赤 1
吐き気がする。一刻も早くこの場から立ち去りたい。
目の前には醜い女がいた。白かった肌は奇怪な紫で斑模様になっているし、顔は腫れて、元の顔さえ思い出せない。
自分はしゃがんで、血で濡れた地べたに這いつくばる女の顔を覗き込んだ。
「ご、ごめん。ごめんね。なんてことをしてしまったんだ。こんな、こんな――」
吐き気を堪えて、唇の端を上げた。自分でも、わざとらしい芝居だと思う。それでも、こうすれば女は皆、自分の愚行を許すのだ。
「――いいんです、私は」
涙と鼻水で汚れた唇の端を微かに上げて女は言った。
「君だけだ。君だけなんだ。こんな自分を受け入れてくれるのは。許して、許して」
女は嬉しそうに目を潤ませ、頬を上気させた。
最後に、自分の唇を彼女のそれに付けた。
自分の性癖の異常さについては自覚があった。
時々、無性に人を虐めて血を見たくなる。そんな時は理性がきかなく、気付けばいつも目の前に血まみれで倒れる人の姿があるのだ。
そして、失望する。何に対してかはわからない。哀れな暴虐に対してか、こんな自分に対してか、あるいはその両者か。
誰も自分の言動を止めようとはしなかった。
父はそれなりに大きな村の村長で、なかなか後継ぎに恵まれなかったらしい。そんな彼、そして彼の妻である母にとって、男の自分は溺愛の対象だった。
何をしても許される。そういう環境は、博識になるたび、礼儀正しくなるたび、美しくなるたび、整っていった。
村の権限は領主である伯爵をのぞいては、全て父にある。その父が自分のあらゆる言動を許す限り、村人は何も言えなかった。
そして、言わなかった。
生まれてこのかた、一番役にたったのは自分の顔。年頃の女たちが、皆して自分の容姿を褒めていることは黙認している。
衝動的な暴力を振るった時、そしてその相手が女の場合、少し唇の端をあげて甘い言葉をささやけば、相手は目を潤ませ、頬を上気させた。
そして、許しを請えば、嬉しそうに頷くのだ。
ただ、村を歩いていた。気持は落ち着いていて、したいこともなく、暇だ。風で頭から滑り落ちる頭巾を何度もただすのはとても煩わしかった。
しかし、この赤い頭巾を気に入っている。
――フォーカスは赤い頭巾がよく似合う。とっても可愛いわ。
赤い頭巾を作った祖母も、母も、皆、赤い頭巾をかぶる自分を褒めたたえた。鏡に映る、赤い頭巾を被る自分の姿を、自分はとても美しいと思った。
自分の真っ黒な髪に重なる赤は、鮮やかにも、淀んだようにも見えた。自分は一瞬でその色の虜となった。
大通りを歩いていると、人の壁が出来ているのがわかった。よく見れば、どいつも自分とそう年が変わらない、十四、五歳の少年だ。
その集まりにさして興味はなかったが、それはあまりにも大きく、道を通るのには邪魔だった。どけ、と口を開くのも煩わしいが、来た道を引き返すのはさらに煩わしい。
仕方なく口を開きかけたとき、一人の少年が自分の存在に気付いた。
「おい、どけ」
一人の少年の叫びに集団は視線をこちらにやると、一斉に脇へ寄った。
それでも、真っすぐ道を通ることは出来ない。
行く手を遮る小さなもの。よく見ればそれはうずくまった人間らしく、泥と土で汚れたその姿は到底人とは思えなかった。
先ほどの女と似た光景に、おさまりかけていた吐き気が再びした。血がない分、余計に気分を紛らわせられない。
早く家へ帰りたい。
それを右によけて、足早にその場を通り過ぎようとした時、恐る恐る顔を上げたそれと不本意に目が合った。
その瞳の色に、息も、鼓動も、何もかもが止まった気がした。
いつまでその瞬間が続いていたかはわからない。気付けばそれは再び俯き、世界は動き始めていた。
自分は焦ってその場を去った。
息が上がり、鼓動が強く響き、血が熱くなるのがわかる。不思議にも、自分は今生きているのだと感じることができた。
しばらくすると、あの強烈な吐き気がいつの間にかおさまっていることに気付く。
あの瞳の色は――まさに、まさに血の色。
たまらず振り返ると、また人の壁が出来ているのが小さくわかる。
「この獣!早く森へ帰れ」
そんな声が聞こえた気がした。




