第五章:出発の日
翌朝、父に書斎に呼ばれた。
部屋の空気は、いつになく静かだった。
早朝の弱い陽射しが窓から差し込み、空気中に漂う埃の粒を照らしている。
父は大きな木の机の後ろに座り、両手を組んで、深い青い目で私を見つめていた。
その目には、決意と、どこか重苦しい何かが同居していた。
「座れ、アルベール。」
私は向かいの椅子に腰掛けた。何か重要なことが告げられようとしているのを、ぼんやりと感じ取っていた。
父はしばらく沈黙していた。頭の中の思考を整理しているようだった。
やがて深く息を吸い込み、口を開いた。
「お前が魔法を学びたいという話、ずっと考えていた。」
私は黙って待った。
「それで、決めたことがある。」父は私の目をまっすぐに見据えた。「お前はここでは学ばない。私の古い友人のところへ行け。あの男はとても強い。お前はあの男から、私が教えられるよりも遥かに多くのことを学べるだろう。」
私はまばたきした。父の友人? よその場所で学ぶ?
それはつまり、この家を離れなければならないということか?
「それだけじゃない。」父は声を低くして続けた。「これからお前は、あの男の姓を名乗れ。お前は、あの男の息子として振る舞うんだ。」
私は息を呑んだ。姓を変える? 他人の息子のふりをする?
その言葉はあまりにも唐突で、理解が追いつかなかった。
しかし、私が何かを尋ねるより先に、書斎の扉が勢いよく開いた。
「あなた、何を言っているの?!」
母――ロザリンド――が飛び込んできた。
顔は怒りで赤く染まり、目は潤んでいる。その瞳の奥に、痛みがはっきりと見えた。
「息子は目を覚ましたばかりじゃないの! 私はもっと長く一緒にいたい! それに、どうして名前を変えなきゃならないの?! この子は私たちの子よ! ローウェルの血を引いているの!」
父は微動だにしなかった。冬の湖のように静かな青い目で、母を見つめた。
「この事情は、お前もよくわかっているはずだ。」
声は大きくなかった。しかし、その一言一言が空気を切り裂く刃のようだった。
「お前は、歴史を二度繰り返したいのか?」
母は、殴られたかのように立ちすくんだ。
怒りが音を立てて消えていき、代わりに耐えがたい苦痛がその顔に広がった。
両手は力なく垂れ、震えていた。
母は何も言わなかった。ただその場に立ち尽くし、赤くなった目で父を見つめ、それから背を向けて部屋を出ていった。
後ろ手に閉まる扉の音が、静かに響いた。
父はしばらくその扉を見つめ、それから深いため息をついた。そして再び私を見た。
「もし承知したなら、明日のために荷物を準備しなさい。」
私はすぐには答えなかった。頭の中で、いくつもの思いが渦巻いていた。
――私は田中宏。別の世界から来た四十二歳の男。本物のアルベールではない。
だが、だからといってこの世界への興味が薄れるわけじゃない。むしろ逆だ。私はこの世界に対して、猛烈な好奇心を抱いている。
そしてこれは、外の世界を見るための千載一遇のチャンスだ。
だが、それでも腑に落ちないことがあった。
名前を変えること。他人の息子を装うこと。
そして、父が母に放った言葉――「この事情は、お前もよくわかっているはずだ。」
何をわかっているというのか。二人が知っていて、口にしないこと。それは一体何なのか。
私は気になった。だが、聞けなかった。
空気の中に、何か言い知れぬ重みと、声を潜めたような恐怖が流れていて、今は深く掘り下げるべきではないと感じたのだ。少なくとも、今は。
「わかりました。」私は小声で言った。「準備します。」
父は頷いた。それ以上は何も言わなかった。
ただ、その目がほんの少しだけ和らいだように見えた。
まるで、胸にのしかかっていた重荷を、ようやく少しだけ下ろしたかのように。
その日の午後、母は休みなく動き回っていた。
家中を駆け回り、服を選んでは戻し、靴を選んでは悩み、日用品を手に取ってはまた別の物に持ち替える。
私の荷物はみるみるうちに膨れ上がり、それでも母はまだ何かを詰め込もうとしていた。
上着。予備の靴。乾物。そして「お前が赤ん坊の頃に私が刺繍したの」という小さな毛布。
私はそれを見て、どう言えばいいのかわからなかった。
「母さん……全部は持って行けないよ。」私はようやく声を絞り出した。
母は聞いていなかった。さらに一枚、外套を荷物に押し込んだ。
「外がどれだけ寒いか、あんたにはわからないでしょう。ちゃんと暖かくしていかないと。それから、乾パンも持たせたから、道中で食べるのよ。それと、これも。それからこれも……」
