10
シャナカーンというこの世界に来て随分経った頃、私はマルセルがこのメイベル王国の国王陛下であることを知った。
マルセルに対して丁寧に対応している武官や文官の姿勢、そしてマルセルの事を『殿下』と呼ぶ彼等の姿から、およそ平民ではなく何処かの貴族の令息か王族に準ずる立場の人間なのではないかと思っていた。
けれどもそれが、予想を遥かに上回る立場にある人だとは思ってもみなかった。
当然の事ながら、私は直ぐにマルセルの元を離れようとした。
マルセルは頑として譲らずそれを許す事は無かったが、実際に夜陰に紛れて逃走を図った事もある。無論、直ぐに見つかってしまったのだけれど。
マルセルは言う。
『お前以上に欲しい存在はこの世界の何処にも居ない。だから私の側を絶対に離れるな。そうすればお前を世界一幸せな女人にしてやろう』と。
傲慢さすら感じるこの強い執着と独占欲が凝縮した言葉に、私は陥落した。
その選択に後悔は無い。
けれども今またこうして逃走を行っている今、私はマルセルの大きな存在を思い浮かべずにはいられなかった。
私にとってマルセルは、言葉通り最愛の人だったから。
それは今も、今に至っても変わる事のない真実。
「行きましょう」
夜明けと共に動き出したヒカイの隣で、私は遠く離れてしまったマルセルを想う。
いつかこの記憶が、思いが、綺麗な思い出になる事を祈って。
*
メイベル王国の王都に建つ荘厳な王宮は、別名、赤の宮殿とも呼ばれている。赤い瓦葺きの屋根に全面朱塗りの様相から、そのような名が流布するようになったという。
今では赤殿や赤帝殿等と様々な呼称で呼ばれる王宮にあって、マルセルは王宮の奥深く、時の国王陛下にのみ許された執務室で報告を受けていた。
「―――再びラピスが逃げた、という事か?」
「ええ。捕らえる後一歩という所まで来ていましたが、寸前で取り逃がしました。現在は陽国の武官、ヒカイと名乗る元護衛役の男と逃亡中のようです」
「元護衛役、か」
マルセルの目の前に立ち、ピンと背筋を伸ばして淡々と報告書を読み上げているのは、つい先頃まで第二都市に出向していたマルセルの側近であり、近々僕射に任じられる予定の尚書郎リュウホウである。その表情は平静を装っているものの、隠せない苛立ちと悔恨の念を滲ませていた。
元々、リュウホウとラピスは、マルセル自身がラピスと出会った当初から関りのある既知の仲である。リュウホウ自身にはラピスとの関係において何ら含む事は無いのだろうが、冷徹なまでに感情を削ぎ落とした鉄の理性を持つリュウホウはこれでいて面倒見が良く、右も左も分からぬラピスを出来の悪い生徒扱いしていた節がある。
そのため、リュウホウが苛立ちを見せているのは、折角「身分を弁えた、理性的な慎ましやかな妾妃たれ」と教え、育て上げていた生徒にその信頼を裏切られたかのような、そんな怒りが沸いているのだろう。
無論それは私も同じ事だ。出来る事ならば今直ぐにでも王宮に連れ戻して監禁し、泣いて懇願するまで徹底的に締め上げた後、より強固な檻に閉じ込めたいという思いは日に日に強くなっていく。
私にとって、ラピスという存在は無くてはならないものなのだと、ラピスが居なくなって初めて実感させられたのだ。
ラピスの不在に託けて取り入ろうとする山のような情婦は既に粗方処理をした。ラピスが居た頃はあれ程までに食指が動いていたというのに、今は視界に入れるだけでも不愉快な存在だ。事態を静観するなら良し。女同士で競い合い、私に少しでも情けを掛けて欲しいと懇願する者達は、全員悉くそれぞれの生家に送り返し、王宮の出入りを禁じた。
