせして申し訳ありません。ええ、お久し振りでございます、ルビワナ様」
美しい薄紅色の被帛を腕に垂らしたルビワナ・ビレア黄門侍郎息女は私の前まで来ると優雅に供手の礼をし、私も同じく供手の礼をとった。
艶やかな大輪の薔薇を彷彿とさせる深紅の色彩をその身に纏うルビワナは、マルセルの情婦の中でも最古参の一人であり、私が妾妃となる以前から、いずれはマルセルの妾妃となるだろうと目されてきた女性である。内面から滲み出る気品と理知的な光が宿る眼差しは決して取って付けたようなものではなく、自然な形でその美しさに華を添えている。
私よりも二つ年下のルビワナは、現在十八歳。まさしく花盛りの美女である。
「ラピス寵妃におかれましては、先の一件で大層お辛い思いをなされた事でしょう。その後お加減は如何ですか?」
「お心遣い感謝致します、ルビワナ様。お陰様で漸く周囲も落ち着いてきた所です」
そう言葉を交わしながら、ルビワナの背後に控えた二人の侍女を流し見る。以前であればこの場にはルビワナの取り巻きでもある数人の令嬢達が控えていた筈だけれど、今日は何故かルビワナ自身の侍女達が静かに控えていた。侍女達は片膝を付く程に深く膝を曲げて供手の礼を取る。
「私は少しばかりラピス寵妃とお話する事があります。あなた方は下がっていなさい。――ラピス寵妃、少し歩きましょう」
「ええ」
恐らくは誰にも聞かれる事無く話がしたいのだろう。視界の端で女官が動き、一定の距離を置いて動いている。ルビワナの意図を汲み、そのまま遠ざかっていく侍女達を背にゆっくりと中庭の庭園にある池の畔まで歩いていく。その間、私達の間に会話というものは無い。
ルビワナはマルセルの情婦の中でも一、二を争う突出した美貌を有し、大袈裟でも何でもなく、恐らくはマルセルに最も深く愛された女性だった。マルセルの情婦の殆どが私という存在を毛嫌いし、嫌がらせや嫌味を言う為だけに私を呼び出す中、ルビワナだけは私の事を別段厭う事無く比較的良好な関係を保っていた。
ルビワナは意味の無い行動をするような女性ではない。
年齢以上に精神的に成熟した落ち着きを有し、自身の立場も行動の意味も全てを理解した上で理知的に振る舞う事の出来る女性なのだ。故に、ルビワナがこうしてわざわざ先触れを出した上で私を訪ねてくるという事は、何かしらの出来事が私の知らない部分で起こっているのだろう。
勿論、私にはそれを察する事しか出来ないのだけれど、何処か清々しい面持ちのルビワナを見るに、それはルビワナにとって歓迎するべき事なのかもしれない。
私達は二人で並び、池の畔にある長椅子へと腰掛けた。この距離であれば、私達の声は侍女達に聞こえる事は無いだろう。距離を置いた女官達にはある程度私達の話が聞こえているのかもしれないが、それはルビワナも承知の上であろう。
私達の間に流れる沈黙の口火を切ったのはルビワナだった。
「ラピス寵妃。私、嫁ぐ事になりましたの。ですから本日はそのご挨拶に伺ったのですわ」
「……! それは、おめでとうございます。ルビワナ様」
「ありがとうございます。ラピス寵妃」
ルビワナが嫁ぐ。それはルビワナとマルセルの別離を意味している筈だ。けれど、ふわりと笑ったルビワナの表情に暗い影は見えない。
「父が縁談を纏めて来ましたの。陛下とはもう縁が無いのだろうから、良き御方の元に嫁ぐようにと」
「お相手は、どなたなのですか?」
「羽林中郎将、ガルシア・イーレン様ですわ」
ガルシア・イーレン様。
ガルシア・イーレンという名は私自身は聞いた事が無いけれど、羽林中郎将という地位から言ってマルセル直属の部下である事は確かだ。
「以前からご面識がお有りだったのですか?」
「いいえ。ですが若くして羽林中郎将を拝命している御方として有名な方でしたから、お名前だけは以前より存じておりました」
