第四章 修学旅行 ⑧
「楽しかったな」
そう言って感想を求めるのは傍らの全裸男。広い大浴場の浴槽に仰向け気味に浸かり、タオルを目蓋の上にのせてゆらゆらと浮力に身を任せ、リラックスしている友作だ。
二日目の東京散策は、前日に行けなかった東京タワーとスカイツリーに登った。前日はトラブルではあったものの、みんなとはぐれて迷惑をかけてしまったため、きちんと友作隊長の御命令をきいて、班から離れないように謹んで行動した。そのおかげか、何事もなくただただ楽しい時間が過ごせた。
「ああ、楽しかった」
魁斗は友作の隣で同じように目蓋にタオルを乗せて、一日の疲れを取るように、ふぃ~と声を漏らしながら答える。
「今日は迷子になるやつが居なかったしな」
友作が軽口で、魁斗の罪悪感をつついてくる。
「……だからごめんって、今日はしっかりついていっただろ」
たとえ昨日のはトラブルであったとしても、悪いとは思っている。よくわからない土地でむやみやたらと走って逃げるのはやめようと今後は思う。
「ま、今日は無事に過ごせたから良しとするか」
どうやら隊長のお許しを頂いた。本当に寛大な人で良かった。
「みんな、楽しんでくれたかな……?」
ふと友作がぽつりと漏らす。
迷うことなく魁斗は答えた。
「そりゃあ、もちろん。みんな楽しんでただろ。友作のおかげだよ」
「累ちゃんも?」
「……」
累に関してはよくわからない。もともと自分が修学旅行に行かなかったら来なかったみたいだし。だけど、少しは……いつもの学校生活よりは楽しんでいたんじゃないかな、と思う。
「楽しんで、たんじゃないか」
「そうか」
友作は一度、口角を上げると目蓋の上に乗せたタオルを取り、ふぃ~と気持ちよさそうに声を漏らす。体を仰向けの状態から起こして、ザバンッと立ち上がり、
「おれ、あったまったからもう出るわ。魁斗……お前、のぼせるまで長湯すんなよ」
「わかってるよ。あと百秒数えたらおれも出る」
出たら、コーヒー牛乳を飲むのだ。
友作は手を上げると、浴場を出ていく。
「……優しいやつ」
ひとり、呟くと再び目蓋にタオルを乗せて百秒数えた。
※※※
今日は湯上りにお散歩。
ぽかぽかの体を冷ますように旅館の庭を歩いていると、昨日と同じ竹製のベンチに累がひとりで腰掛けていた。
「よう」
「うん」
当たり前のように魁斗は累の隣に座る。
「お前も、もう風呂入ったのか?」
「うん」
まあ、そうだろうな。姿を見ればわかる。昨日と同じように、もう浴衣に着替えているし。
魁斗は累の表情から、なんとなく察する。べつに機嫌が悪いわけではないが、何とも居心地が悪い顔をしている。
「なんだ? また逃げてきたのか?」
「……だって、しつこいんだもん。累ちゃんは好きな人いるのって。無視してるのに話を振ってくるから部屋を出てきた」
「……」
相変わらずのようだ。
「なぁ、少しは会話してみたら」
ふいに本音が漏れていた。余計なお世話だということは百も承知。これで以前、揉めてしまったし。仲直りしたその後は見守ると決めていた。だけど、浴場での友作の言葉を聞いて、やっぱり周りには優しい人もいっぱいいる。そのことを知ってほしいと思ったのだ。だから、不機嫌になることは承知の上で言わずにはいられなかった。
案の定、累は怪訝そうな表情を浮かべる。
「またそれ言う。しないったら」
「なんでだよ」
「前にも言ったでしょ。わたしは人を信じない……これからもずっと」
累の、この言葉を聞くと、やっぱりなぜか虚しい気持ちになる。
累は本当は優しい子なのに。
笑顔がとても可愛い女の子なのに。
素敵な、いろんな表情ができるはずなのに。
顔を伏せ、考えてみる。
そうして、ようやく気がついた。
――そうか。自分がこんなに虚しく感じるのは、累がまだ自分にも見せていない何かを胸の内に隠しているからだ。ようやく理解した。自分のこのモヤモヤした感覚が。
口を結んで地面を向いていた顔を上げる。そして、累に真っすぐに目を向けた。
「累、ちょっとうざったいかもしれないけど、聞いてくれるか? どう思うかはお前次第だから……べつに、聞き流したっていいから」
累は一度魁斗の方へと振り向き、両目を見つめてくる。真剣な眼差しを向けている魁斗を見て、口をつぐみ、静かにコクンと頷いた。
「おれはさ、その、なんて言えばいいのかよくわからないんだけど……いろんな人がこの世界では信じあって生きてると思ってるんだ。一度、騙されておいてなんだお前は? って思うかもしれないけど……。皆継家に住まわせてもらって、優しくしてもらって、さらにそう思った。……やっぱり人はなかなか一人では生きていかれない。人に支えてもらって、そして支えて。支え合って人はどうにか生きていくんだと、おれは思う。だから、お前も……なにも、これからもずっと、人を信じないなんて、決めつけなくてもいいんじゃないか。なんていうか……おれは、」
累は静かに瞳を向けてくれている。自分のたどたどしい言葉をひとつひとつ聞いていてくれている。少しだけ、息を詰めているのがわかった。
なにを思ったのかまでは、自分にはわからないけど、自分の継ぐ言葉をそっと待ってくれているような気がする。
「――おれは、お前がいつか人を信じられるようになってほしい。お前がその胸の内に何を隠しているのか、おれは知らないんだけど……これは、おれのわがままなんだろうけど、おれはお前が絶対にいいやつなんだって知ってるから。だから、なんというか……お前がいつか心の底から信頼できる人に向けて弱音も笑顔もさらけ出せるような、そんな姿が、見てみたい……」
もし、それが自分であるなら……おれは。
ふと、自分が熱く語っていて、少しだけ恥ずかしくなる。えらく恥ずかしいことを言った気がする。言い終えると、ちょっとだけ目線を外して、恥ずかしさを紛らわした。
「……終わり」
ぼそっと全て言い終えたことを伝える。
思っていることを全部言ってやった。後悔はしていない。
累は最後まで黙って聞いてくれた。表情を静かに打ち消して、素のままの顔でこちらを見てくれていた。話し終えると堪えきれなくなったのか、目線を逸らされる。自分の紡いだ言葉に累は色んな感情が混ざったような苦しい表情を浮かべた。
その横顔を見守る。
累は一度地面に目を伏せた後、顔を上げる。空へと目線を向けた。
夜空を見つめる累の瞳は、漆黒に、存在ごと闇に溶かされていくような、そんな目だった。
あまりに深い。深くて底が覗けない。
隣にいる累は、か細い息をつき、やっと小さく、悲しみも含めるような微笑みを浮かべながら答える。
「わたしは、そんなにいいやつじゃないよ……でも、ありがと……」
それだけ言うと、再び夜空を見上げた。
「わたしも、あんな綺麗な月だったらよかったのにな……」
誰にも聞かせないように。
だけど、誰かに気づいてほしいように。
独り言のように、そう囁いた。




