全知全能と見えない人
♦……side:???
大通りを歩く者達を、路地裏の日陰から眺める男が一人、壁に片足を付けながら立っていた。
「良いねぇ良いねぇ、お天道様の下を躊躇わずに歩けるなんて……羨ましいねぇ」
男は頭に被ったフードの下で、にたりと暗い笑みを浮かべる。
「俺なんてさ、日陰者だからさ……あぁ、羨ましい」
ポケットからスッとナイフを抜くと、男は明るい大通りの方へとその刃を透かして見せようとした。
「あっ」
「ひぇッ!?」
その時、丁度裏路地に入り込んで来た若い男が悲鳴を上げて、即座に大通りの方へと引き返そうとした。
「まぁまぁ、待ってよ。俺とここで会ったのも何かの縁……」
「ふぐッ!? む、ぐ……ッ!」
男の口を手で塞ぐと、ナイフでその背を僅かに刺した。
「ぐぅううううッ!!?」
「あぁ、ほら、痛くない痛くない。大丈夫だって。このくらい、虫歯の治療よりは痛くないだろ? まだちょっと刺さっただけだって」
フードの男はニヤニヤと笑みを浮かべながら、その刃を少しずつ押し進めていく。魔力の滲み出す肉体は、その間も男の体を簡単に抑え付けていた。
「あっ、やべやべ忘れてた!」
男の背からナイフが抜かれ、男が蹴り飛ばされて壁に叩き付けられた。衝撃と痛みに目を見開く男だが、命は奪われていない。その理由は、フードの男の視線の先……ビルから出て来た女だ。
「ほいよっとっ!」
血の滴るナイフを手に持ったままに路地裏を飛び出し、人混みの中を駆け抜けていくフードの男。いや、そのフードも今は走る勢いで外れてしまい、隠していた顔も見えている。だが、その異常者を人々の誰も捉えることは無い。
「よいしょっ、そこの店に入る前にぃ、サクッと失礼しま……ぁ?」
体が動かない。世界に置いて行かれたように、街の喧騒だけが耳鳴りのように遠く響き続けている。そうこうしている間に、標的の女は……宇尾根美那は、ビルの隣の飲食チェーン店に入り込んで行ってしまった。
「い、ゃ……」
そんなことより、気になることがある。大事なことがある。重要なことがある。擦れ違い続ける人混み、それ自体は自分の魔術によるものの筈で、何もおかしくはない筈だ。なのに、どうしてだろうか。この孤独感は。世界に弾き出されてしまったような、空虚さは。
そして、アレはなんだろうか。誰にも見えない筈の自分を、じっと見つめているような、アレは。
「だれ、だ……?」
透明な人型。陽炎の如く揺らめいているそれは、幻覚と言われれば頷いてしまえる程に希薄で、輪郭しか捉えることが出来ない。その輪郭すらも揺らめいていて、不安定で、不定形に見えて、だが絶対的な何かを感じる。
だから、目を離すことが出来ない。見ていても、見ていなくても、不安になる。既に、心臓を……いや、魂に素手で触れられているような、自分が無防備であることを思い知らされているような、そんな不安感を、どうやったって払拭できない。
「み、てん、じゃ……見てんじゃ、ねぇ……」
己の内から沸き上がる恐怖。消え失せる気配もないそれを、消し去る為には……恐らく、この奇妙な事象の元凶であるあの人型を消してやるしかない。
「見てんじゃねぇぇえええええッッ!!!」
奮起するように叫びをあげて、動かない体を動かそうとする男。すると、不思議なまでにさっきまで動かなかった体が呆気なく動き……寧ろ、今までに無い程に軽やかに、思い通りの速度で男はその人型へと飛び掛かれていた。
「……ぁ?」
振り下ろしたナイフが、透明な人型を擦り抜ける。そこで気付いた。良く見れば、その人型は女らしい。揺らめく輪郭が、口を開いた。
『後悔は先に立たず、貴方に許されることは反省のみです』
響くのは、怜悧な女の声だった。美しい声だが、男にはそれが恐ろしく感じられた。
『幾ら貴方が謝ろうと、許しを請おうと、あの人に届くことはありませんので』
「ッ」
男はもう一度、ナイフを振るおうとした。今度は魔力を籠めて、本気で。だが、そうしようとして……気付いたのだ。そのナイフが、手を擦り抜けて宙に浮かんでしまっていることに。
「なっ、は……ぁ?」
何が起きている。分からない。だが、この疎外感のようなものは、孤独感のようなものは、まるで自分が世界から遠のいてしまっているような、虚無へと近付いているような、空虚感が強まっていることだけは確かだった。
『あの人はとても甘いので、貴方のような人間にも優しくしてしまいます。ですから……今回の件は、私に裁量が任されていて幸運でした』
透明な女から、自分の体が遠ざかる。後ろへと、そして上へと。あぁ、そうだ。ナイフだけではない。自分の体も浮き上がっているのだ。宙に浮いている。いや、寧ろナイフも何もかも、自分に触れる物質が遠ざかるように、今は自分だけが宙に浮き上がっているのだ。
『貴方がまだ生きていられるのは、あの人の寛容さの為だと言うことを理解しなさい』
そこで、漸く理解した。男は、浮き上がっている訳では無かった。ただ、離れてしまっているのだ。この世界から、己の知覚する物質世界から弾き出されている途中なのだ。
しかし、その向こう側から帰って来られるのがどれだけの体感時間を経た後のことになるのかを男は知らない。
「――――」
『貴方如きに、何故私が教えてやらなければいけないのですか?』
既に物質世界から剥離されていた男の言葉は、言葉にはならなかった。だが、それすらも理解して女は言葉を返す。
『私から全てを聞く権利は、この世でたった一人だけしか持っていませんから』
見えない女は、ふっと笑みを浮かべて……そして、この世界に溶けて行くように消え去ってしまった。




