第十二巻 二人の恩師
ようこそ。妖怪たちが蔓延る世界へ。
気になる点があるかもしれませんが、温かい目で流してください。
木戸とマチ先生の助太刀により、四時ババに勝利し、奴に攫われた人間たちを無事に救うことができた。皆、元の生活に戻って、職員や保護者たちが一安心しているのがよく伺える。
ズドンッ…!!ズドンッ…!!
しかし、それと引き換えに命を落とした者もいた。
人間を攫った張本人、四時ババ。そして、奴と共に山ノ浦中学校で七不思議として蔓延っていたトイレの花子さんと二宮金次郎の像、そして肖像画の怪異たち。
俺の力不足故に、奴らは命を失う羽目になってしまった。
「はあーっ!!」
ズドォンッ…!!!
第一話「名に込められた願い」
肖像画の怪異たちが皿蜘蛛に殺されたあの瞬間、赤赫刃の連中に勝つことが非常に困難なことが肌身に染みた。
始末人を名乗る皿蜘蛛の速さは、目で追うことさえやっとなほどの動きだった。
それを上回る強力な力を手に入れるため、俺は毎晩家の側にある木に、ひたすら拳を叩き込んでいた。
「はぁ…はぁ…」
気づけば木の皮がめくれて、中の年輪が見えてくるほど削られていた。
「随分と頑張ってるね。木こりでもしてるの?」
疲弊した体を先ほどまで殴っていた木に預けていると、久しく聞かなかった声が耳に届く。
「心美…」
声の主の方を振り向くと、そこには蟻蜘蛛兄さん、黄金兄さんの妹、『埖蜘蛛』が立っていた。
俺たち兄妹の末っ子で、人間態では『華清心美』を名乗り、女子学生を演じている。
「久しいね、雷兄。元気してた?、って聞くのは野暮かな。木こりしてる訳だし」
「木こりじゃねぇよ…」
小馬鹿にするように笑う心美に、いつもの調子でツッコミを入れる。いや、いつもの調子ではないか…。
「記憶の管理人が何の用だ」
「大した用事ではないよ。妹として、雷兄の顔見たくなっただけ」
「そうか…。まあ、上がれよ。茶くらいは出してやる」
俺はその場に脱ぎ捨てた紫のパーカーとシャツを拾い、心美を家へと誘う。
「きんつばある?」
「あるぞ」
「いただきます」
自分の大好物があると分かった瞬間、俺の家の玄関の前に移動し、躊躇うことなく戸を開けた。
「お邪魔しま~す」
脱いだ靴を並べぬまま、俺が普段くつろぐ部屋に直行した。俺は散らばった靴を揃えてから、無邪気に部屋に向かう妹の後を追う。
「適当にくつろいでろ。茶準備してやる」
「はーい」
部屋にある囲炉裏に水の入ったやかんを吊るしてから、寝間に行き、タンスにストックされた紫のパーカーを着る。その後、台所へ移動した。
筒に入った茶を急須に適量入れる。茶葉の香りが鼻をくすぐる。その急須を持って、妹の待つ部屋に行った。
「随分急いで強くなろうとしていたみたいだけど、何かあった?」
俺が囲炉裏を挟んだ向かい側に座り、湯の沸いたやかんを手に取った時、心美は口角を上げてそう問うてくる。
「──お前のことだ。その様子だと、もう既に耳にしているだろ」
「…まあね。ある程度は…。死者に自らの妖気を与えて、この世に残させたみたいだね…」
俺が淹れた茶を啜ると、再度口を開く。
「雷兄知ってると思うから短めの説教にするけど、死者を見過ごすことは、私たち蜘蛛妖怪にとって重罪なんだよ」
心美の言っていることはよく承知している。
蜘蛛妖怪を名乗る以上、あいつと結んだ約束を果たした後に、あの世に連れていくつもりだった。しかし、彼女の口から出た「木下先生」という言葉が、その歯車を止めていた。
それに加え、彼女は目の前で仲間を失ってしまった。そんな彼女を一人あの世に連れて良いのか、俺には判断できなかった。
「分かってる…」
「じゃあなんで?」
「…あいつと、もう少しだけ話がしてみたかったんだ。あいつは、俺が暴れた時の犠牲者かもしれねえから…」
心美は、ほうと言わんばかりに目を細めた。その表情は、俺の言い訳を聞くときにいつもする呆れ顔だった。
「あいつの口から俺の恩師の名前が出たんだ。苗字だけだけど。もしも、俺の恩師と同じ人物を指していたなら、あいつは俺と同じ村の生まれ。関わりも無きにしもあらずなんだよ。だから…」
俺の非力さのせいで仲間までも失わせてしまい、その上俺が命を奪ったかもしれないんだ。
そんな彼女をあの世に連れるなんて、あまりにも惨すぎる。
「だから、その幽霊をこの世に残してやりたいと?」
言葉を詰まらす俺の代わりに、心美は冷たく続きを口に出す。妹としての可愛げなど一切ない、一人の蜘蛛妖怪としての発言だった。
「…どんな罰でも受ける。あいつのことは、見逃してくれないか…」
「んー…。これ以上私がどうこう言える事じゃないしなぁ…。まあ、閻魔王様には、適当に話してとくよ」
「ありがとう。そうしてくれると助かる」
正座をしたまま、自分の腿に手を置いて、軽く頭を下げる。
「あ、でも勝手な真似はしないでよね。雷兄はその娘を見張るだけ。分かった?」
少し厳しい口調で忠告をしてくる。妹とはいえ、立場は上にあたるため、部下である俺に対しても言うべき時は容赦はない。
「…ふふ。まったく雷兄は、いつも名に恥じないね。──名付け親である恩師さんに感謝だね」
だが、すぐに表情は和らぐ。
俺は茶の入った湯呑みを覗き込んだ。緑茶の茶葉で入れた水面には、恩師の笑った、力強い笑顔が浮かんで見えた。
「どんな人だったの?雷兄の恩師って」
茶を口にした後、心美はそれを尋ねてくる。
「俺の恩師は、木下先生は、俺を半妖怪と知っても尚、他の人間たちのように差別をしてこなかった、心優しい人だった」
十五年前。俺が九つの時だったか──。
『なぜ俺に構う…』
『俺はお前の先生だからな』
『あんたの印象を悪くするだけだ。災厄である妖怪の子なんて気にかけてもな』
『そんなの関係ない。俺には教師としての責任がある』
『……やっぱり、人間はよく分からないな』
『あはは、当然だろ。二十年以上生きてる俺だって分からないんだ。十年も生きていないお前に分かってたまるか』
『人間の癖に、理解してないというのか…』
『ああ。でも、悪いやつばかりじゃないってことは、はっきりと分かる』
『なんだと?』
『この土地は昔っから妖に敏感なんだ。作物や家畜の生産が悪くなると、すぐ妖の仕業にする。本当は温暖化や排気ガスとかの影響なのにさ』
『……』
『この世界は広いんだ。色んな人間がいる。きっと、お前のことを受け入れてくれるやつもな』
『ッ……!?俺は土蜘蛛だぞ。そんなやつ居る訳…』
『確かに、土蜘蛛って名前じゃ社会に出た時厳しいか……』
『いや、そういう意味じゃ…』
『そうだ、俺の名前やるよ』
『はあっ!?』
あの時は、木下先生が何のつもりで言っているのか、分かってやれなかった。
『雷羽…、同名じゃ面白くないな。ライ、バ…。雷、羽……。ライウ…、雷羽なんてどうだ?強く優しい人になれって意味でさ』
『おい、俺はペットとかじゃねぇんだぞ!そんな勝手に…』
『良いじゃねぇの。土蜘蛛って恐れられるより、雷羽って親しまれるほうがよくないか?』
名をつけられたあの瞬間に感じた、心の温まる感覚。初めて感じた母以外の人間の温もりを、忘れた時はない。
自我を失い、暴走をして村を滅ぼしたあの時を除いて…。
「その人が居なかったら、今の雷兄は居なかったね」
「──かもな。感謝してもしきれねぇよ」
茶の友に用意したきんつばを口に含むと、小豆の甘い香りが口に広がる。
ふと視線を落とすと、心美の湯呑みは既に空になっていた。心美は満足げに腰を上げると、玄関に向かいながら背越しに言った。
「──その名前、大切にしなよ。雷兄」