…ああ、今思い出した。確か、羽林軍の中でも比較的物静かな方で武官よりも文官であると言われた方がしっくりと来る御方だった気がする。顔を合わせたのは私が妾妃として王宮に召し上げられて直ぐの事で、その一度きりだったけれど、武官らしからぬ空気を纏う方だ不思議に思った記憶がある。
とはいえ私自身にはどのような御方かは分からないけれど、黄門侍郎が選びに選び抜いた御仁なのだから、将来性のある、家柄も釣り合う男性なのだろう。
ルビワナは目を伏せて静かに言葉を重ねた。
「私、いずれ陛下の妾妃となる事が出来ると、それが私の未来に於いて当然の事だと思っておりました」
「ええ、陛下はルビワナ様の事を大層慈しんでおりましたね」
「はい。ですけれど私は、例えばこのまま幾人もの妃を持つ事になるであろう陛下の妃に納まり、陛下の寵を争いながら生きていくよりも、ただ一人の人を、私だけを愛してくれる御方のお側で静かに暮らしていく方が、私には合っているようなのです」
最近は頓にそう感じてなりません。
そう語るルビワナの憂いを帯びた眼差しには、溢れんばかりの懐古の念が宿っている。その視線先には、これまでの年月を共に過ごしたマルセルやその周囲に居た数多くの情婦達の姿が見えているのだろう。
十八歳という年齢は、この世界の女性達にとっては結婚適齢期でもある。マルセルが手を付けた女性達は大抵一定以上の年齢と家柄を有している女性ばかりだから、こういった出来事でマルセルの元を離れる女性はある程度存在しているものの、まさかルビワナ自身がそうなるとは私自身も考えては居なかった。
第一、ルビワナは情婦の中でも飛びぬけてマルセルに近い存在だったのだ。だからこそこの時に至ってルビワナ自身の気持ちが変化してしまった事は、私にとっても驚きという他無かった。
ルビワナはふと笑おうとして失敗した、ぎこちない微笑みをその美しい顔に浮かべた。
「私はもう陛下のお側近くに侍る事も、この王宮の奥深くまで来ることも最早ございません。ですから本日が本当に、ラピス寵妃とお会いする最後の日なのです」
「羽林中郎将に嫁がれるのでしょう? ならばこの後もまたお会いする機会があるやも――」
「いいえ、ラピス寵妃。イーレン家は元々、代々刺史を拝命していた家系なのです。故に私は羽林を辞すガルシア様と共にイーレン家が有する領地へと赴き、これよりは官吏の妻として生きねばなりません」
「そう、なのですね」
「ええ。ですから先日、陛下にもその旨をお伝えし、陛下との関係を全て清算して参りました。勿論それは、夫となるガルシア様もご承知の事です」
きっぱりとそう言い切ったルビワナに、私は思わず口をつぐんだ。マルセルとルビワナがどのような言葉を交わしたのかは分からない。けれどルビワナの様子から見てそれは、とても穏やかなものであったのではないかと思う。
けれども次にルビワナから出た言葉に私は思考を止めた。
「他の皆様方も、恐らくはそう遠くない内に皆陛下の御元を離れる筈です」
「それはどういう事なのですか?」
「ああ、陛下から何もお聞きでは無いのですね。ラピス寵妃が誘拐された後、皆様方はラピス寵妃の地位に納まろうと躍起になっていらっしゃいました。けれども陛下はこれに大層お怒りになり、皆様方は悉く関係を切られ、王宮の出入りを禁じられた後、追放の措置をなされました。その中には、御史中丞息女や、戸部尚書令息女もいらっしゃいます」
「何ということ……」
言葉を無くした私の姿に、ルビワナは「陛下はラピス寵妃が些末事に心を砕かれる事を良しとはなさっていないのでしょうね」と淡々と言う。
それはルビワナの言う通りなのだろう。けれどもそのような大事が起こっているのであれば、何が何でもマルセルに全て事情を聴き出したというのに。勿論、私がそれに口を挟む事など出来ないのだろうけれど、まさかマルセルが本当に情婦方をあっさりと手放すだなんて考えた事も無かった。
