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星空の下、時を繋いで 7

 最初の音は皇妃の竪琴だった。

 国一番の名手と名高い人の手で奏でられるその音は、弾かれた弦が空気を震わせる以上にどこか深みを帯びて、豊かに玲瓏とした響きを生み出した。

 抑えた音量で追うのはリィスティーアの提琴。高めの音は、歌い手の声に合わせたものであるとすぐに知れた。

 穏やかな歌い出しを、年齢相応の澄んだ声が紡いでいく。比喩や暗喩に満ちた歌詞に慣れていた聞き手達は、まずその真っ直ぐな言葉に驚いた。そして始まって少しして曲の調子が変わったことにも。

 どこか切なさを含んだ旋律に乗って――時間にすれば短かっただろうが――焦れるほどゆっくりと盛り上がっていく。

 そして、恐らくは一番の盛り上がりの箇所。堪えていたものを一気に吐き出すように、しかし一つ一つの音は丁寧に。歌い手の小さな少女は必死に息を吸う。そのどこか苦しげな様子とは裏腹に――否、だからこそ歌声は高音も低音も深く透き通り、のびやかにどこまでも響いていく。

 たとえ先の見えないときでも、明日への希望を失わぬように今を生きること。特別なことではない、誰もが日常的に行っていること。それを少しだけ比喩を混ぜて。

 しっとりとした曲調ながら、主旋律と歌詞が奮い立たせるようなものを持つ歌だった。途中から低い音で伴奏の音域を広げるエデルガルトの提琴も相まって、演奏はより一層深みを増していた。

 ファナルシーズは一心に歌う娘の横顔を見つめた。

 彼の元を長く離れていた娘は、彼が見たことがないものを見、知らないものを知り、聞いたことがないものを聞いて成長していた。それは辛く寂しいことに違いはなかったが、歌う娘の横顔は満ち足りていて、離別の時間の全てを否定することはできなかった。

「……いい歌だ」

 ほとんど吐息だけで落とされた呟きを拾ったのは、隣にいたジェレストールだけだった。ええ、と答える声がした。

「まだ小さいのに、気を使わせていたのだな」

「言うほど幼くはあらせられませんよ。――ファース」

 少し低い声での呼び掛けに、ファナルシーズは僅かにジェレストールの方へ顔を傾けた。

「俺はあのときの自分の行動を間違っていたとは、今でも思っていない。お前を行かせることはできなかった」

「……ジェス」

 ふ、とジェレストールは僅かに口端を持ち上げて、ファナルシーズを見返した。

「同じことが起こったら――またお前を止めるだろう。そして、俺が行く」

 ファナルシーズは笑い返した。

「二度も止められると思うなよ。それに、お前は他にも止めなければならん相手がいるだろう」

「……あれはいいんだよ。もう大人だ。それに父親の言うことなぞ聞く歳じゃない。聖エディリーン祭を見ただろうが」

 二人が一瞬視線を変えた先には、先の祭祀で皇女に膝を折った若い騎士達がいた。若い彼らの強い眼差しは、小さな少女の背中だけに注がれていた。



 最後の音の余韻が消える頃、雨は綺麗に上がり、泡立つように細かな波が立っていた湖面は元の静謐な、鏡のような姿を取り戻していた。

「……どう、かな?」

 様子が今一つわからない皇女は不安を拭えぬ表情のまま振り返ったが、同胞達が笑顔で頷くのを見て成功を悟ったようだ。

 水霊そのものは皇女の神気を抜いただけだが、一緒に解き放たれた火霊との喧嘩でかなり消耗しているらしく、今は落ち着いている。後始末のため、数人が露台から直接飛び立っていった。

「消滅させられれば楽なのだがな……」

 ギルトラントは湖上に浮かびながら呟く。それを拾ったイルヴァースは苦笑した。

「そしたら湖が涸れるでしょう」

「もっと物分かりのいいのを据えればいい」

「これくらいの格の精霊は早々『換え』られないじゃないですか」

「オルファあたりに供物でも捧げて祈願するか」

 冗談交じりの会話をしながら、祠の近くで伸びていた童女姿の水霊を回収する。適当に簡単な封印を施し、祠に放り込む。正式な封印は明日また、改めて皇王か皇太子が行うが、今夜はこんなものでいい。

「さて、水霊の方はこれでいいとして、問題は……」

 ギルトラント、イルヴァース、アストリッド、そしてソルディースの四人は、ざわりと震えた空気に振り返った。

 くたりと地面に伏していたのが嘘のように、爛々と目を光らせ――体も同じくらい発光している、鳥がいた。大人が数人乗れるほどの大きさだが、通常の人間では乗るどころか近寄ることすら難しいだろう。

「火霊の……炎鷹(レ二ファレク)か。どうします?」

「また面倒なのを封じてましたね……アーヴァンクが妙に攻撃的になってたのはこいつのせいか」

 意識を失っていた水霊と違い、この火霊はかなり格が高く、また消耗しているとはいえまだ戦う気がある。いうなれば手負いの獣と同じ状態で、これを無理矢理どうこうするのは非常に面倒くさい。

