第35話 二人
本選前夜。
凪はガレージのコンソールに向かい、最後の調整ログを閉じた。
アルカナ・オブスキュアの全パラメータ。ピラリスの重心バランス。糸の張力係数。左腕ビームの出力曲線。すべてのデータが、最適値に収まっている。
『……調整、終わりました』
通信の向こうで、しろっぷの声が返ってきた。
「おつかれ。クリサリスのほうは?」
『そちらも完了です。深化時の出力配分を微調整しました。前より安定するはずです』
「ふーん。ありがと」
軽い声。いつも通りだ。
明日が本選だという緊張感は、しろっぷの声には一切ない。
「ねえ凪」
『はい』
「トーナメント表、見た?」
『……ええ』
8人のシングルエリミネーション。上位2名が世界大会へ。
凪の1回戦の相手は、戦神覇王。しろっぷの相手は、マセガキィ。
そして、勝ち上がれば準決勝で当たる。
「当たるかもね、私たち」
『……そうですね』
「その時は、全力でやろうね」
しろっぷの声は、いつも通り軽かった。
だが、その「全力」という言葉に、凪は少しだけ息を止めた。
『……ええ。当然です』
「うん。じゃ、明日ね。おやすみ」
『おやすみなさい』
通信が切れた。
凪は、暗くなったモニターを、しばらく見つめていた。
◇
翌日。
日本選抜本選の会場は、お台場の大型イベントホールだった。
凪が会場に着いたのは、開場の30分後。入口を抜けた瞬間、人の多さに足が止まった。
(……こんなに、来るのか)
広大なホールの中に、無数のブースが並んでいる。メインステージには巨大なスクリーンが設置され、本選トーナメントの対戦カードが映し出されていた。
だが、それだけではない。
機体作成の体験講座。子供向けのビルド教室。プロビルダーによるデザインコンテスト。フリーダム・フロントの世界が、ゲームの外にまで広がっている。
子供たちが、自分で作った機体のホログラムを見せ合いながら走り回っている。その横で、親がスマホで写真を撮っている。
(……フリーダム・フロントは、こういう場所でもあるんだ)
凪は、人混みを避けながら、出場者控室の方向へ歩き始めた。
首からぶら下げた出場者パスに、プレイヤーネームが印字されている。
『凪』
本名と同じ。今さらだが、こうして現実の場に印字されると、妙な気恥ずかしさがあった。
控室の扉が見えてきた。その手前で、凪は立ち止まった。
扉の横に、一人の少女が立っていた。
黒髪のセミロング。すらりとした長身。制服ではなく、シンプルなパーカーにデニム。スマホを片手に、退屈そうに壁にもたれている。
首からぶら下げた出場者パスに、プレイヤーネームが書いてある。
『しろっぷ』
(……え?)
凪の足が、完全に止まった。
しろっぷ。
あの、ソファに寝転がって気怠げに話す声。退屈そうな口調。遠慮のない物言い。
その声の主が、目の前にいる。
(……こんな見た目だったのか)
想像していた姿と、まったく一致しない。退屈そうな声から勝手にイメージしていた印象が、目の前の少女に完全に上書きされていく。
思考が、一瞬だけ空白になった。
少女が、スマホから顔を上げた。
凪の出場者パスを見て、首を傾げる。
「……凪?」
「へえ」
真白が、凪の顔をまじまじと見た。
「あんた、思ったより普通だね」
『……すみません』
「褒めてんの。ゲームの中だともっと怖い人かと思ってた」
真白は、少しだけ意外そうな顔をしていた。
あの冷たい青のスリットの奥にいたのが、こんな地味で真面目そうな男だとは思わなかったのだろう。
だが、目だけは違った。静かで、深くて、何かを常に計算している目。
……ゲームの中と、同じ目だ。
真白は、それ以上は考えなかった。
凪は、反射的に背筋を伸ばした。
『あ、はい。……凪です。しろっぷ、さん?』
「さん付けキモいんだけど。ゲームと同じでいいよ」
声が、同じだった。
画面越しに何百回と聞いた、あの気怠げな声。それが、目の前の少女の口から出ている。
「へえ」
しろっぷ――真白ましろが、凪の顔をまじまじと見た。
「あんた、思ったより普通だね」
『……すみません』
「褒めてんの。ゲームの中だともっと怖い人かと思ってた」
真白が、凪の出場者パスに視線を落とした。
「……ねえ」
『はい』
「あんた、プレイヤーネーム本名なの?」
『……ええ、まあ』
「なにそれ。ネーミングセンスがないってこと?」
『いえ、考えるのが面倒だっただけで……』
「それをセンスがないって言うんだよ」
真白が、くすっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、凪の胸の奥で、何かがほんの少しだけ動いた。
何が動いたのか、凪自身にはまだ分からなかった。
「ま、いいけど。覚えやすいし」
真白が、控室の扉に手をかけた。
「行こ。中で他の人も待ってるでしょ」
『……はい』
凪は、半歩遅れて、真白の後を追った。
パーカーの背中が、控室の扉の向こうに消えていく。
ゲームの中では、いつも隣にいた。
声も、言葉も、戦い方も、全部知っていた。
なのに、今日初めて見た横顔が、妙に目に残っていた。