母は話し続けた。まるで、口を動かすのをやめた瞬間に、泣き崩れてしまうからだ、と言わんばかりに。
そして、私が恐れていた通り、母の手が止まった。両腕が力なく下がり、そして――声を上げて泣き始めた。
母は私に抱きついた。強く、長く。
「ごめんね。」母はしゃくり上げながら言った。涙が私の肩を濡らしていく。「もっと守ってあげられなくて、ごめんね。せっかく帰ってきたのに、また離れなきゃいけなくて、ごめんなさい……」
私はそのまま立ち尽くし、母に抱かれていた。
体がうまく動かなかった。前世で、こんなふうに誰かに抱きしめられることを、どれほど渇望していたか。
無条件に愛されることを、どれほど夢見ていたか。
そして今、それが目の前にあるのに、私はどう反応すればいいのかわからなかった。
私はこの人の本当の息子じゃない。だが、この瞬間だけは、本当の息子でありたいと思った。
「大丈夫だよ。」私は静かに言った。「心配しないで、母さん。」
母は涙に濡れた目で私を見上げ、それから私の額に、頬に、痩せた指先に、何度も何度も口づけを落とした。
「約束して。ちゃんと食べるって。ちゃんと寝るって。無茶をしないって。約束して。」
「約束する。」
母はもう一度私を強く抱きしめ、それから背を向け、涙を拭い、再び荷物を詰め始めた。
夕暮れ時、窓辺を橙色の光が染める頃、私はセドリックと並んで、裏口の階段に座っていた。
二人で黙って、落ちていく夕陽を眺めていた。
木々の間から漏れる最後の光が、地面にまだらな影を落としている。
そよ風が吹き、草と湿った土の匂いを運んできた。
「兄さん。」
セドリックが口を開いた。その声は、どこかかすれていた。
「本当に、何も覚えてないの?」
私は隣に座る弟を見た。栗色の瞳がこちらを見つめている。今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「ああ。何も覚えてない。」
セドリックはしばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。
寂しげで、それでいて温かい笑みだった。
「兄さんが目を覚ましてから、ずっと一緒にいた。剣を教えて、稽古のコツも教えた。でもね、あのコツは……本当は兄さんが俺に教えてくれたものなんだ。」
私は目を丸くした。「私がお前に?」
「うん。」セドリックは頷き、遠くの空を見つめた。「兄さんはすごく優秀だった。無理だってくらいに。みんな、兄さんの才能に嫉妬してた。俺も……すごく憧れてた。」
しばらく間を置いて、まるで記憶を手繰り寄せるようにして、彼は続けた。
「あの頃、俺たちは王宮に住んでたんだ。」
私ははっとした。――王宮? この家族が、かつて王宮に?
「兄さんは魔法がすごく得意だった。一族の子供たちはみんな、兄さんと手合わせすると負けた。兄さんは何でも吸収が早かった。俺は魔法が得意じゃなかった。でも兄さんは馬鹿にしなかった。俺が大好きな剣術を教えてくれたんだ。剣の技も、動き方も、相手の読み方も。今の俺が知ってること、全部、兄さんに教わったものなんだよ。」
声が少しずつ震えはじめた。
「毎日、兄さんの試合を見に行った。兄さんは歴戦の猛者ばかりを相手にして、それでも勝った。兄さんの試合はどれも型破りだった。王家の天才児って、みんな言ってた。」
彼は一度言葉を止めた。両手が階段の縁を強く握りしめている。
「でも、ある日、俺と稽古してるときに……兄さんは倒れたんだ。」
セドリックがこちらを向いた。その頬を、涙が伝い落ちていた。
「それから五年。俺はもう兄さんは戻ってこないと思ってた。でも、奇跡が起きた。兄さんは帰ってきた。」
彼は涙を拭い、無理に笑おうとした。
「すごく嬉しかった。俺、はしゃいでたよ。今の俺の力を見せたかった。魔法も剣術も体術も、全部、兄さんより上手くなったって。毎日必死に稽古したんだ。いつか兄さんを倒せるようにって。」
声が沈んでいく。
「でも、部屋に入ったら、兄さんはいたけど、何も覚えてなかった。」
彼はまっすぐに私を見た。目が赤い。
「俺、試したよ。兄さんと何度も稽古した。何も覚えてなかった。弱々しい体で、剣は下手で、魔法は何も使えなかった。昔は、稽古のたびに兄さんがすごい魔力を放って、俺の闘志を押しつぶしてきたのに。今は……ただの弱い別人だった。」
セドリックは立ち上がり、夕陽に向かって背を向けた。
「だから、次に会うときは、変わっていてほしい。」
風に乗って、彼の声が響いた。はっきりと、決意に満ちていた。
「今度は、まともに手合わせしてほしい。俺の願いを、叶えてほしい。」