玄関に向かう心美を見送ろうと後を追うと、戸を開けぬまま、そこをすり抜けて姿を消した。
第二話「告白は鍵盤の上で」
次の日。四時ババとの決戦を迎えたあの時の約束を守るために、俺はピアノを弾く少女の霊がいる夜の音楽室に向かった。
音楽室が近づいてくると、ピアノの音が鳴り響いてきた。
「あっ、待ってたよ。先生」
俺が音楽室の戸を開けると、ピアノの音が止み、少女の明るい声が出迎えてくれた。
「もう、全然来てくれないから、約束破られちゃったかと思ったよ」
「──すまない…。お前と会うのにどんな顔をしたら良いか、分からなくなってな…」
本当は、もっと早く来てやりたかった。だけど、誰もいないはずの音楽室から聞こえてくる演奏を聴くと、行くのを躊躇ってしまっていた。家族同然の仲間たちを失っている彼女が叩く鍵盤の音には寂しさをはらんでいる。そんな気がしてならなかった。
「僕はもう大丈夫だよ。四時ババたちのことは悔やんでも悔やみきれないけど…。でも、私もいつまでもウジウジしてられないから」
少女は、鍵盤の上に置いた透き通るような手をぎゅっと握りしめた。その強がりな言葉とは裏腹に、彼女の霊体はわずかに細かく震えているように見えた。
「強いな、お前は」
「そんなことないよ。死んだことだって、未だに受け入れられてないんだからさ」
自嘲気味に笑った彼女の横顔は、生前の苦悩を物語るように、どこか儚げに揺らいでいる。
俺はピアノの椅子から少し離れた場所に立つと、彼女の演奏を邪魔しないようにゆっくりと歩を進めた。
「先生、さっきの曲の続き、聴いてくれる?」
返事を待たずに、彼女は鍵盤に指を置いた。
先ほどまでの寂しげな響きとは打って変わり、今度は力強く、しかしどこか切ない旋律が音楽室を満たしていく。音の粒が空気に溶け込み、埃の舞う古い教室を、まるで別の世界へと塗り替えていくようだった。
「…この曲……」
演奏の半ば、俺の脳裏にとある情景がフラッシュバックした。
ピアノを弾く木下先生と、それを聞く二人の子供。一人は俺。もう一人は…。
重なる音が音楽室を満たしていく。空間を満たすその演奏は、誘うように記憶を蘇らせる。曲の終盤になると、その記憶は鮮明に映っていた。
「聞いてくれてありがとう。お客さんに聞いてもらうのははじめてだから、少し緊張したよ」
「そうか──。そうとは思えないぐらい優雅な演奏だったけどな」
ピアノはあまり得意ではないが、楽器を吹いていた経験がある分、彼女の演奏に込められた熱量や、微かな心の揺れのようなものは、肌で感じ取ることができた。空気を震わせる残響の中に、まだあの日の記憶の残像が揺らめいている。
「木下先生の演奏に、そっくりだ」
俺の言葉を聞くと、驚いた表情を彼女はさせる。
「木下先生を知っているの?」
「ああ。よく知っているよ」
この様子だと、かつての記憶が残っているのは俺だけのようだな。
目の前にいる、自分を「僕」と指し示すピアノを弾く少女が、木下先生のピアノの演奏を聴いていた時に、隣にいたあの娘に酷似している。
「俺も、木下先生に世話になった時があってな」
「そうなんだ──。もしかしたら僕たち、同い年だったかもしれないんだね」
「──かもな」
核心を着くために、俺はいくつか質問を投げることにした。
「お前、名前は?──確か『柚月』って呼ばれていた気がするが…」
「うん、合ってる。柚月だよ」
子供によくある無邪気な返答が返ってくる。だが、それとは反対に、俺は落ち着いた態度で質疑を続けた。蜘蛛妖怪としてではなく、人間としての思い出に確信を得るために聞いていた。
「生前の記憶は残っているか?」
「……うん。覚えているよ。木下先生と、私と、もう一人が楽しくピアノを弾いていたこと。最期に見た、巨大な怪物も…」
どちらも俺のことだ。しかし、柚月はそれを把握している様子ではなかった。そして、何よりも俺も彼女のことを先ほどまで忘れていたことが引っかかる。歳のせいにするには、早すぎるよな…。
「先生?大丈夫?」
「あ、ああ。すまない。ちょっと気になったことがあってな…」
「ふーん…。ねえ、先生。僕、やっぱり連れられちゃうのかな?。あの世に…」
打って変わって、少し落ち込んだ様子で質問を返してきた。死者をあの世に連れる蜘蛛妖怪を目の前にしているのだ。嫌でも気に留めてしまうのは、良く分かる。
「この世を離れるのは、嫌だよな」
「……うん。長いことこの世を彷徨い続けたからね。ここで過ごしていた時間がある分、愛着は湧いている。特にこの場所は、七不思議の妖怪たちと共に居た思い出の場所でもあるから」
聖域、とはまた違うか。彼女に取って、ここは家同然の場所。離れたくないに決まっている。
「でもさ、ダメなんだよね?死者がここに残ることって…」
なんとかしてやりたいが、上がどう決断するか…。
「そうだな…。今、俺の兄妹があの世の偉い人にお前について話してくれていると思う」
ほとんどの確率であの世に連れて行く結論にはなると思う。死者をこの世に残すのは、悪霊へと変貌させてしまう大きな要因となる。そうなれば、元も子もない。
「とは言え、この世に残れる可能性はあまりない。死者である以上、お前の身を案ずるためにあの世に導かなきゃいけない。でも、お前の意思は尊重してやりたい」
償いと言ってしまえば、それまでだ。柚月は、俺のせいで死んでしまっている。被害者の柚月を俺の手であの世に連れてなんていけない。連れて…いきたくない。
しかし、その旨を柚月に話せばどうなる。何気なく話しをして、初めての客と慕う相手が、自分を殺した奴だと知れば、それこそ悪霊になってしまうのではないか。何年もこの世で過ごしたとは言え、子どもには変わりない。この事実を受け入れられるわけがない。
「優しいね、先生。だから先生なのかな」
柚月はピアノ椅子から腰を浮かせると、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。そのままガラス越しに外を見つめる彼女の背中は、痛々しいほど小さかった。
「でも、大丈夫だよ。──もう、全部気づいているから…」
後ろに手を組んでからこちらを振り向くと、朗らかな笑顔でそう言い放つ。瞬間、俺の額から頬に冷えた汗が伝う。そして、緊張のあまり唾を飲んだ。
「先生が、僕の友達になってくれた、あの子ってこと。暴れまわって故郷を消しちゃった土蜘蛛ってこと。君が僕を死なせた元凶ってことも──」
息が詰まった。喉の奥が固まり、声にならない呼気が漏れる。
すべてを察していた。こちらの懸念も、伝えられずにいた残酷な真実も、すべてを理解した上で、彼女は俺にあの旋律を聴かせ、無邪気な「少女」として振る舞っていたのだ。
「いつから、気づいていた…」
「先生が木下先生を知っていると、話してくれた時、かな」
楽しそうに話しながら、窓際からこちらに歩み寄って、最後は俺の顔を覗き込むようにして、小さく首を傾げた。
「その時僕、同い年かもしれないって話をしたでしょ」
「それがどうし…」
そうか…。木下先生が教師になった時、俺たちは彼にとって最初の児童。盲点だったな…。
「騙すようなことをして、ごめんね。雷羽君」
その名を呼ばれた瞬間、背筋に冷たい衝撃が走った。
「先生」ではなく、何年も前に失われたはずの「幼馴染」としての名前。何気ないその一言が、隠していた過去の記憶を一気に引きずり出していく。
「死ぬ直前、雷羽君の『あの姿』を見た時、僕は凄く怖かった。でも、それをかき消すぐらい、君の不安を感じた。──寂しかったんだよね」
