その時
お読みいただき、ありがとうございます。
今回も、クルナの物語が続きます。
よろしくお願いいたします。
思ったより五年という時は、短かかった。
何もなかったわけではない、あれから神事の合間を縫ってメルをまねるよう外に出るようになった。
ほかの子たちと遊ぶようになったし、友達もできた。
話すことが思いつかなくて黙っていても、誰もつまらないとは言わなかった。次の日には、また誘ってくれた。
楽しくなかったわけじゃない。明日も会いたいと思うことだってあった。
それでも、一人になると考えてしまう。
『どうせ十七歳で終わるのに』
結末の決まった物語に、いくら続きを書き足しても、最後は変わらない。
『メルも、そうだったのかもしれない。』
笑っている間も、ふとした瞬間に怖くなる。誰かと一緒にいても、その人には来るはずの未来が、自分にはないことを考えてしまう。
メルもそんなふうに過ごしていたのなら、私は、話を聞いてほしかった気持ちまで拒んだのだ。
それを思うたび、あの日の言葉を取り消したくなった。
けれど、今の私も誰かに助けてほしかった。
友達は、御迎え子のことを知らなかった。
大人たちからは、私が十七歳になったら、遠くへ旅に出るとだけ聞かされているらしい。
*
十七歳の誕生日の夜、その日が告げられた。
「今度の満月の夜に、御迎えを執り行います」
村長の前には、母が焼いた菓子が置かれていた。私の皿にも、まだ半分残っている。
さっきまで、誕生日を祝っていた。
「……あと、何日ですか」
「七日です」
私は膝の上で指を折った。
『あと七日』
「明日からは神事を休んで、ご家族と過ごしてください。支度はこちらで進めておきます」
母が頭を下げた。父も、それに続いた。
私は皿に残った菓子を見ていた。
毎年、誕生日に焼いてもらっていた。来年も食べたいと言ったら、母は何と答えるのだろう。
「クルナ。食べないの?」
「……後で食べる」
皿を少しだけ、自分のほうへ引き寄せた。
*
御迎えの夜、母は私に白い衣を着せた。
何度も寸法を測ったはずなのに、襟元を直しては離れ、また近づいて袖を引いた。
「痛いところはない?」
「ないよ」
「帯、苦しくない?」
「……大丈夫」
母の手が止まった。
「きれいよ、クルナ」
私は鏡を見なかった。
「お母さん」
「何?」
「誕生日のお菓子、おいしかった」
母は笑おうとして、唇を震わせた。
「また、焼いてあげるから」
言った後で、母は私から目をそらした。
『いつ?』
聞けなかった。
その代わり、母の肩に額をつけた。
抱きしめてくれた腕は、思ったより強かった。
「……ごめんね」
耳元で声がした。
何に対して謝ったのかは、聞かなかった。
ただ、その腕がほどけるまで、私は母の服を握っていた。
部屋を出ると、父が玄関に立っていた。
「支度はできたか」
「うん」
父は私の足元を見た。
「慣れない履物だ。足元に気をつけなさい」
私は白い靴の先を見下ろした。
「転んでも、起こしてくれる?」
「もちろんだ」
父はすぐに答えた。
それが少しうれしくて、少しだけ腹が立った。
「小さい頃は、よく抱っこしてくれたよね」
「ああ。畑まで来て、帰りは歩けないってな」
「重かった?」
「いいや」
父の手が私の頭に触れた。
大きくて、硬い手だった。
「……大きくなったな」
『もっと、大きくなりたかったよ』
口にしたら、もう歩けなくなる気がした。
祖母は、玄関の脇で一冊の本を持っていた。
猫になる魔法使いの女の子の本だった。
「部屋を片づけていたら、机に出ていたから」
「読んでたの。昨日も」
「そうかい」
祖母が表紙を撫でた。
「……どこまで?」
「最後まで」
私は本を受け取り、擦り切れた角に触れた。
