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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第一章
14/35

13

 メイベル王国の牢獄、その中でも比較的新しく清潔な一室でヒカイはごろりと寝転がった。

 ヒカイが牢獄に入れられたのは昨日の昼過ぎの事だが、出される食事はすべて質素ながらも庶民が一般に食する食事と何ら変わりはない。

 食材は多少傷んではいるものの腐った物は一つもなく、食事の量も十分に盛られている。

 しかも、だ。この牢獄にある独房は一つだけ。つまり、この牢獄に入れられているのはヒカイただ一人だけなのだ。

 ヒカイ自身、牢獄に入ったのはこれが初めての経験であるものの、これが凡そ一般的ではないということはヒカイにも十分に理解していた。

 けれど分からないのは、何故ヒカイをこのようにある種特別に扱うのかという事だ。


「まさか、俺の正体が露見した…?」


 いいや、それは有り得ないとヒカイは結論付ける。

 ヒカイが自身の主と繋がるような物など一切持ち合わせてはいないのだ。第一、ヒカイは凡そ隣国の官吏に顔や名前を覚えられる程の人間などではない。

 ならば考えられるのは、痺れを切らした主が動いたという事か。


 ガタンとヒカイの背後で外の扉が開く音が聞こえ、ヒカイはさっと飛び起きた。

 薄暗い牢獄の扉、そこから漏れ出した光を背にしたその人物は、漏れ出した光が逆光となってヒカイには目を眇めても判別する事は出来なかった。目の奥がチカチカと青く、黒く光り、ヒカイは構えの姿勢を取る。警戒を強めるヒカイとは対照的に、その人物は水面の如き凪いだ空気を纏っている。

 何だというのだ、一体。少なくとも看守などではないだろう。

 ヒカイの監視を務める看守は豪放な人物で、この牢獄を行き来する際も豪快な足音を鳴らして存在を知らせるかのように動いていた筈だ。

 するりろ音も無く入って来たその人物は、静かにヒカイの牢獄の前に立った。


「お前は、あの時の…!」


 シェンリュを探しに出た時にヒカイを襲った小柄な人物。その顔は薄い紗に覆われている為によくは見えないが、その雰囲気と背格好から女性のそれだという事がよく分かる。

 ただ立っているように見えて、何処にも隙がないその様は、暗部に生きる者特有の研ぎ澄まされた刃の如き空気を纏っていた。

 不味い事に、この牢獄に入れられてからというもの、ヒカイの得物()は取り上げられてしまい、武器になるような物など持ち合わせては居なかった。

 どうする?

 背中に嫌な冷や汗が流れるのを感じつつぐっと奥歯を噛んだヒカイを前に、その人物は何処からともなく取り出した鍵を使い、ヒカイの独房を開けた。

 けれども中に入る事はなく、小さな顎をすっと外へ向け、言外に独房の外へ出るように伝えて来る。


「着いてこい、という訳か」


 歩き出した人物の足は速い。その後ろに着いていきながらもヒカイは油断なく周囲を見渡した。無防備に背中を晒すその人物は、恐らくヒカイが襲い掛かったとて返り討ちに出来る程の実力があるのだろう。そうでなければ、これ程までに綺麗にヒカイの存在を無視する事は出来まい。

 牢獄のあった区間は王宮の中でも端に位置している筈だが、高い生垣に囲まれた道を進んでいるため、自分が今何処へ向かっているのか全く把握できない。牢獄からの道を悟らせない為の方策なのだろうが、方向感覚が狂いそうになっている事に気付いてヒカイは昂る気持ちを意識して落ち着けた。

 とにかく今は、目の前の事だけの集中するしか無い。

 動揺しつつもそう決意したヒカイの変化に気づいたのか、目の前を歩く人物がくすりと微かな笑い声を漏らした。


 完全に舐められている。だが今は、静かに起こる出来事に対処していく他無いだろう。

 どの位歩いたのか。多分恐らくだけれど、牢獄を出てそこまで時間は経っていないだろう。目の前の人物がある建物の前で立ち止まると僅かに半身を振り返り、先に建物に入るようにと促した。