「──情けねえよな。同じ恩師に世話になっているのに、俺は感情に任せて、暴れに暴れて…。それに比べてお前は、この状況においても自分を保てている」
「情けなくなんてないよ。君はちゃんと、僕のことを想って苦しんでくれてた。……それだけで、僕の心は救われちゃったんだから」
恨みも憎しみも、怒りさえも感じさせない。
ただ澄み渡った言葉と眼差しが、俺の胸の奥深くに重くのしかかっていた自責の念を、優しく解きほぐしていくようだった。
「この世にはもういらないかもしれないなら、一つだけ、お願いしても良い?」
「死者を満足させて見送るのも、蜘蛛妖怪の務めか。良いぜ。お前は特別待遇にしてやる」
第三話「隠れ家の洋菓子店」
あんなことを言ったばっかりに、心美からまた説教を受けちまうことになりそうだな。
死者を一時的に目に見えるようにして、町を歩かせたなんて知られたら、心美の説教だけではすまないだろうな。
「お待たせ、雷羽君」
時は次の日の放課後。俺は学校から少し離れたところにある駅前のコンビニの前で柚月を待っていた。
学区周辺の住宅街に比べ、ビルが聳え立っていて都会らしい。人の通りが多くて落ち着きがない。
そんな場所に似つかわしくない俺がここにいる理由は他でもない。柚月の願いを叶えるためだ。
「気にすんな。そんなに待ってない」
これからデートにでも行くようなやり取りをする。何故なら今から始まるのは、紛れもないデートなのだから。
「良かった。じゃあ行こう」
「そうは言っても、プランはあるのか?」
「まったくないよ。雷羽君が考えてくれるかと」
「デートなんてしたことないのに、考えれるわけないだろ」
「それは、僕も一緒だよ」
……それもそうか。
デートって、具体的にはどんなことをすれば良いんだ。ただその辺を二人でふらつくってだけでは、面白みにかけるよな。
「どこか行きたいところはあるか?」
「そうだな〜。服屋さん見てもよく分からないし、甘いものでも食べに行きたいかも」
「甘味処か。洋と和、どっちが良いかで行く店を決めてやる」
「──じゃあ、ケーキとか食べてみたい」
少し考えたあと、柚月はそう答えた。
俺たちの住んでいたあの村は甘味処が少なく、食べれても牡丹餅か団子だった。洋菓子には興味も湧くよな。よし、ついでにあいつに力を借りてみるか。
「とっておきの店を知ってるから、そこに行こう」
都会にあまり足を運ばないとは言え、菓子屋ぐらいはよく知っている。出張先への手土産とか買う時に、ちょくちょく通うからな。それに俺自身、お菓子は好物だからな。
「楽しみ」
そう言った柚月の表情は、小さな子供のように和んでいた。というか、子供だったな。
俺は洋菓子屋目指して、歩みを始めた。その隣を柚月は短い足で足並みを揃えて歩く。
死者とはいえ、少女には変わらないからな。なんだか良くないことしているみたいで、落ち着いて歩けやしないな。一歩間違えればP活…。
「雷羽君は、なんで教師になろうと思ったの?」
悪い思考を掻き消すように、柚月が話しかけてくれる。
「色々あるけど、やっぱり木下先生の存在が大きいかな」
「木下先生、優しかったもんね。友達ができない僕にも、いつも気にかけてくれて。毎日が楽しかったよね」
「そうだな」
あの人と出会っていなかったら名前も無いままだったし、人の温かみも一生分からないままだったかもしれない。
「木下先生のような人になりたくて、俺は教師を目指した。たとえ災厄の血が流れても、名前に恥じない人になりたい。それが教師を目指した一番の理由だな」
「なれるよ、というより、もうなってるんじゃないかな」
「──まだまださ」
「昔より丸くなってるし。あの時みたいに、無愛想な君も可愛かったけど」
「な、お前……」
そんな会話を進めているうちに、目的地の菓子屋に着く。場所は人混みから少し離れた場所の裏道にある。知る人ぞ知る、隠れた名店ってやつだな。古い知り合いの異端児が働いている。
ここはよく俺が、自分へのご褒美に寄って帰る洋菓子店だ。ここのケーキはハズレがない。どれを食べても味が良く、次は何を食べるかを楽しみになり、嫌でも足を運んできてしまうほどだ。
「わ~。凄いたくさんある」
柚月はケーキの並ぶショーケースに顔を近づけて、ガラス越しに眺める。ガラスに反射して見える彼女の瞳は、物珍しいものを見る少年のようにキラキラと輝いていた。
「これだけあると迷っちゃうな。雷羽君のおすすめ聞いてもいい?」
「俺のおすすめか。まあ、よく買うのは、『スフレチーズケーキ』ってやつだな」
「じゃあ、雷羽君はそれね。僕はこの『ロールケーキ』ってやつにする」
「おい、俺の選択権は」
「雷羽君は大人なんだから、我慢して」
「あのな……」
ショートケーキとかの生クリーム系の気分だったんだけどな……。まあ、しょうがないか。俺はまた来ようと思えば、いつだって来れるんだ。楽しみは次に取って置こう。
「分かったよ。頼んでおいてやるから、先座っとけ」
「はーい」
やれやれ。まるで保護者にでもなったみてぇだ。
俺は注文をして、財布から現金を取り出しながらそう感じた。
「雷羽、俺、知らなかったよ」
支払いを終えて、レシートをしまった財布を閉じていると、知り合いが話しかけてくる。何を話されるかは、なんとなく予想はつくがな。
「お前結婚してたんだな」
「してない。あいつは姪っ子だ。俺の娘じゃねぇ」
「なんだよ。てっきり俺、結婚式呼ばれなかったのかと思った」
結婚式に呼ぶほど親しくなった覚えはないんだがな。
「まあ、そうだよな。女とか居たこと見たことねぇしな。結婚どころとかじゃないか。良い女紹介してやろうか?」
小馬鹿にするように笑い、そんなことを言ってくる。
「余計なお世話だ。前から言ってるように、俺は恋愛とか結婚に興味はない。自分一人を面倒するのも大変だから」
人生で告白ってやつは二、三回ほど経験はある。でも、全て断ってきた。理由は明確だ。俺はただの人間ではないし、人間より遥かに寿命が長いだろう。もし、俺が相手を本気で好きになった時、別れが辛くなるのは分かりきっているから、恋愛は避け続けてきた。
「支払いは済んだんだ。俺をイライラさせたくないなら、早いとこ品を持ってくるんだな」
「相変わらず態度悪いな。本当に教師かよ」
「教師だよ。こんなでも、生徒には慕われてるほうだと思うぜ」
そいつに背を向けてまま返事をして、柚月が座る席に向かった。そして、窓際の二人席に座る柚月の向かい側に腰を掛ける。
「雷羽君にもお友達いるんだね」
「あんなのダチでもなんでもない。ただの中学時代の厄介者さ」
「あ、そうなんだ。雷羽君はお友達とかいないの?」
「……まあ、いないことはないが、友達というよりかは同僚っていう方が近いかもな」
「前に一緒に戦ってた、他の先生とか?」
「そうだ。あの二人の他にも、もう一人世話焼きな上司がいる」
「へ〜……」
にこやかに笑って会話をしているが、柚月の表情には、隠しきれていない寂しさが滲み出ていた。
「僕もなれるかな、その人たちの友達に……」
「なれるさ」
俺はそう答えてから、柚月に耳を貸すように頭を近づけさせる。そして、小声で話を続けた。
「──ここだけの話、女の先生は俺と同じ妖怪だ。それにもう一人は、神主を継承者の端くれだし、世話焼きの上司は妖や霊にも寛容だ」
「あの学校、妖怪が多いんだね」
こそこそ話しながら、小さく笑う。
昔もこんなふうに話していたっけな。木下先生にイタズラをしようとして、ピアノの下に隠れた時とか……。懐かしいな。
「お客様、ご注文の品を持ってきましたよ」
「のーッ!!?」
