八百市
八年ぶりに、僕はまたこの地へ戻ってきた。僕は三上樂、中学一年生。両親が交通事故で亡くなって、祖父母の家に引き取られることになったんだ。さっき「戻ってきた」と言ったのは、幼い頃、この八百市に住んでいたからだ。
深い山に囲まれ、海を臨むこの地には、色々な噂があるという。ここに住んでいたのは四、五歳の頃までだったから、どういう噂だったかは知らない。でも、心霊マニアが度々足を運ぶ場所である、ということは知っている。そう、つまり八百市は「そういう所」なのだ。
僕は最低限の荷物だけ持って電車に乗っていた。引越し業者に頼んでいた荷物はもう届いていると、メールでおじいちゃんから連絡があった。慣れていないのか、平仮名ばかりの文面に、僕は笑った。
八百駅で電車を降り、僕は足早に駅を出た。無人駅は少し怖い。迎えに来たおばあちゃんを見つけ、僕は駆け寄った。
「長いこと電車に乗ってて、疲れたろ。」
「うん、少しね。」
おばあちゃんはトラックで来ていた。助手席に乗り、揺られること約五分。少し坂になっている道を登り、庭付きの古い一軒家に着いた。懐かしい、と、僕は呟く。ぼんやりとした記憶の中に建つ家とほぼ同じ、瓦屋根の木造の家だ。
自分の部屋で荷解きをしているとすぐに時間は過ぎ去って、もう夕方になっていた。僕は家の近くを散歩することにした。夏の夕暮れは少し涼しく、ちょうどいい気候だ。
「おばあちゃん、ちょっと散歩してくるね。」
「気ぃつけれ。この時間帯にイマシメサマを怒らすなね。」
夕飯の支度をしながら、おばあちゃんは振り向かずに言った。イマシメサマ?と首を傾げた僕だったが、忙しそうにしているので、あとで詳しく聞くことにしておこうと思い、サンダルを履いて玄関を出た。
夕日が海に沈もうとしている。坂になっているのと、周りに高い建物がないおかげで、海から遠いこの家からも日没が見える。幼い記憶を頼りに、僕は山の方へ向かった。確か、そっちの方には神社があったような。
しばらく坂を登り、やがて石の階段と鳥居が見えてきた。僕が石段を登ろうとすると、僕と同じ年頃の男の子と女の子が駆け下りてきた。
「もしかして、がくちゃんか?」
突然、男の子が僕の名前を言った。驚いてぼんやりしている僕をよそに、男の子は笑顔で話し続ける。
「三上のばーちゃんから、お前がまたここに戻ってくるって聞いてたからさ、会いに行こうかと思って!まさかお前の方から来てくれるなんてなぁ。」
「もしかして、あきくんとはるちゃん?」
僕は急に、神社に住んでいる双子と頻繁に遊んでいたことを思い出した。二人は男女の双子なのに瓜二つだった。よくよく見れば、彼らは今でもその面影を残したままだ。
「何だよ、忘れてたのか。」
双子の兄、晴明ことあきくんが、残念そうに言う。その後ろで、双子の妹、晴季ことはるちゃんが意地悪っぽく笑った。
「あんなに小さい頃だもん。忘れて当然だわ。でも、よく思い出せたね。」
「面影があるから。」
僕はそう言って笑った。あきくんとはるちゃんは、僕を神社に案内してくれた。見覚えのある場所に、僕の心臓が高鳴る。よくお父さんがここに連れてきてくれたんだ。
「タダ兄、がくちゃんが来たよ!」
あきくんが神社に向かって叫んだ。すると、奥からジャージ姿にボサボサ頭の男の人がふらふらと歩いてきた。
「おぉ、樂。大きくなったな。忠行だよ、覚えてるか?」
彼にも見覚えがある。僕たちと一緒に遊んでくれたお兄さん。当時は高校生くらいだっただろうか。昔は黒髪で真面目そうだったのに、今ではチャラチャラした雰囲気で、神社には似つかわしくない明るい色の髪をしている。
「お久しぶりです。ええと、随分、こう、なんというか……明るくなりましたね。」
「そうか?」
僕の言いたいことを何となく悟ったのか、タダ兄はニヤッと笑った。しばらく昔話に花を咲かせていると、神主さんがやって来た。神主さんはこちらを見ると、
「ああ、三上さんとこの。お祖母様からお電話がありまして、夕飯が出来たから帰っていらっしゃい、とのことです。」
と言った。どうしてここにいることが分かったのだろう?と不思議に思いながらも、僕はあきくんたちに別れを告げ、石段を下った。
神社と自宅は一直線の道で繋がっている。日が沈み、残光が水平線をオレンジに染め上げている。辺りはすぐに暗くなっていく。早く帰らなければ、と、僕は坂道を走った。途中、フードを被った髪の長い少女とすれ違った。すれ違いざまに、少女が何か呟いたような気がしたが、僕はあまり気にせず家路を急いだ。
「おかえり、樂。」
「ただいま。」
おじいちゃんに迎えられ、僕は家に入った。夕飯の支度は既に済んでいたので、僕は手伝わなかったことに罪悪感を感じながらも、おばあちゃんに促されるままに席についた。久々に誰かと一緒に食べる食事は、余計に美味しく感じる。
「ねえ、おばあちゃん。どうして僕が神社にいるって分かったの?」
僕は先程感じた疑問を投げかけてみた。すると、おばあちゃんは微笑みながらこう答えた。
「まな子ちゃんがね、神社の方に行くあんたを見ていたんらて。」
唐突に出た知らない名前。僕は無意識にまな子ちゃん?と聞き返していた。