ぐるぐると様々な思いが頭の中を駆け抜ける中、ルビワナは「そろそろ時間ですね」と言って立ち上がり、私に向かい直って柔らかく微笑んだ。
「陽国は我がメイベル王国よりも複雑な成り立ちをした国です。どうぞくれぐれもお気をつけて行ってらっしゃいませ」
「…耳が早いですこと」
「それは勿論。私はこれでも陛下の寵を得た筆頭でしたから、これ位は当たり前ですわ」
「流石はルビワナ様、という訳ですね」
「ええ。影の方々には劣りますけれど、私の情報網は広く深いものですから」
くすくすと鈴の音を転がしたように笑い声を上げるルビワナは一度息を吐き、最上級の礼をとった。
「さようなら、ラピス寵妃」
「ええ。どうぞ息災であられますように、心よりお祈り申し上げます」
「光栄に存じます。それでは私はこれにて」
一片の未練も見せず、ただ静かに去っていくルビワナの背を眺めながら、私はルビワナに駆け寄る侍女達の姿を見つめ、先程まで座っていた長椅子に腰を下ろした。
そうして、その後直ぐにやって来た女官達の先導のもと、私は自身の部屋へと戻った。
*
ふわり、ふわりと下裳の裾が舞う。流れるように早く、緩やかに緩急を付けて扇を翻す。腕を振る度に、微かな衣擦れの音が辺りに響いていく。舞を支える音声は無い。けれども私の耳の奥では、かつてこの舞を習った時と同じく、悠久の時を超えた儚くも美しい音色が響いている。その全てが今は愛おしい。
ふっと、息を吐いた。終わりが近い。たおやかに、柔らかに指先をしならせ、背を反らす。
そうして、舞が終わる。ゆっくりと扇を捧げ持ち、緩く腰を曲げて一礼すれば、入り込んでいた世界から現実の世界に戻って来る。と同時に、静寂の中に遠くから鳴り響く鐘の音や葉が擦れ合う音が聞こえてくる。今日は随分と集中していたらしい。思わず一人苦笑していると、側近くで人の気配を感じ取り、私は扇を帯に差して振り返った。
「お前のやりたかった事とは、こんな事なのか、ラピス」
「その内の一つであるとは言えますね、陛下」
「そうか」
かつかつと沓音を鳴らして隣に並んだマルセルは、私の額にうっすらと浮かぶ汗で張り付いた前髪を指先で払い、愛おしそうに微笑む。その笑みに思わず動きを止めれば、マルセルは私の腰を引いて部屋に入り、女官が用意してくれていた手巾で汗を拭ってくれる。
「陛下、」
「上手いものだな。そなたの舞を見るのは何時ぶりだったか」
「三年程前になりますでしょうか」
「そなたは王宮に上がってから、舞を見せる事は無くなったからな」
「ええ」
やんわりとその手巾を奪おうとすれば、マルセルは私の手ごと手巾を包み込む。今日は、何かマルセルの様子が可笑しい。
「ルビワナ様の事、お聞きしました。嫁がれるのだとか」
「ああ。ルビワナが挨拶に伺うと言っていたからな。今日、来たのか」
「はい。ルビワナ様は……」
思わず口を噤むと、マルセルがふっと笑う。その笑みは何処となく影があるように思えてならないのは、私の思い込みなのかもしれない。その表情を読み取ろうと顔を覗き込めば、マルセルが腕を引いて、自然とその胸に顔を埋める形となって、私は身動ぎした。
けれど、その腕の強さに私は身を委ねる。
「もう顔を合わせる事も無いだろうな」
「陛下は、マルセルはそれで良いのですか?」
「ああ、勿論」
それでも、と思わずにはいられない。
「お前は昨日、気持ちが変わったのかと言ったな。私の中で、確かに気持ちが変わったのかもしれぬ。お前を失う位ならば、その他の女などどうでも良い。そう思ったのは事実だ」
「はい」
「だからこそ、待っていろ。お前の言う通り、お前を惚れ直させてやる」
「…楽しみに、しております」
マルセルの腕が緩み、私はマルセルから体を離して微笑んだ。マルセル自身が今はそう思うのであれば、そう決めたのであれば私に言うべきことは無い。これが今後どのような問題を引き起こす事になるのかは、今は誰も知らない。