昔のことを思い出した余韻に浸っていて、ちっとも気づかなかった。他に客も居ないにも関わらず、妖怪のことや木戸たちのことを周囲に聞かれぬよう意識しすぎて、視野が狭まっていたのか。びっくりして大きな声を出しちまったよ。
「お、お前!居たなら何か言え!」
「言ったじゃねぇか」
「もう少し気配を出せよ」
「文句の多い客だな」
こっちが無駄に熱くなっているのとは反対に、そいつは冷静に返してくる。こういうところが苦手なんだ。
「それで、なにこそこそ話してんだ。死者の嬢ちゃんとよ」
「……分かってたのかよ」
「当たり前だ。何百年蜘蛛妖怪やっていたと思ってる」
流石に同胞には隠しきれないか。いや、元同胞か……。
「雷羽君、この人何者なの?」
「こいつは……」
「俺から説明しよう。自分のことは自分がよく分かっているからな」
俺の説明に割り込んでくる。ケーキを俺たちの座る席に置いて続きを話し始めた。
「俺は元蜘蛛妖怪の『平蜘蛛』。雷羽とは古い仲でな。そいつがもう少し若かったころ、一人前に育て上げるための一人者と言ったところだ。今は引退して、このケーキ屋『ヒラクモ』を営んでいる。よろしくな」
「よ、よろしくお願いします……」
「そんなに怯えるな。別にお嬢さんを連れるなんてことはしないから。そっちの阿呆には少し話が必要かもしれないがな」
「う、うす……」
穏やかな声色から重たいものに分かり、冷たい視線がこちらを捉えた。
「俺も引退した身だ。おれやこれやとやかく言うつもりはないが、蜘蛛妖怪の掟を破るなら、もっと上手くやれよ」
そう言うと柚月に手のひらを近づけて、術をかけた。
「死者の霊気を掻き消す妖術だ。これなら、他の蜘蛛妖怪に勘付かれなくて済むだろ」
異端児と呼ばれるだけあって、平蜘蛛の導き方は独自のものだった。未練がある死者には体を与え、生前やり残したことを一つ行わせてからあの世に導く。蜘蛛妖怪では、群を抜いて死者思いなやつだった。だが、そんな掟破り行為が原因で、この世に出ることを禁じられ、平蜘蛛は自ら蜘蛛妖怪を辞めた。
「流石、蜘蛛妖怪の異端児。来て正解だったぜ」
「ふん。用が済んだなら、さっさとケーキ食って、お嬢さんを楽しませて来い。俺が手を貸せるのは、ここまでだ」
「ありがとう。これで少しは気軽に仕事ができそうだ」
俺が礼を述べたころには、すでに盆を持って厨房の方を振りかえっていた。俺の言葉を聞き取ったことを示すように、手だけを振って厨房へと消えていった。
「やっぱり友達なんじゃん」
「だからダチじゃねぇって。あいつと行動を共にしていた時は、ろくな目に遭わなったな」
「雷羽君って丸くはなったけど、意地っ張りなところは変わってないね」
「そんなことない、ってなにちゃっかり俺のチーズケーキ食ってんだ」
「ん、一口ちょうだい?」
「遅いわ!!というか、お前もそういうとこ変わって、んむっ!?」
大人げなく怒鳴っていると、口の中にふんわりとした生地と口当たりがなめらかな生クリームの甘さが広がり、俺を黙らせた。柚月が俺の口にロールケーキを運んだのだ。
「これでお相子。どう、美味しい?」
「……うん」
いちごの甘酸っぱさが後を追ってくる。フォークが口元から離れると、少し黙ってから俺は小さく頷いた。同時にいろいろと募ってきて耳が熱くなった。
第四話「狂乱のアンサンブル」
ケーキを食べながら、柚月がこの世を彷徨っていた間の話を聞いていた。
話を聞いている限り、俺が思っていたほど大変な思いはしていないようだ。七不思議の妖たちと出会い、共に過ごしていたことが功を奏して、悪霊化する兆しも出ずに済み、並大抵の妖怪とは渡り合えるほどの戦闘能力も身についたらしい。
「君や木下先生と話していた時も充分楽しかったけど、この世を彷徨うようになってからは嫌なこともなくなった。仲間が増えて、必要とされるようになったからなのかな」
柚月は、俺と仲良くするような人間だった。それ故か、周りの子供は柚月から距離を取るようになり、俺と似た扱いを受けるようになった。子供だけじゃない。肉親までもが、態度を豹変させていた。
それでも柚月は俺から離れることはなかった。
「俺と仲良くしなかった方が、人間として幸せになれてたんじゃないか?」
俺は冗談混じりで、そんなことを聞く。柚月はそれに対して、首を横に振った。
「ううん。そんなこと絶対にありえない。雷羽君と仲良くしてなかったら、今の僕はない。友達だったから、雷羽君が暴れてしまった理由も理解できた。君と再会した時、心優しい青年になっていて、僕、とっても嬉しくなったよ」
柚月のその言葉は、俺の心に響き、嬉しさに満ちた感覚になる。同時に一つの疑問を抱かせた。
それは、こんな良い友人を長い間忘れていたこと。
柚月は一人ぼっちだった俺を、木下先生と共に側にいてくれたのだ。そんな人を忘れて良いはずがないのに、俺は本人と再会するまで思い出しもしなかった。
「ふぅ……。ご馳走様でした。美味しかった〜」
そんな引っ掛かりを解くかのように、ケーキを食べ終えた柚月の満足そうな声と自然に溢れる表情が場の空気を変える。
「次はどうしようか?」
「──そうだな。一時的とはいえ、折角人間に近い状態になってるからな。おしゃれとかしてみるか」
「雷羽君って、そういうの分かるの?」
「おいおい、こんなんでも美術教師、美大卒だぜ。ファッションデザインの知識も、ちっとは備わってるさ」
「……それにしては、会う時毎回同じ服装だね」
「……めんどくさいからな。毎朝服を選んで来ていくのはよ。それに、これじゃないと落ち着かないんだ」
しかも戦闘時のダメージを軽減をしてくれる効果も多少ある。最近はほとんど意味を成した時はないがな……。だが、ボロになっても従者妖怪のシンさんが繕ってくれるから、買い換える必要もない。環境に配慮できるという利点もある。
「お気に入りなんだね」
「まあな。着てやらねぇと、しつこく構ってくる従者もいるし…」
これ以上話すのは止めておこう。シンさん、どこで聞き耳立ててるか分かったもんじゃないし……。
その時、俺の頭の中に声が響いてきた。聞き覚えはあるが、シンさんではないようだ。──ちょっと期待したんだけどな……。
「雷羽、聞こえるか」
「閻魔王?なんだよ今忙しい…」
「大変なのじゃ!!」
どうやら只事じゃないらしいな。いつもなら呼び捨てにしたことを素早く指摘してくるのにそれがない。そのうえ話し方には慌てふためいているのが分かりやすく伝わってくる。
「どうした」
「地獄の罪人共がこの世に抜け出していった!!」
「なんだって!?」
思っている以上に大事だ。地獄の罪人が抜け出したなんて、それがマジなら早急に対処しないとヤバいことに……。
焦りを感じ、外の様子を窓から覗く。先ほどまで青かった空は黒い雲で覆われていく。漂う陰気の量が尋常でないのだ。
「雷羽君…」
「何があった。雷羽」
異変に気付いた柚月は不安がり、平蜘蛛は俺に尋ねてくる。
不安がる柚月の側に寄った後、平蜘蛛に状況を説明をする。
「地獄にいた罪人たちが、どういうわけかこの世に来ちまったらしい」
「なんだと……!?」
常に冷静な振る舞いを見せる異端児も、これには驚きを隠せない様子だった。だが、それは当然の反応だ。俺たち蜘蛛妖怪、いや、この世界に置いて起きてはならないことが起きているのだ。
「まさか、赤赫刃……」
「おそらくな……。察しがいいな」
「ああ。噂には聞いていたんだ。あいつらがこそこそ動きまわっているのをな」
……この店、結構蜘蛛妖怪の中じゃ有名なのか?って、んなこた今はどうでもいい!!