 行くしかない、か。

 覚悟を決めて建物に入れば、そこは高い天井のある広い一室だった。

 部屋の中はある程度整っていて、特別に格調高い部屋ではないものの、一般の庶民が入れるような部屋ではない事はよく分かった。

 この部屋に窓は無く、出入り口も先程ヒカイが入った扉しか無いようだ。

 背後でその扉が閉まる。


「一体、何が起こっているというんだ?」


 ヒカイは広い部屋の中でただぽつりと呟いた。





 マルセルは帰還したルリコの居る部屋を回廊から眺め、踵を返して自身の執務室へと向かった。

 ルリコには直ぐにでも会って話したい事はあるが、今はそれよりも先に片付けなければならない問題がある。


「本当に良い時期に来たものだ」


 マルセルは先程、側近の一人から手渡された書状を前にうっそりと微笑んだ。

 それは今朝早くに隣国から届けられた親書である。美しい螺鈿細工が施された文箱に入ったその親書には隣国の国王のみが扱う事を許された国王の印璽が押されている。

 それはこの書状が確かに隣国の国王からもたらされたものであるという事を言外に示しているのだ。

 それはマルセルにとって大きな意味を持つ。

 特に、その親書の内容が更にその意味を高めてくれ、思いがけない僥倖に笑い出したくなった程だ。


「ええ、本当に良い時期に来たものです。隣国の国王は、案外気の利いた御方なのかもしれませんね」


 飄々とそう返すリュウホウは少しばかり髪を崩して、疲れも見せずにやりと笑った。その笑みはマルセルと同じく、全てを理解した上での強かなもので、マルセルはふっと息を吐いた。


「ああ、これで全てが整う。あちらには感謝せねばならない程だ」

「それでは?」

「明日にも書状を返そう。時期はそうさな…一月後で良いか」

「ええ、それであちらの御方も納得されるでしょう。ではこれで準備を進めて参ります」

「頼むぞ、リュウホウ」

「御意、陛下。すべては陛下と妃殿下の御為に」

「ああ」





 次に目を覚ました時、時刻は深夜に差し掛かっていた。

 このメイベル王国に時計というものは無い。いや、あるにはあるものの大雑把な括りの物があるだけで、部屋の窓から見える空は未だ暗く、美しい白銀の月が地上を照らしている。

 この部屋から見る景色というものも、随分と久しぶりだ。この王宮から見る景色と、王宮を出てから見上げていた空の景色は同じ空であるにも関わらず、別種の空に思える。

 地球に居た頃は、空の景色の違いだなんてそれ程気にした事は無かったというのに、どうしてか今の自分の立ち位置というものを考えると、目の前にフィルターが掛かったかのように景色がぼやけて見えてしまう。

 それは私自身が、未だこの地で生きていくのだと決めたその時の感情が、色褪せて揺らいでいるからだろうか。


 そう感慨深く思っていたからだろうか、部屋の中に居る人の気配に気づかなかったのは。

 不意にかた、と部屋の中で音が鳴り、思わず身を固くすると、部屋の中にある蝋燭に明かりが灯った。

 その明かりに照らされた思いがけない人を前に、私は息をするのも忘れて食い入るように見つめた。ああ、何てことなの。


「マルセル」


 そう、そうなのだ。そこに居たのは、このメイベル王国の国王にしてこの王宮の主、マルセル・ヴィ・メイベル、私を妾妃としてこの王宮に召し上げたその人だった。

 裾の長い上着を羽織っただけのその姿は、胸元が開き、壮絶な色気が漂っている。湯上りなのか常に結われている髪は背中に流され、ひたと私を見つめる瞳は艶めいて見えた。

 どうしてマルセルがここに居るの?