「おばあちゃん。これ、捨てないでね」
祖母はうなずいた。
本を返すとき、指が触れた。
「小さい頃、読んでくれてありがとう」
祖母の口が動いたが、声にはならなかった。
私は少し待った。
そのとき、戸が叩かれた。
「御迎えに上がりました」
*
村の道には、灯りが並んでいた。
すれ違う大人たちが頭を下げる。
見慣れた顔ばかりだった。野菜を分けてくれた人。幼い私に、母の居場所を教えてくれた人。
「どうか、村をお守りください」
誰かが言った。
『私には、そんなことできないよ』
父と母と祖母は、私の後ろを歩いていた。
何度か振り返った。そのたびに三人ともいた。
川沿いの道を上流へ進むと、滝の音が聞こえてきた。
御迎えのために教えられた道だった。
けれど夜に来るのは初めてで、水の向こうにあるはずの岩壁は、ほとんど見えなかった。
滝壺の手前に、石を組んだ祭壇があった。
その先から、水面へ向けて細い足場が延びている。
「ご家族は、こちらまで」
村長が三人を止めた。
母の手が、一度だけ私の袖に触れた。
振り返ったときには、母はもう手を下ろしていた。
私は足場の先へ進んだ。
膝をつき、両手を重ねる。
頭を下げる角度も、祈りを唱える順番も、身体が覚えていた。
岸から、村長の声が響いた。
村人たちがそれに続く。
私は教えられた言葉を口にした。
途中で、声が震えた。
間違えなかった。最後まで唱えた。
それでも何も安心できなかった。
満月が、滝の上にかかっていた。
水面が盛り上がったのは、その直後だった。
最初は、岩が動いたのだと思った。
黒い塊が浮かび、灯りを弾いた。
鱗だった。
水の下から現れた目が、私のほうへ向いた。人の頭ほどもある目だった。
『魚……?』
大きな口の両端から、長いひげが垂れていた。
胴体はまだ水の中に続いていて、どれほどの長さがあるのか分からなかった。
岸で、衣擦れの音が重なった。
振り返ると、全員が膝をついていた。
父も、母も、祖母も。
「神様のお出ましです」
村長が額を伏せた。
『これが、神様』
魚はゆっくりと身をひねった。
その動きだけで波が立ち、私の膝まで水がかかった。
冷たさに、息が詰まった。
魚は滝へ向かった。
落ちてくる水を押し分け、その巨体が上へ進んでいく。
滝を、上っていた。
鱗が一枚ずつ月明かりに浮かんだ。
上るにつれて、魚の身体は大きくなった。岩壁ほどだった胴は、やがて滝そのものを覆い隠した。
顔を上げても、頭が見えなかった。
尾が水面を離れたとき、滝の上には、天に届くほどの身体がそびえていた。
口から、途切れ途切れに息が漏れた。
祈りの言葉は、もう一つも出てこなかった。
巨大な頭が、ゆっくりとこちらを向いた。
『嫌だ』
私は立ち上がろうとした。
濡れた衣が脚にまとわりつき、足場に手をついた。
「お父さん」
滝の音に消えた。
岸へ戻ろうとして、膝が滑った。
父が立ち上がるのが見えた。その腕を、隣の男がつかんだ。
「お父さん!」
母が何か叫んでいた。
祖母は顔を上げ、こちらに手を伸ばしていた。
影が、足場を覆った。
口が開いた。
空を覆っていた巨体が折れ曲がり、頭が滝壺へ下りてきた
『まだ、ここにいたい』
『友達に、旅の話をしなければ。
誕生日のお菓子を、もう一度食べたい。
読みたい本だって、まだある。』
『]メル、私――』
水と風が押し寄せた。
足場が遠ざかり、伸ばした手が空をつかんだ。
閉じていく口の隙間から、月が見えた。
そして、私は食われた。
*
「初めまして、クルナ・カシュン。君は選ばれました」
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次回もお付き合いいただけるとうれしいです。