早く俺も動かねえと……。
パリンッ!!!
突然窓ガラスが割れる。死者が店内に飛び込んできたのだ。
俺は咄嗟に柚月を庇って、ガラス破片から彼女の身を守った。平蜘蛛は前方へ転がり、間一髪で店の端へと身を滑り込ませた。
「もう暴れまわってんのかよ!?」
目の前には、ガラの悪い死者が数体。かなり濃い妖気を纏っている。すでに霊体ではないようだな。
「てめえら、誰の差し金だ!!」
返事のないまま死者たちが襲いかかってくる。俺はすぐに短鎌を懐から二本取り出し、両手に構えて近づいてくるやつらを斬りつけた。数が多く、斬撃だけでは応戦しきれない。途中蹴りを入れながら対処するが、隙を突かれてしまう。
「くっ……!!」
さらに追い打ちをかけに、もう一体攻め込んでくる。しかし、その死者は俺に攻撃を与える前に、爆発音とともに横へ吹っ飛んだ。平蜘蛛に妖術を打ち込まれたようだ。
「平蜘蛛……」
「店で暴れられてんだ。黙って見てるわけにもいかないだろ」
「助かった」
礼を済ませて、態勢を立て直す。一方死者たちはぞろぞろと現れてくる。
「この辺の奴らは、俺が引き受ける。お前はそのお嬢さんと安全なところに」
「何から何まですまないな。行くぞ、柚月」
俺は柚月の手を引いて、店を飛び出し、平蜘蛛に言われたよう安全そうなところへ向かった。が、そんなところ今更ありそうにないな。
周囲は死者の暴動でパニック状態。そこらの建物は荒れ果てていた。
「全蜘蛛妖怪に告ぐ。各地で起こった罪人共を直ちに地獄に送り返すのじゃ。繰り返す……」
閻魔王の声が頭の中に再び響く。
それを聞いた他の蜘蛛妖怪たちが次々と姿を現して、死者との戦闘が勃発する。蜘蛛妖怪と罪人の全面戦争が始まってしまった。
「『糸術・封印網』」
蜘蛛妖怪たちが真っ向から立ち向かう中、俺は柚月を守るためだけに戦っていた。近づいた罪人たちを片っ端から地獄に送り返した。
「くそ、キリがねえ……」
数が多すぎて、妖気がいくらあっても足りない。無闇に封印網を使い続けても、体力の消耗が激しくなる一方だ。
「『音術・停止点』」
背後にいた柚月が俺より前に出て妖術を放った。放たれた妖術は、柚月を中心として広範囲に広がり、それを受けた罪人たちの動きを鈍くし、徐々に動きが停止していく。そして、完全に止まると大きな爆発起こして吹っ飛ばした。多勢に無勢な状況を一変させる。
「僕も怪異の端くれ。守られっぱなしは嫌だから、僕にも協力させて」
「……駄目だ、と言っても、お前はやるだろ」
「もちろん……」
迷いのない真っ直ぐな目。柚月の決意の表れが感じられる。本当はこんな危険なことに巻き込みたくないが、聞き分けがいいやつではないのはよく分かっている。
「無茶はするなよ。背中を預ける」
「うん……!!」
柚月の気合いの入った返事と同時に、互いに背を向けて、俺たちを取り囲む死者たちのいる方向を向く。
封印網を連続で撃つには分が悪すぎる数だが、柚月が自ら身を守る形になった今、すぐに一体一体地獄に送る必要がなくなった。
「こいつらも今のお前と同じで体を持っているから、強い衝撃を与えれば気を失う。今目の前に捉えられている範囲で倒した後、一気に地獄に送り返す」
「分かった!!」
その場から飛び出し、それぞれ目の前にいる隙のありそうなやつらから倒していく。
「たっ!!トリャアッ!!」
「音術・跳音連撃」
多数で襲いかかってくる罪人たちを次々と叩き伏せる。
流石、妖怪に世話になってただけある。死者ながらも、戦いの基礎が身についていて、力任せに襲ってくる罪人たちをたった一、二撃で沈めている。
「どお?僕、戦えてる?」
あらかた片付いてきたところに、柚月が話をかけてくる。
「ああ。だが……」
俺は手のひらに妖気を集中させて弾を形成し、すぐに柚月の方へ飛ばした。その妖気弾は柚月の真横を通り過ぎて、彼女の背後にいた罪人の顔面に直撃した。
「集中を切らすのは、いただけないな」
「うぅ……。ごめんなさい……」
「気にすんな。俺はお前に背中を預けてるんだ」
背後から気配を感じた。そのままそちらを向きはせず、腕を振るって手の甲を近づいてくるやつにぶつけた。
「だから、お前の背中は俺が守る」
不意打ちをしてきたやつを節目に、俺は地獄に送り返すための封印網の準備をした。空に手のひらを向けて、その一点に妖気を集中させる。その上には白紫に輝く蜘蛛の糸を球体にしたものが現れる。
徐々に徐々に大きくなり、やがて片手では抑えきれなくなって、両手を掲げる。
「こいつでまとめて地獄に送り返してやる!!抜け出したこと、この世で暴れ回ったこと、よく反省しやがれ!!」
上に掲げた腕を力強く前に振り下ろして、その巨大な糸玉を投げ飛ばす。巨大な糸玉は勢いをつけて転がり、罪人たちを絡め取っていく。罪人の中に、現状に気づいて立ちあがろうとした者もいたが、もう遅い。
「これが最大級の『封印網』だ」
目視できる範囲のやつら全て絡め取った後、巨大な糸玉を収縮させて、消滅させた。
「はぁ…はぁ…。クッ…!?」
「雷羽君!!」
その場で倒れかける俺に、柚月は急いで駆けつけて肩を貸してくれる。
「……すまねえ。妖気を使い切っちまったみてぇだ」
「あれだけの妖術を放ったんだもん、当たり前だよ」
呆れつつも心配そうに見上げてくる表情は安堵のの色が浮かんでいた。透きとおる彼女の体からは、倒れそうな俺を懸命に支えようとする温かな気持ちが伝わってくる。
「でも、かっこよかった。あそこまでして、この世を守ろうとする雷羽君の姿」
「──馬鹿言え……」
荒い息を吐き出しながら、苦笑いを浮かべて見せる。
「空が見えてきた」
「漂っていた大量の陰気が晴れたんだ」
濃かった陰気が薄くなって、呼吸も楽になってくる。他の蜘蛛妖怪たちも、多くの罪人たちを地獄に送り返せたみたいだな。きっと全部ではないんだろうが……。また、仕事が増えるな……。
「「「どわぁーっ!!?」」」
だが、その平穏なひと時も束の間。名も知らぬ蜘蛛妖怪たちが、大きな地響きと同時に悲鳴を上げて勢いよく飛ばされていった。
第五話「赤赫刃の調略」
「やれやれ。大騒ぎさせておいて、この程度の結果か……」
何者かの声が土煙の奥から聞こえてくる。やつが蜘蛛妖怪たちを吹っ飛ばした張本人と、周囲を漂い始めた陰気で察する。
「貴様が今回の主犯か?」
俺たちの背後から、平蜘蛛の声がした。自分が気になった、というよりも負傷している俺の代わりを務めたみたいになった。