それでもまだ怒りが収まらない場合には、実質の国外追放に追いやった者も居る。
その中には当然、今回の一件に関わったと思しき御史中丞の娘もその中に入っている。
一ヶ月前、白影がもたらした情報によってラピスがシェンリュという偽名を用いて髪の色を変え、舞姫として旅の一座に身を置いている事を突き止めた時、私は息を飲む他無かった。
ラピスは以前から事の他、自身の故郷を想う縁として、メイベル王国では珍しい、ラピスだけが纏う漆黒の髪を大事にしていた。その色を変え、自身の生き方すら変えてマルセルの手の内から逃れようとするその意思の強さには、新しい人生への並々ならぬ決意が見え隠れしている。
だがそれはマルセルにとって、断じて許す事の出来ないものだった。
「ヤーイー旅楽座だったか。ラピスを売った女はどうしている?」
「州城内の牢屋に放り込んでいますが、如何なさいますか?」
リュウホウの目には、剣呑な光が宿っている。それはマルセルが応と言えば直ぐにでも処罰を与える用意がある事を示していた。
然し今はその時ではない。
「取り敢えずはそのままにしておくように。ラピスの捜索はどうなっている?」
「州兵を動員して手分けして探させています。恐らく十日以内には良い報告が出来るものかと」
「そうか。ご苦労だったな。報告が以上ならば下がって良い。だが、見つけ次第即座に報告を上げよ」
「御意」
部屋の扉が閉じると同時に、何処からともなく一つの影が降りてくる。別段リュウホウが居ても問題は無かったが、やはり詳細な話を詰めるあらば、裏から手を回している当人に聞くのが手っ取り早い。
「白影、改めて報告を寄越せ」
叩頭し、淡々と報告を行う白影の声に耳を傾けながら、マルセルはゆったりと足を組み替えた。
*
―――あれから五日が経った。私は未だメイベル王国で旅を続けている。傍らに居るのは、私を五日前のあの日に屋敷から連れ出してくれたヒカイだ。
水色の下裳に白地に淡いピンク色の鈴蘭が刺繍された上衣を纏った襖裙姿の私と上下黒の袴褶姿に水色のターバンを頭に巻いたヒカイは、第二都市から随分と離れた田舎町で共に乗り合い馬車に揺られている。
メイベル王国全土を隈無く走っている乗り合い馬車は貴重な交通手段である。勿論都市部から郊外の外れまでの短い距離ではあるけれど、馬を買い、或いは徒歩で移動するよりも格段に早く目的地に着くことが出来る。
貴族達が利用する馬車とは違い、平民の乗る乗り合い馬車は窓もなく作りも簡素で、馬車の振動が直に足と腰に伝わり、慣れない馬車に乗ると腰を痛めてしまう。
今は馬車の荷台を覆う屋根と一体化した壁布と背中の間に丸めた服を押し込んでクッション変わりにしている。ヒカイも同じように工夫してはいるが、いつでも逃げられるようにだろうか、僅かに空いた隙間から周囲を警戒しつつ腰に差した刀は手放す事なくしっかりと右手の中に収まっている。
無論それは山賊や野盗に襲われる可能性への警戒だけではなく、あの日、太守と名乗った男が未だ配下を動かしていないとも限らないが故の警戒だった。
ヒカイは、この事実をどう思っているのだろう? ヒカイはただ、「お供します」と言ったきり、以前と同様に護衛役のような形で私を守ってくれている。
勿論、それが善意だけで行われている物とは考えていない。
けれどヒカイが何故私を助けてくれたのか、その真意は未だ見えて来ない。
私を売る為、というのは考えたくは無いけれど、可能性としては大きい。
もしもこれで売られるのであれば、私は甘んじて受け入れようと思う。ヒカイには、あの屋敷で助けられた恩があるのだから。