「よく家に遊びに来る女の子。会ったら、あんたも友達になってやれね。」
その言葉に、おじいちゃんも頷く。まな子ちゃんというのは、たまに家に来ては家事や畑仕事を手伝ってくれるのだという。僕も会ったら遊んであげよう。そう思いながら、僕は話題を変えた。久々にあきくんたちに会ったことを話すと、おじいちゃんたちの顔が明るくなった。
「良かったて、あの子らとはちょうど同い年らろ。夏休みが明けてから、学校行っても、あの子らがいれば何も心配ねぇね。」
そうか、今は夏休みだった。僕が登校するのは夏休み明けになるんだ。
「あの子らと遊ぶのは構わねぇけど、山や海に行く時は忠行くんと一緒に行けよ。」
おじいちゃんは少し顔を曇らせた。どうして、と聞くと、おじいちゃんは真剣な顔になって口を開いた。
「この時期、特に海鳴さまと裏々さまの力が強まる。樂は良い子だすけ、怒りを買うことはねぇと信じてぇが。」
海鳴さま、裏々さま……。聞き覚えがあるような無いような。僕がぼんやりしていると、おじいちゃんは手を合わせ、茶碗を片付け始めた。僕も急いでご飯を掻き込み、手を合わせた。
風呂からあがり、僕は縁側で涼んでいた。ふと家のチャイムが鳴り、何となく玄関の方向を見ると、おばあちゃんがやって来た。
「忠行くんたちが花火持ってきたよ。」
おばあちゃんがそう言ったのと同時に、庭の方に花火が入った大袋を持ったあきくんとはるちゃんが入ってきた。バケツを持ったタダ兄が、二人を追って入って来る。
「がくちゃんのために、タダ兄が買ってくれたんだよ。」
「本当は砂浜でやりたいところだが、この時期は海鳴さまがうるさいからなぁ。」
タダ兄が海の方を見つめながらぼやく。
「海鳴さま、って?」
僕が聞くと、タダ兄は花火の準備をしながら答えた。
「海鳴さまは……そうさな、海の神様みたいなもんだ。ああ、そうか。樂は小さい時に引越しちゃったから、イマシメサマの事を知らないのか。」
あきくんに手持ち花火を数本渡され、僕はサンダルを履いて庭に出た。僕ははるちゃんの隣にしゃがみ、火をもらった。花火をしながら、タダ兄は僕の隣にしゃがんだ。
「ここに住むからには、イマシメサマと上手くやっていかなきゃならねぇ。……ま、教えを守って良い子にしていれば、何の問題も無いんだがな。」
タダ兄は僕の花火に自分の花火を近づけ、火を継いだ。
「イマシメサマは八柱いて、それぞれが八百市を守ってる。その名の通り、人間を戒める存在として、いくつか怖い話がある。そーいうのを求めて、外からマニアが集まるんだが……。」
「タダ兄、怪談話は花火が終わってからにしようよ。」
あきくんが割って入った。タダ兄は「そうだな」と返事して、いたずらっぽく笑った。
「そういうわけで、だ。樂、覚悟しておけよ?」
僕は苦笑いを返した。正直、僕は心霊系の話が苦手だ。タダ兄もあきくんたちも神社の子だから、きっと霊感が強いんだろうな。そう考えていると、急に寒気がしてきた。家から漏れる光を背に、僕は花火を楽しむことに専念しようとした。
張り切りすぎて買いすぎた花火の半分をやり終えたところで、おばあちゃんがスイカを切って持ってきてくれた。僕たちは縁側に並んで座り、スイカにかぶりつく。おじいちゃんとおばあちゃんは、僕たちの様子を見つめながら居間に座っている。
「三上のじーちゃんは野菜作りが上手だよなぁ。うちでも作ってるけど、こんなに美味くなんねぇよ。」
タダ兄が言うと、おじいちゃんは誇らしげに頷いた。
「そうだろ、毎日丁寧に世話してっからなぁ。」
「三日坊主のタダ兄とは大違いね。結局私たちに世話させてるんだもの。」
すかさず、僕の隣ではるちゃんが呟く。その一言に、タダ兄以外の全員が笑った。
「相変わらずらね、忠行くんは。」
「ああ、小学生の時にアサガオ枯らして、よくうちに来てたっけ。毎年毎年、半ベソかきながらなぁ。」
おじいちゃんは懐かしそうに言った。タダ兄は顔を赤らめながら頭を掻く。
「俺の話は終わり!違う話をしようぜ。」
布巾で手を拭きながら、タダ兄は大きな声で言った。くすくす笑うあきくんの脇腹を軽く小突き、縁側に座り直すと、タダ兄はふっと表情を変えた。
「よし、じゃあ怪談話しよう。」
明るい声で、あきくんは言った。ああ、ついにこの時が来てしまった。僕は怖くないふりをして笑ってみたが、ただ口端を上がっただけだった。
「あれぇ、がくちゃん、もう怖がってる?」
隣に座るあきくんが、僕の顔を覗き込んできた。あきくんの目は確実に、僕が怖がっていることを見透かしている。僕はそんなことないよ、と、言い返す。見れば、はるちゃんも僕の方を向いてニヤニヤしている。大丈夫、大丈夫……、と、僕は半ば自分に言い聞かせながら繰り返し言った。
「……イマシメサマの悪口だけは言わんようにな。特に忠行くん、おめさんはちっと親しすぎるから。」
「分かってるよ、じーちゃん。」
おじいちゃんに目配せをするタダ兄の顔は、さっきとは少し雰囲気が違った。その真剣さを帯びた眼差しに、おじいちゃんは黙り込んだ。
「いいか、樂。これから話すのは、ただの怪談話じゃねぇ。この八百市で起きた、イマシメサマの怪異の話だ。」
タダ兄は庭先に広がる闇を見つめながら、ゆっくりと語り出した。