「主犯、ではないけどね。でもまぁ、計画を立てたのは僕だし、自由となった罪人たちに力を与えた一人ではあるね」
「まるで他に首謀者がいるみたいな言い方だな」
「うん。その通りだからね。そういう君は、何をしているんだい?──平蜘蛛」
「……っ!?」
名前を呟くと、土煙の中から平蜘蛛の目の前に高速で移動して、拳を振り下ろした。平蜘蛛はそれを瞬発的に躱すと、その拳はアスファルトの地面にひびを入れた。
「……元蜘蛛妖怪の分際で僕たちの敵に回るなんて、どうなるか分かってるだろ」
土煙から姿を現した群青色の髪と桃色の瞳を持つ男は、落ち着いた雰囲気を帯びながらも怒りの籠った声で問いを返した。
「勘違いするな。俺は、店を荒らした連中をとっちめたまでだ。蜘蛛妖怪に加担したつもりはねえよ」
「それで言い逃れられると思ってるの!!」
叫びと共に群青色の髪の男の右腕が筋肉で肥大化していく。剛腕となった両腕には夥しい妖気が溜まっている。
「フッ!!ハアッ!!」
その剛腕を持ちながらも、動きは鈍ることなく、平蜘蛛に襲いかかる。一方、腕を激しく振り回して、接近する拳の嵐を、平蜘蛛はなんなく躱し続けた。
「タアッ!!」
速さが劣ることのない拳の動きから、隙を見つけたのか、蹴りを一撃繰り出す。群青色の髪の男は、後退して怯みを見せるが、すぐさま横に身体を回し、反動をつけて反撃を狙う。
「ハッ……!?」
だが、それも容易に受け止めると、相手を腕ごと持ち上げて、地面が凹むほどに叩きつける。それを受けた群青色の髪の男は、悲鳴を上げることすらできていなかった。
「なんて力だ……」
俺も思わず声が出る。蟻蜘蛛兄さんより強いと聞いていたが、本当にそうかもしれない……。
「腕は鈍っていないようだが、まだまだだな」
「クッ……!!……ハッ!!」
男はすぐに立ち上がって、再び攻撃を仕掛けるが、依然として平蜘蛛には当たることはない。やがて攻撃が止む。
「はぁ……はぁ……。やっぱり強いな〜。蜘蛛妖怪トップの異端児は……」
そして、剛腕を元の細い腕に戻した。
「──なぜ地獄の罪人たちを解放した。お前たちに利点はないだろう」
妖気がある程度回復した俺は一人で立てるようになる。肩を貸してくれていた柚月の元を離れて、息の切れる群青色の髪の男に尋ねた。すると、こちらを嘲笑しながら口を開く。
「君はまだまだ甘ちゃんみたいだね、半妖怪の土蜘蛛君。僕たちの策略にすら察しがつかないなんて──」
「なんだと……」
「特別に教えてあげるよ。それはね……」
その時、背後から殺気を感じた。咄嗟に振り向くと、二人の見知らぬ蜘蛛妖怪が襲いかかってきている。俺は指先から糸を素早く出して、襲いかかる二人を拘束し、地面に叩き伏せる。
「君たち蜘蛛妖怪を誘き出すためさ。僕たち赤赫刃の戦力を少しでも増やすためにね」
「なるほどな──。まんまと嵌められたわけだ」
彼らからは生気を感じない。おそらく、この男との戦いに敗れて、命を落とした者たちだ。
「その通り。そいつらも、幽霊ちゃんの妖術によって人形にされているんだ」
男がそう言い放つと、周囲に倒れていた蜘蛛妖怪たちが、操り人形の如く歩み寄ってくる。
「酷い……」
「命を何だと思っているんだ……」
俺と側に立つ柚月は、その非道さに言葉を失う。だが、その悪行に戸惑うことなく、前へ踏み出す者がいた。
「こいつらは俺が相手をする。お前には、少し荷が重そうだからな」
──平蜘蛛。かつて同胞だった者たちを相手にするのは、あいつだって同じはずだ。それなのに平蜘蛛は顔色ひとつ変えず、死せる蜘蛛妖怪の軍勢へと立ち向かっていく。
その背中を見送った俺は、静かな怒りを宿した瞳で敵の男を睨みつけた。
「幽霊ちゃんって、言ってたな。やっぱりお前も赤赫刃の一人みたいだな。だったら、手加減はなしだ」
俺は妖気を全身に巡らせて、妖力を上げる。瞳は水色に、さらに高めて姿を妖獣化を制御した『あの姿』へ変える。
「罪人も、死者も、お前たちの道具じゃねぇんだ。何が望みで殺しを楽しんでんのか知らねえが、俺はもう、お前らに慈悲をかけるつもりはねぇッ!!」
低い体勢になってから、思いっきり地面を蹴って男に接近し、拳を顔面に容赦なく叩き込んだ。
俺の攻撃を受けた男は吹っ飛び、態勢を崩しながら二、三度ほど地面を跳ねた。
「なかなか良い拳じゃないか」
態勢を立て直して、殴られた頬を撫でながらそう言う。そして、平蜘蛛と戦っていた時と同じように、両腕を剛腕なものへ変える。
「相手にとって不足なし。こっも殺す気で行かせてももらうね。僕の名は『地蜘蛛』。赤赫刃の調略人さ。死ぬ前に、覚えときなよ」
話を終えた途端、地蜘蛛は地面を力強く殴り、地割れを起こしながら地形を変形させる。殴った箇所を始めに、こちら目掛けて石刃が地面から生えてくる。
俺は側宙して避けながら、長く鋭い爪を伸ばす。その爪に妖気を集中させてから、素早く振り上げて刃を飛ばす。
「『岩術・編斬岩』!!」
十本に及ぶ三日月型の刃が地蜘蛛を標的として飛んでいくが、奴の剛腕は全てを粉々に砕いた。
「だったら──これならどうだッ!!」
俺は地蜘蛛の全方位を取り囲むように超高速で円を描いて走る。そして、まるで分身を生み出しているかのように見せた。
「分身とは、なかなか狡いことするね」
「単体で駄目なら、数で攻めようと思ってな」
再度爪に妖気を集中させ、分身全員で一斉に放った。六体から放たれる六十本のも刃が地蜘蛛を襲った。だが、地蜘蛛は無抵抗だった。
刃は確かに命中した。しかし、俺の放ったその攻撃は、俺自身へと飛んでくる。俺はすかさず伸ばした爪で斬り刻み、身を守った。
「どうなってやがる……」
分身を無くして一人になってから地蜘蛛に目をやると、驚くことに奴の身体は原型を保っていなかった。液体と個体の間の状態で、どろどろとしたものへと変貌を遂げていた。唖然としてる間に、時間を掛けないで、元の地蜘蛛の姿へと戻った。
「自分の体を泥か何かに変えたのか……。随分気色の悪い妖術が使えんだな」
「言ってくれるね。でも、便利な術だよ。こんなことだってできるんだからさ。足下を見てご覧」
指摘されて初めて気づいた。いつの間にか、その場で固定されていた。
「君が放った斬撃に、僕の粘土を仕込んどいた。君がそれを粉々にした拍子に、摩擦で熱を帯びて徐々に固まったみたいだね」
あんなデケェ腕持っておいて、頭が切れんのかよ。ただの脳筋かと思ってた。