 ここで、ギルトラントがはたと手を打った。

「ソルディース。お前、使役を持っていなかっただろう。いい機会だからあれを下せ」

「……はあ?」

 この場合のソルディースの反応は、無理を言われているわけではなく、面倒事を押し付けられたことに対する驚き混じりの呆れによるものである。

「今からですか?」

 太陽はとっくの昔に地平線の下に沈み、空を支配するのは柔らかな光を放つ月である。深更というほどの時刻ではないが、就寝時間としておかしい時間でもない。

「手駒にしておけば何かの役には立つだろう。従兄上も一角獣を使役にしておいでだ」

「いやギル、ファナルシーズ様が使役持ってるのは、今はあんまり関係ないだろ」

「皇女の隠密の警護に役立つときが来るかもしれん」

「公、姫とはいえ、さすがに火霊なんて目立つの付けられて気付かないなんて……あ、まだ今ならありえるか」

 何気にいない人物に対して失礼な会話を繰り広げていた四人の下で、当の火霊が雄叫びのようなものを上げた。無視されていることに苛立ったらしい。しかし攻撃はしてこない。腐っても高位の精霊らしく、こちらの隙を窺っている。この機会に逃げる気なのがよくわかる。

「仕方がないな……」

 一応こちらの方が上位であることを察しているところを見る限り、全く使えないわけではないらしい。そう判断したソルディースは、右手を翳して捕縛の陣を展開した。

 突然のことに対応できなかった火霊は、次々に付けられる枷を振り払おうともがく。しかし神の末裔たる者が直々に施した縛が一精霊がちょっとやそっと暴れた程度で外れるわけもなく、程なくして火霊は完全に動きを封じられた。

 そこまでされて尚も抵抗の意思を失わぬ火霊に、これは意外に掘り出し物かもしれないとソルディースは考え直した。

「お前、また封じられるのは嫌だろう」

 嘴に手を置き、ソルディースは荒ぶる精霊に語りかける。

「我に従うならば、我が魂が黄昏の門をくぐるまでの間、神気を与えることと、その本性の赴くまま空を駆ける自由をやることを約束しよう。従わぬなら滅する」

 究極の二択である。自らの生存を天秤にかけられて否と答えるものなどそうそういない。

 火霊はぐるる、と唸って抵抗をやめた。精霊にとっても一定以上の神力を持つヴィーフィルド人の使役に下るのはそう悪い話ではない。契約者が生きている間は確実に自分の存在の維持が約束されるからだ。それが皇族となれば断る理由はない。

「では汝に名を与える――そうだな、祝福の紅灯(エリュトロン)とでもしようか」

 ソルディースがそう告げると同時に、金の鎖がどこからともなく発生して火霊に絡みつく。今度は火霊は黙って縛られるがままだ。鎖は巨大な体躯を雁字搦めにし終えると、燃え盛る体に染み込むように消えていった。

「――誓約(うけい)は為された。これよりお前は我が僕だ。差し当たり、その大きさでは邪魔だから、小さくなるか僕の影に入るか、どちらかにしろ」



 最後の最後で大騒動となった休暇だが、総括すれば非常に楽しく、また有意義であったといわざるをえないだろう。

 行きに馬に乗ってきた者達は、当然のことながら帰りも馬である。その帰り道、ジェレストールは笑顔でこうのたまった。

「皇女殿下、帰ったら神気の遣り取りについて復習しましょう」

 唐突に言い渡されたシェランはぎょっと身を引いた。

「え!? ジェス小父様、あの、歌うのに必死で術式の確認してる余裕とかなかっ――」

「一度できたのですから、二度目も難しくはないでしょう。精霊の扱い方と平行して……そうですね、今月末までには習得しましょうね」

 教育係としてのジェレストールは、とても厳しかった。

 爽やかな笑顔は否を受け付けないもので、シェランは内心気が遠くなった。今月末って、あと一週間と少しだ。短い楽園だった。

「わかりました……」

 一気に元気をなくした返事に苦笑を禁じえない。

「それにしてもアルは残念でしたね。せっかくの姫君の手料理に歌だったのに」

「ねえ、そのこと、秘密にしておきましょうよ。ある日突然知った時の反応が面白そう」

「いいわね」

 アルトレイスも大概、少し年嵩の同胞の玩具にされている。あからさまにそのように扱うと後が怖いが、陰からこっそり楽しむには格好の種らしい。

 ささやかな悪戯に便乗したシェランだが、その判断を後々悔やむことになるとはこのときは思いもしなかった。

「シェラン」

 脇を歩く馬上から父に声をかけられ、シェランははい、と返事をして高い位置にある父の顔を振り仰いだ。

「あれは、いい歌だったな」

 ファナルシーズが驚きに目を見張った娘の頭を優しく撫でると、彼女は花が咲くように笑った。


 隔てられていた彼等の『時』が、ようやく繋がり始めた、これが本当の瞬間だった。

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