時刻は昼時に差し掛かっていた。太陽が真上で輝いている。
私は荷物の中を探ってヒカイの膝に大ぶりの握り飯を置き、私用に小さく小分けした握り飯にかじりついた。
私とヒカイは旅をするに当たって、駆け出しの行商人夫婦という体で振る舞っている。無論、私達の間にあるのはある種の仲間意識だけだ。若しくは、単なる旅の途上での連れ合いのようなもの。そこに恋愛感情は無い。
ヒカイは私を屋敷から連れ出してくれた後に、「どこへ向かうのか?」と聞いた。けれども私にはその答えを返せる筈もなく、取り合えず第二都市から出来るだけ離れた場所に向かう事を目標としていた。
私とヒカイの間に会話は無いが、対面式の向かい側では女性達が噂話に興じていた。
「そう言えば、太守様が代替わりなさったっていうのは本当かねえ?」
「そうなのかい? うちの太守様は、ほれ…何だったか旅芸人達を囲っているとか春館を経営しているだとか、噂が立っていたね。まあでも、そんなお人が代替わりさせられるとは、よっぽどの事が起こったのかもしれないさね」
「そうだね。昔から太守様はやりたい放題のお方だったからねぇ。まあ、それが粛清されたってなら、あの都市に帰る頃合いかもしれないねぇ」
そりゃあ良い、と軽やかな笑い声が上がった。
成る程、件の太守様は民衆にさえもその悪評は広がっていたらしい。一部とはいえ、利権絡みで女性達が食い物にされていることを知っているのならば、直ぐにでも第二都市から脱出して新たな生活基盤を別の土地で作り直すのは必然の行動だろう。
そんな女性達が第二都市へと戻る算段を付けている。
それほどまでに、これまでの第二都市は風通しの悪い土地であったのだという証でもあるのかもしれない。
簡易的な椅子に座り、のんびりと話す農婦らしき妙齢の女性達は寄り添うように座る私達を気にした様子もなくああだこうだと持ち寄った噂話に笑い、時に愚痴りながら楽しそうに会話を続けている。
それらの話に耳を傾けながら、私はちまちまと手元の布に針を刺した。
目的地に着くまで馬車に揺られている間は手持ち無沙汰のため、先日から手元に刺繍枠に付けた布を広げ、慎重に針を刺して刺繍を施している。
勿論、精巧な技術が要求される難しく精緻な紋様ではなく、あくまでも馬車に揺られつつも刺繍が出来る程度の紋様である。今の私とヒカイは、旅の行商人と偽ってこの馬車に搭乗しているため、こうして持て余した時間を利用きてコツコツと商品を作り上げているのだ。
この布はまだヤーイー旅楽座に居る時に購入していたものの一つで、行商人を装う時にも驚く程良い隠れ蓑になっている。
こうしていると、殆どの人は私に話しかける事は無い。刺繍は女性の嗜みではあるけれど、商品として売るとなるとそれなりに高度な意匠が求められる。
今刺しているのは、鶴と菊の紋様が描かれた縁起物の意匠だ。この紋様は妙齢のご婦人や結婚を控えた若い女性に人気があり、古くから使われている伝統的な意匠でもある。一針一針丁寧に。
今時の女性には必要無いだろうと散々同級生にからかわれながらも洋裁学校出の祖母にちまちま教わっていた成果が今まさに役立っている。
無論、基本は出来ていたけれどその発展、応用系の刺繍については妾妃となって王宮で暮らし始めてからもずっと、女官長の取り計らいで裁縫に長けた侍女達から長年学んできた成果も活かされている。
……私をいち早く認め、何くれとなく心を砕いてくれていた女官長には、とても不誠実な事をしてしまった。
お元気にしていらっしゃるのだろうか?