「終わりだ……」
俺に接近して大きな拳を真っ直ぐ飛ばしてくる。俺はそれを受け止めようと構えた。まともに喰らえば、肋一本二本じゃ済まないぞ。
「『音術・最初へ還れ』」
しかし、地蜘蛛の拳は飛んでくるどころか、奴自体始めにいた場所に戻っていた。さらに、俺の姿は戦う前のいつも姿になり、足元の拘束は解けていた。
「いつから敵が雷羽君だけだと思ってたの?」
「なにっ!?」
柚月がその透き通る手に旋律の残響を纏わせながら、不敵にそうと言い放つ。一方地蜘蛛は突然起きた巻き戻し現象に動揺していた。
「助かった」
「さっき僕の背中を守ってくれたお礼だよ」
柚月は片手にピースサインを作って、悪戯っぽく笑ってみせた。
ダ・カーポ。曲の頭に戻れという意味だったな。まさか、俺たちが戦う前の状態までに戻しちまうとは、四時ババのやつ、とんでもない妖術を覚えさせたな。お陰で戦況は一気に覆った。
「死者の小娘のくせに生意気だな。厄介な妖術使いやがってよ」
地蜘蛛は再び腕を筋肉の剛腕なものに変えて、怒りに任せたように地面に拳を打つけた。今度は石刃ではなく、地底から溢れたマグマが噴き出してきた。
「『地術・地熔拳』」
そのマグマの熱を纏うように、奴の巨大な拳は赤さを帯びる。
「今更本領を発揮したところで、もう僕たちに勝てないよ。君に勝つ旋律が出来上がってるから」
柚月は凛とした表情でそう言い放つと、妖気を両手に集中させた。彼女の意図を瞬時に察した俺もまた、両手に濃密な岩の妖気を練り上げていく。
「『音術・豪奏』」
「『岩術・金剛岩』」
拳を作ると同時に、俺たちの両手は硬く強固なものに変化を遂げる。
「今更僕の術を見抜いた所で勝てやしないさ。実力に差があるんだよ。お前らとはなーッ!!」
さっきまでの冷徹な雰囲気の陰はなく、荒々しい口調でそう言い放ちながら、灼熱を纏う拳を振り上げてこちらに向かってきた。
「行くよ、雷羽君!!」
「まかせろ!!」
地蜘蛛の大きく振るう拳を避けながら、俺たちは隙を探って拳を叩き込む。硬く強化された拳が、重い一撃を何度も繰り出した。
「ゴハッ……!?……ハァーッ!!」
「クッ……!?」
「うわっ……!?」
この攻撃を受けても尚、地蜘蛛はまだ倒れなかった。それどころか、妖力をさらに高めてくる。溢れ出す妖気が俺たち二人を吹き飛ばした。何とか崩れた体勢を立て直しながら着地する。
「グハッ!!?」
反撃に向かおうとしたその時、地蜘蛛の口から血が吐き出てきた。その拍子に膝も着く。ダメージを負いすぎたようだ。
「ここまでか……ッ!!」
ドゴンッ!!
「待てっ!!」
地蜘蛛が地面を手のひらで強く押すと土煙が上がり、その煙と共に姿を消した。
「逃げられたか……」
俺は術を解いて、岩を纏った拳を楽にする。それと同時に疲労感に襲われて、足元がふらついた。
「うわっと!?大丈夫?」
「ああ……。なんとかな」
倒れかける俺に、柚月はまた肩を貸してくれた。俺はすぐに自分だけで立とうと、足に力を込めた。
「あいつ、逃げる寸前まで妖力を隠してやがったな。かなりギリギリだった」
「でも、勝ちは勝ち。僕たちの大勝利だよ!!」
無邪気にはしゃぐ柚月は、ハイタッチを交わそうとしてきた。それに応えようと、俺は腕を上げて柚月の手のひらに手を伸ばした。
だが、柚月の手のひらには触れることはなく、離れる一方だった。
第六話「二度目の喪失」
「柚……月……!?」
柚月の胸を、どこから来たかも分からない鎌の刃が貫いていた。背中から心臓を通って、自身の血で染まった刃が柚月の顔の前にある。
「あっ………がっ………」
刃が勢いよく引く抜かれると、柚月はその場に糸が切れた人形のように倒れてしまう。俺は倒れた柚月を残った力を振り絞って抱え、喉が張り裂けそうなほどに柚月の名を読んだ。
「おい柚月っ!!しっかりしろ!!柚月ッ!!」
抱える柚月の体が徐々に軽くなり、冷たくなっていってしまう。与えた体が妖気を失って、保てなくなっているのだ。
「雷羽……くん……」
「待ってろ!!今治療を……」
震えた声で名前を呼ばれた時、息がまだあることを確認する。俺はすぐに糸術を使って傷口を塞ぎ、妖気を与えて柚月の回復を試みる。だが、傷は塞がっても、体を再び人の重さや温かみを取り戻すことはなかった。
「なんで……!!」
これでは、あの世に連れて行くこともできない。
俺は残りの妖気を全て柚月に与えようと、彼女の心臓の位置に手を置いた。だが、それを拒むかのように、柚月は俺の手を優しく握った。
「もういいよ、雷羽君……。僕は既に死んだ身……。治療を受けれる体はもうないんだから、回復は難しいと思う……」
頭では分かってる……。
でも、受け入れたくない……。
「雷羽君と、またお話できて楽しかったな……」
「やめろ……。別れみたいになるだろ……」
あの苦しみは、もううんざりなんだよ……。
「嫌だ……。柚月、お前を二度も失うなんて……」
「失いなんかしないよ……。雷羽君が……僕をずっと忘れない限り、そばにいるんだからさ……」
柚月はそう言って、静かに起き上がり、俺を抱きしめた。
「僕からのお願いは……、これで全部叶ったよ。後は君が受け入れるだけ……」
心の中が、ごちゃごちゃに掻き乱される。一瞬にして友を失ったあの恐怖が、再び襲いかかって来ているような……。
言葉を発する気すらも湧かない。ただ絶望に囚われ、涙が頬を伝う感覚だけがあるだけだった。
「大丈夫……。君は、僕が知っている中で、強くて優しい一番の蜘蛛妖怪なんだ。だから、君には、最後まで笑顔でいてほしい」
「……っ!!」
そうだ……。あの世に導いてやることだけが、俺の務めじゃない。死者に安らぎを与えるのが、一番に成し遂げなきゃいけないことなんだ……。
「ありがとう、柚月。俺も決心がついた」
「──それでこそ、僕の大好きな『土亜田雷羽』くんだよ」
柚月は最後に強く抱きしめてきた。
「さようなら。雷羽君」
俺が彼女の頭に軽く触れようとした時には、既に消滅しかけて、触れることはできなかった。
「あばよ、柚月」
俺は雪のように消えていった柚月の、残響を空になった手のひらに強く握った。そして、柚月の背に鎌を刺した野郎を呼び出す。
「出てこいクソ野郎ッ!!」
「──お別れは済んだようだな……」
少しの間の後、何処からか声が聞こえてくる。聞き覚えのある、冷徹な声……。その声の主は、俺の目の前で足元から順に姿を現した。