 そんな感情が表に出ていたのだろう。マルセルが僅かに苦笑する。


「ルリコ、久しぶりだな」

「ええ、本当に、お久しぶりです。マルセル」


 心の準備もなくいきなり再会したのだ。私の頭はもう真っ白になってしまっていた。何を話して良いのか分からないし、何を言えば良いのかも、多少は考えていたけれど、実際にマルセルを目の前にすると言いたい言葉が全く出てこない。

 あれ程までに、伝えたい言葉が溢れていたというのに。

 二の句が継げない私を見て、マルセルは先程まで座っていたのだろう、部屋の隅に置かれていた椅子を寝台の隣に置いて、静かにその椅子に座った。

 緊張に身を固くすると、マルセルは唐突に口火を開いた。


「ルリコ、そなたは私を嫌いになったのか?」

「まさか! そんなわけ無いでしょう。私はずっと…ずっとあなたの事だけを愛しているのよ」


 反射的にそう返し、本音が零れ落ちてはっと口元を覆った。

 ああ、こんな事、言うつもりは無かったのに。どうして口走ってしまったのか。

 恥ずかしさに顔が赤く火照り、私はきゅっと手を握りしめた。


「ならば何故、逃げ出した?」

「……あなたにとって私は、必要の無い人間なのだと悟ったからよ」

「それで国の端まで逃げたのか?」

「逃げた訳ではないけど、私はあなたの妾妃に相応しくは無いでしょう? それに、あなたは私を本当は妃になど召し上げるつもりは無かったのでしょうし。だからこそ私は、この王宮から逃げ出した。あなたが私を必要無いのであれば、私の居場所はもう此処には無いのだから」

「誰が、そなたに私の妃に相応しく無いなどと言った? 召し上げるつもりが無かったなどと、何故にそう思い至った?! 誰が、ルリコにそのような事を吹き込んだのだ!」


 思わず、といった様相で私の肩を強く掴んだマルセルに、私は吃驚してしまって目を見開いた。

 けれどもそのマルセルの目に宿る怒りとも憎悪ともつかない煉獄の炎を見つけ、私は慌てて首と手を振って否定する。


「誰に言われた訳でも無いわ。これは私自身が考えた事よ」

「誰ぞを庇っている訳ではあるまいな?」

「どうして私が誰かを庇う必要があるの? 本当に、私が自分で考えて答えを出した結論よ」


 じっと、探るように覗き込むマルセルの視線を目を逸らさずに見つめ返し、私はじっとマルセルを見つめた。


「前にも言ったが、私はルリコ以外を妃に召し上げるつもりは無い」

「マルセルには情婦方が沢山居るじゃない。あなたは、多くの女性達と交際する事こそ男の嗜みと申し上げていらしたでしょう。だから、妾妃は私でなくとも良いでしょう?」

「お前は、愛してもいない人間を生涯の妃にしろとでも言うつもりか」


 低く唸るようにそう返されて、唐突に腕を引かれる。自然とマルセルの胸に顔を押し付ける形となって反射的に身を引くけれど、マルセルの腕が素早く背中に回り、離れる事など出来なかった。