私は弟の背中を見つめた。
この少年は――私が本当はまだよく知らない弟は――夕陽を背に立ち、まるで決戦を前にした若き戦士のように、凛としていた。
私は多くを語らなかった。ただ、静かに頷いた。
「ああ。いつか、必ず。」
セドリックが振り返り、そして、この世界で目覚めてから初めて、本当の笑顔を見せた。
翳りのない、輝くような笑顔だった。
「待ってる。」
兄弟二人は、陽がとっぷり暮れるまで、そこに座って語り合った。
過去のこと。試合のこと。私がまだ知らない、私自身の物語。
そして未来のこと。いつか二人が手合わせする、その日のことを。
翌朝、部屋を出た私は、その場に立ち尽くした。
母が、巨大な荷物を抱えて立っていた。あまりにも巨大で、どうやって持ち上げたのかと聞きたくなるほどだった。
中身は詰め込まれるだけ詰め込まれ、もう破裂しそうに膨れ上がっている。
「母さん……」私は言葉を失った。「これ……持って行けないよ。」
母は私の言葉を無視して、その巨大な荷物を私の背中に背負わせようとした。
「何が必要になるかわからないでしょう。外は厳しいんだから。母さんが全部準備したの。」
「母さん、これ、重すぎるってば。」
「黙ってなさい。母さんの息子は、ちゃんとした格好をしなきゃいけないんだから。足りないものがあるなんて、絶対に嫌。」
私はため息をついた。だが、母を拒否できなかった。
母にされるがまま、肩紐を調整され、ポケットに小物をねじ込まれ、人形のように回されながら、全身をチェックされた。
そして、そろそろ自分が荷物に埋もれてしまうと思ったその時、その男が現れた。
長身の、やけにだらしない格好をした男だった。
しわくちゃのシャツに、擦り切れた靴。白髪交じりの髪はぼさぼさで、手入れをしている気配もない。
どう見ても、父が褒めちぎっていたような「すごい人物」には見えない。
むしろ、砂漠を放浪してきた流れ者という風情だった。
「よお、アルベール!」男は手を振り、にやにやと笑った。「久しぶりだな!」
私はその場で固まった。この男に会ったことは一度もない。
いや、私がこの世界に来てから、まだ数週間しか経っていないのだから当然だ。
「ああ、そうか。覚えてないんだったな。」男は頭を掻き、それでも笑っていた。「まあ、そのうち思い出すさ。で、ジェラルド!」
男は父の方を向いた。
「どいつが、俺に預けるガキだ?」
父は歩み寄り、私の肩に手を置いた。
「これだ。私の長男だ。」
男は私を見た。目を細め、品定めでもするように、頭のてっぺんからつま先までじろじろと観察した。
「これかよ?」男は指を突きつけ、あからさまに怪しんだ顔をした。「このガリガリのガキが? お前の長男は天才アルベールだろ? 見ろよ、こいつ、やたら弱そうじゃねえか。俺が一発殴ったら、そのまま伸びそうな顔してるぜ。」
私は奥歯を噛みしめた。――この野郎……遠慮ってもんを知らないらしい。
父はただ笑った。「よく知ってるだろ、お前も。」
男は肩をすくめた。「まあ、選択肢もねえしな。」
それから男は私の方を向き、にやりと笑った。
「行くぞ、ガキ。しっかり俺の後ろについてこいよ。油断してると、風に飛ばされるぞ。」
私は言葉を失った。この男、言うことがいちいち腹に障る。
「行くぞ。」男が言い、ふと私の巨大な荷物を見た。「ああ、それと、その荷物は捨てていけ。男はその辺のもんで生きていける。そんなガラクタ、いるか。」
途端に、母の顔色が変わった。
「なっ?!」母は私を庇うように駆け寄り、荷物を私から離すまいとしながら、ポケットに物を詰め込もうとした。「何を言うんですか! 息子にはこれが必要なんです! 何も持たせずに連れて行くなんて許しません!」
父が歩み寄り、静かに、しかし断固とした様子で、母を制した。
「もう、行かせてやろう。」
「いや! 許さない!」
「ロザリンド……」
朝の光の中、二人はその場で押し問答を続けた。
そして私は、その間に立っていた。巨大な荷物を背負い、だらしない男が前方で待つ中、私は家を出る日を、こんな形で迎えることになった。
私が想像していた別れの日は、こんなのではなかった。
だが、それでも、私はもう決めていた。
私は母を見た。涙を流しながら、まだ私のポケットに何かを詰め込もうとしている母。
そして父を見た。青い瞳の奥に、言葉にできない痛みを秘めたまま、静かに立つ父。
最後に、戸口に立って、決意に満ちた笑顔で手を振るセドリックを見た。
「またな。」私は小さく言った。そして、歩き出した。
――これでいい。
これが、私の新しい旅の始まりだ。