「透明になって見物とは、なかなか趣味の悪い野郎だな、皿蜘蛛」
「なんだ……。気づいていたのか……」
「ああ。あいつが消えたすぐ後にな。なんだか、色々研ぎ澄まされてる気が済んだ」
柚月が消えた直後、俺の体は燃えるように熱かった。柚月を守りきれなかった自分への怒りや親友を失った悲しみ、赤赫刃に対する憎しみが込み上げてきて、また陰気の影響で暴走しようとしているのかと感じたが、それとはまた違う。何よりも、理性が完全に残っている。
「俺からあいつを、柚月を奪って、また妖獣化の暴走を計ったのか、何だかは知らねえけどよ、もうその手には乗らねえよ。俺はもう、あん時とは違う……」
「………」
徐々に徐々に全身の体温が上がり、身体を巡る血液が沸騰でもする勢いだった。
「俺は蜘蛛妖怪だ。親友の死すらも受け入れられないで、死者を導きくことなんか、できっこねえんだ!!」
そして、俺の体は真っ赤に燃える炎に包まれる。妖獣化を制御した時とはまた違う力が、俺の中に溢れ上がってきた。
「何だと……!?」
それを見た皿蜘蛛は、鬼でも見たかのような顔をして驚いた様子だった。
「行くぜ……!!……ハアーッ!!」
俺は体を包み込む炎を全て右手に集中させて、妖気も全て流し込んだ。そして、その右手のひらを前に出して、左手で支えながら一気に妖術を放った。
「クッ……ガバァッ!!?」
逃す隙も与えないほどの巨大な妖気弾を皿蜘蛛はまともに受けたようだ。奥から断末魔が聞こえてくる。
「くたばったか……。へ…へへっ……ッ……」
______________________________________________
他の児童も帰り始めている放課後、俺は音楽室に残ってピアノを練習していた。唯一、俺と話してくれる同級生と共に……。
『土蜘蛛君、大分上達したんじゃない』
名を「柚月」。苗字は確か「土亜田」だったか。
『当たり前だ。俺は他とは出来が違う。ピアノぐらい朝飯前だ』
そうは言っても、片手で鍵盤を叩くのも目一杯だった。それなりに曲になっているような、そうでないような、ぐらいのレベルだった。
『少し褒めたからって、すぐに調子に乗る。君の悪いとこだよ』
『な、別に調子になんか……』
『はいはい。ほら、続きやるよ。伴奏は弾いてあげるから』
そう言って俺の座るピアノ椅子に、体を寄せて無理に座ってきた。
『もうちょっとそっち寄ってくれる?』
『何でこんなに近くに座る必要があんだよ!!』
『だって、一緒に弾くんだよ?』
『別の椅子を取ってこいよ』
『嫌だよ、めんどくさい。それともなに、僕とくっついて照れてんの?』
『そ、そんなことない!!』
と口にはしながらも、少しでも隙間を作ろうとはしていた。
『……じゃあ、最初からね。四つ数えるから、それに合わせて』
『分かった』
合図に合わせて、俺はメロディラインを弾き始める。タイで繋がる音はそれなりに表現できてる気がするが、スラーで結ばれた音符を叩く時は、まだぎこちない。
それに比べて、こいつは迷いなしに伴奏を奏でていた。
『上手だよ、土蜘蛛君』
途中で声をかけてくるあたり、相当な余裕があるらしい。こっちは隣のぬくもりに落ち着かないまま、必死で鍵盤を叩いているというのに。
半妖怪とはいえ、俺だって一人の男子なんだ。この距離に女の子が座って居りゃ、照れるに決まってんだろ……。
俺の視線は無意識に楽譜から外れ、すぐ隣の横顔へと注がれていた。
湖の水面を舞う白鳥のように、しなやかに鍵盤を跳ねる指先。ピアノの音を愛おしそうに奏でるその姿は、いつしか俺の幼い心を、静かに射止めていたのだった──。
『土蜘蛛君、音が違うよ。どうかした?』
『えっ!?あー…すまない。今、どこやってたか、迷子になっちまった』
突然声をかけられて、動揺した俺は、どうにか誤魔化そうと必死に理由を並べる。
『もう、今はここ。D.C.(ダ・カーポ)があったでしょ』
『それってなんだっけ?』
『「曲の頭に戻る」。見落とさないでよね』
『悪い悪い──』
その時、音楽室に木下先生が入ってきた。俺たちを見つけるや否や真っ直ぐこっちに来て、練習の様子を観にくる。
『頑張ってるな、雷羽』
『雷羽?』
木下先生が俺をそう呼ぶと、少女は首を傾げた。俺に新たな名が付いたことを、まだ知らなかったようだ。
『土蜘蛛君、そんな名前だったの?』
『いや、木下先生が勝手に呼んでるだけだ』
『まだそんなこと言ってたのか。本当は嬉しいくせによ』
『別に、嬉しくなんかねえし……』
木下先生の発言に反論はするが、自然と声が萎んでいってしまう。
『雷羽君か……。良い名前だね』
『そ、そうか?』
『僕も呼んでいい?雷羽君って──』
『か、勝手にしろ……』
そう吐き捨てながら、俺は顔が爆発するほど熱くなるのを必死に隠した。
『名前があるなら苗字も必要だよね。何か考えてるの?』
『別に何も──。名乗る時なんて、今後あるかどうかなんて分からねえし……』
『じゃあ、僕の苗字あげるよ』
『………はあっ!?』
こいつ、自分で何を言ってるか分かってんのか。苗字をあげるって、簡単に言って良いわけがないだろ。
『ば、馬鹿!!そういうのは、もっとデカくなってから言いやがれ……。まるで、求婚みてぇじゃねぇか……』
『そのつもりだよ?』
『はあーっ!!?』
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「……夢?……いや、記憶が戻ったのか……」
妖術を打ち終えた俺が次に目を覚ましたのは、知らない天井の部屋。把握できるのは、心美が俺が横になっている布団の隣に正座して座っているということ。
「おはよう、雷兄」
〜次回のお話〜
赤赫刃を二人も退けるなんて、流石僕らの雷羽先生。でも、当の本人は少し元気がないみたい。あまり気に病まないで欲しいけど……。
ところで雷羽先生。最近見かける、その女の子はどちらさま?
次回、『半妖怪の導き 第十三巻「雷羽の娘がやって来た!?」』
お楽しみに〜
「えっ?ええーっ!!?」
最後まで読んでくださりありがとうございます。
プライベートと小説の両立が上手くいかず、久しぶりの投稿になってしまいました。申し訳ないです。次は期間が広がらぬよう、努力していきたいと思います。
相も変わらず投稿のペースは不定期ですが、今後とも雷羽先生の活躍の応援をよろしくお願いします。