「ルリコには、陽国に行って貰う」

「陽国…?」

「ああ、今朝方に陽国から親書が届いた。私の妃を陽国に招きたいという、公式な招聘だ」

「どうして、私などに、」


 戸惑いを隠せずにそう言えば、マルセルは喉の奥でくっと笑った。


「お前を護衛していたという男、ヒカイと言ったか。ルリコはその男の正体を知っているのか?」

「いいえ、知らないわ。けれどヒカイは私の恩人よ。ヒカイに手荒な真似はしていないわよね?」

「さあ、どうかな」

「マルセル…!」

「冗談だ。ああ、勿論丁重に扱っているとも。あの男は、陽国の武官だ。それも国王の密命を拝命していた側近中の側近。ルリコの側に居たのも、大方その命によるものだろう」


 あのヒカイが、陽国の武官。

 鈍器で頭を殴られるかのような衝撃が私を襲う。けれどそれ以上の衝撃はその後直ぐにやって来た。


「密命、ってどういう事なの?」

「あの男はな、ルリコ。お前を陽国に連れていく事こそが己が使命だったのだ。恐らくあちらの国王が痺れを切らしたのだろうな。私に直接親書を送って来たという事だ」

「連れていく、こと」

「そうだ。だが私にとっては僥倖。そうとしか言いようが無い。先程ルリコに、そなた以外を妃として召し上げるつもりは無いと言ったな」

「ええ。でもそれが何だというの?」


 マルセルの顔を見上げてそう問えば、マルセルの企むような微笑みが浮かび、頭の中で警鐘が鳴り響いた。だからその言葉を聞いた瞬間、私は自分の耳を疑う他無かった。


「―――ルリコ、そなたを私の正妃に据える。そなたはこの国で唯一、私と対等な立場になるという事だ」

「嘘……」


 まさか、そんな筈はない。

 衝撃の大きさが強すぎて、私は思わず素の言葉で返していた。


「私は身分も定かではない庶民上がりの女でございます。その私が、正妃になれる筈無いではありませぬか!」

「ほう、漸く本音が出始めたな。だがこれは既に決めた事だ。誰であれこれを覆す事など出来はしない」

「そのような大事、何故私に言っては下されなかったのか! そうであれば私は、どんな手を使ってでもこの場に戻って来る事などありませんでしたのに!」

「逃がしはしない。それこそ、私自身のあらゆる伝手を使ってお前をこの国から――いや、王宮から出す事などしない。ルリコが了承せずとも私にはそう命令出来る力がある。それはそなたももう分かっている事だろう?」

「酷い…」

「酷い? なにを言う。手紙だけ置いて話す事すらせず逃げ出したのはルリコの方ではないか!」

「マルセル」

「兎も角、ルリコは一月後には正式に私の妃となる。その上で、陽国に行って貰う。そう時間は掛からないだろう」


 私の髪を梳き、溢れ出る涙を拭ったマルセルは私の唇に口づけを落とし、私の耳元で甘く囁いた。


「ルリコが望むのならば何でもしてやろう。だが、こればかりは行って貰う他無い」

「私は正妃に相応しい女ではありませんのに」

「それでも、私はそなた以外を妃にするつもりなどない。それに、陽国のこの親書で漸くそなたの地位も固められたのだ。今の好機を逃す手は無い」

「好機…? 何が好機だというのですっ」

「陽国は私の〝妃〟を招聘した。妾妃ではなく、私の妃を。そしてその名に記されていたのは、ラピス・ヤラ・メイベル。つまりそなたは私の唯一の妃として陽国の国王に認められたも同義であろう?」

「詭弁ではありませぬか」

「詭弁だろうとも。だが、何故私が側近達を急ぎ国の要に据えて行ったのだと思う? すべては今この時の為だ」

「あなたは、ただ私を正妃にするためだけに、そんな事をしたというのですか? そんな、そんな回りくどい事をしてまで、私を正妃に据えたいと?」

「ああ、その通りだ。何度でも言ってやる。ルリコ以外に私の妃は必要ないし、妃を召し上げるつもりは毛頭無い」


 どうして、なのだろう。

 不意に涙が溢れて来る。マルセルと私自身の認識の違い。それがこれ程までに乖離していたなんて。


「ルリコは私を愛していると言ったな。その言葉に嘘偽りが無いのであれば、大人しく従え」

「それはメイベル王国の国王としての命令なの?」

「いいや、私自身の――マルセルとしての願いだ」

「願い、」

「そうだ。拒みたければ拒んでも良い。でも、そうするのであればこの王宮から生涯ルリコを出す事は無い。覚えておけ。どんなに時が経ったとしても、私はお前が頷くまで何度でも言う。そして、ルリコの意思に関わらず、私は必ずルリコを正妃に据える」

「何を…では私は、頷く事しか出来ないではありませんか」

「そうだな」


 マルセルの言葉の端々には、マルセル自身の苦悩が見え隠れしている。矛盾している、と思う。マルセルは私を正妃に据えたいが、拒んでも良いと言う。けれど私の意思に関わらず、私を正妃に据えるだなんて。

 酷い矛盾だ。

 けれど、それでも。

 私はきっとそれを拒めない。

 マルセルは最初に私を助けてくれた恩人だ。けれどそれ以上に、この世界で愛を交わし、配偶者となった大切なパートナーでもある。けれど私の意思を尊重したかに見せて、少しも尊重しようとはしていない事実に私は打ちのめされた。


「今日はもう遅い。明日、また話すとしよう」

「マルセル!」

「私はもうルリコを手放せない。だから諦めろ。諦めて側に居ろ。そうすれば全て丸く収まるのだから」


 そう言って去っていくマルセルの背中を、私はただ茫然と見送る事しか出来なかった。


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