不意に、お喋りに興じていた女性達が向かいに座る私とヒカイに声を掛けた。
「あんた達も行商人か何かかい?」
「ええ。といっても、駆け出しなのですけど」
「そうかそうか。あらまあ、あんた刺繍が上手だねぇ。それは売り物かい?」
「はい」
「色のセンスも良いし、バランスも良く出来てるね」
「あんたには似合わないだろうけどね。どれ…おやまあ、本当に上手だこと。私も一つ欲しい位だよ」
向かい側に座った女性達が私の手元を覗き込んでそう声を上げた。
「然し、あんたもそっちの旦那もえらい別嬪さんだねえ」
「それに上等な服を着てるね。どっかのお嬢様とお坊ちゃまみたいだよ!」
女性達が着ているのは、交領襦裙と呼ばれる丈の短い上衣に長い下裳を合わせた飾り気のない衣服だ。当然の事ながら、私が着る衣装のように刺繍も入っていないし、光沢もなく色合いも極地味なもの。その差は歴然だった。
「あんた達、気を付けなよ。ここいらでは山賊は出ないけど、隙あらば身包み剥がそうって連中はわんさか湧いてくるもんだ。上等な服を着たいなら、今日の宿は上級宿にしときなよ」
「そうそう。まああたしらなんかは別にどうと言うこともないけど、色々と詮索する人間は多いんだから、気を付けるんだよ」
「ありがとうございます」
マシンガントークで矢継ぎ早に注意を促してくれた女性達にお礼を言うと、ヒカイも軽く頭を下げた。
そうしている内に馬車は目的地の大きな町に着き、女性達と私達はそこで別れる事となった。
女性達の忠告は正直有難い。自分では粗末な衣装を着ているつもりでも、平民の常服よりは格段に高級な布を使っている服だ。どんなにみすぼらしさを装っても、その部分までは誤魔化せない。
ああ、恥ずかしい。こんな常識的な事ですらも私の頭から抜け落ちていただなんて。
私はまだ、妾妃時代の価値観が抜けきってはいないらしい。
ヒカイは気にした様子は無かったけれど、周囲へ向ける視線の強さが警戒感を高めている事を知らしめている。
早めに、この町を抜けるべきなのかもしれない。
「これからどうしますか?」
「取り合えず今夜の宿を探しましょう。この辺りならそれなりに良い宿もある筈だから」
「分かりました」
頷いたヒカイは、早速近くの露天の店主に宿の場所を聞いていた。
「宿町は南に下った所にあるようです。そこへ向かいましょう」
「ええ」
私達は連れ立って宿町へと向かった。
その背後を付けている者達が居る事に、私だけが気付いては居なかった。
*
ヒカイが何故、シェンリュという女性を助けたのかと問われれば、「主に命を受けた為だ」とこれに尽きる。
主とは単なる主人を表しているのではない。正当なる主をこそ指しているのだ。
シェンリュと初めて出会った時、これが主の言う女性かと驚いたものだ。この美しいけれども独特の雰囲気を纏う彼女こそが、シェンリュ…いや、メイベル王国の妾妃、ラピス・ヤラ・メイベルであるなどと思いもよらなかった事である。
謙虚で驕らない人柄は噂通りだが、まさか戦支度でもするように、彼女にとって最高級のきらびやかな武装をして屋敷に乗り込んでくるとは、本当に驚かされた。
彼女がメイベル王国の国王陛下に追われている事も勿論承知済みである。というよりも、この好機を逃さない為にわざわざ彼女に近付き、護衛役となったのだ。
ヒカイは何としても彼女を故郷に連れて行かなければならない。その為ならば何だってする覚悟を持っているのだ。
けれどもその悲壮なまでのヒカイの決意も今や揺れに揺れている。彼女は、シェンリュは少なくとも本当に混じりけの無い誠実さと素直さを持つ、真っ直ぐな人間なのだ。その人柄に触れる度、ヒカイの目的の為に彼女を騙し続けている事実が針の如くヒカイの胸に突き刺さっていく。
恐らく彼女はヒカイが何かを隠している事は察しているだろう。けれどもそれを彼女が口にする事なく、ただ時の流れに身を任せている。それは決して安易な選択ではないだろうに、彼女はヒカイに信頼という万金にも勝る思いを寄せてくれているのだ。
彼女には申し訳ないと思う。だがこれも仕事なのだ。
メイベル王国を抜けるにはまだもう少し時間が掛かる。だから警戒感は怠るべきではない。そう思っていたのに。
「シェンリュ?」
宿に入ってs暫くした時のこと。湯殿を借りて先に旅の埃を落としに行ったシェンリュを見送り、そろそろ出てくるだろうという頃合いの頃。湯殿の出入り口は宿の受付からそう遠くない場所にあり、出入りが可能なのはこの入り口だけの筈だ。けれどのその回廊にシェンリュの姿はなく、数分待ってみたものの、やはり人影は見えない。
痺れを切らして近くの番頭を問いただせば、既にシェンリュは湯殿を出ているという。シェンリュが忽然と姿を消した。
一体、何故?
その答えは直ぐに明らかとなった。




