女ぎつねコンコン山の中
これなら、あの日冷たい水に消えた紙くずたちも、僕の努力を認めてくれる。許してくれる。
お祓いの威光によって、頭の中の腹式七回シネマ館は、こっぱみじんに砕けて、跡形も無く消滅する。
何度もつぶやきながら、神社に向かった。
しかし、初めて通る道。
途中、道に迷ったこともあって、山奥の神社に辿り着いたのは、ねぐらに戻るカラスの鳴き声が聞こえてくる頃だった。
バイクを苔に覆われた石段の手前に停め、少し歩いたところで、気配のようなものを感じた。
振り返ると、若い女性。
すこしつり目。色白。ポニーテール。上下とも体の線を隠すような、ふわりとした白いジャージ。手には竹箒。
笑みを浮かべて、僕を見ていた。感じからすると、成人女性。でも、ぱっと見には高校生に見えなくもない。
彼女の足元には、掃き集められた木の葉の山。
この神社の巫女だな。
そう思った僕は、背中のリュックサックを下ろし、原稿用紙を入れた封筒を取り出して、目の前にかざした。
「お祓いをお願いしたいのですが、予約なしでも大丈夫ですか?」
彼女は、僕と封筒を交互に見比べてから、口を開いた。
「大抵の神社は、予約なしでも受け付けてくれるんじゃないかしら」そこで彼女は、ほんの少し表情を曇らせた。「でも今日は無理みたいね」
空が茜色に染まり始めていた。
「つまり、今日のお祓いは終わったということですね」
彼女は小さく首を振った。
「ここには、神主はいないと聞いたことがあるわ」
彼女は神社関係者ではなく、清掃ボランティアの一人らしい。
『真の文学の神が祀られている霊験あらたかな神社』
ネットで探し出した一行だけの書き込みを 鵜呑みにしたのが間違いだった。
「そうですか……」
ため息交じりにそう言った僕は、封筒を小脇に挟んで、あたりを見回した。
何の変哲もない神社だった。
周囲を雑木に覆われた境内は、テニスコート程度。その奥まったところに、見上げるほどのイチョウの木があり、その根元に、小さなお社が見えた。
「お社の中に、封筒とお賽銭を置いて帰れば、中に入っているものは成仏すると思いますか?」
僕がここまでやってきた理由を理解したらしく、彼女は、にこっと笑った。
「成仏するかどうかは、わからないけど」そこで彼女は空を仰いだ。「このあたりは、夜になると、強い風が吹くの。その封筒は、間違いなく、遠くに飛ばされると思うわ」
一カ所だけ視界の開けた崖の下に見えるのは、ごつごつとした岩の間を縫うように流れる小川。その水底には、朽ち果てた落ち葉が幾重にも重なっていた。
彼女の言うとおりだとしたら、僕の作文は、またもや水底に消える。
そうなると、今日までの努力は水の泡。何のためにこんな山奥までやってきたのか分からない。
作文を書き上げたその日に、必ずお祓いを受ける。
そう決めていた。
大抵の料理は、できたてが一番美味しい。お祓いも、それと一緒。できたての作文を、お祓いしてもらえば、御利益も大きいはず。
そう思ったから、バイクを飛ばしてやってきたわけだが、神主がいないとなると、至急別の神社を探さなければならない。
「ねえ」彼女が封筒を指差した。「それ、逆さまよ」
「え?」
と言ったときは遅かった。口の開いた封筒から原稿用紙が、パサッと落ちたところだった。
「あ、いけない」
僕はあわててしゃがみこんだ。幸いなことに裏返しで落ちた。
あぶないあぶない。もう少しで、題名を見られるところだった。
ほっとしながら拾い上げようとした時、とつぜん強い風が吹いた。
とっさに足を出して踏みつけようとしたが、間に合わなかった。
風に吸い上げられた40枚の原稿用紙は、あっという間に中空高く舞い上がり、オレンジ色の空をバックに、ひらひらひらと舞いはじめた。
「よかったら、一緒に食事をしませんか?」
原稿用紙を拾い集めてくれたお礼に、彼女を食事に誘うことにした。
彼女はしばらく考えるような表情を浮かべていたが、何か思い出したように、にこっと笑った。
「すぐ下の店でもいい?」
「下の店?」
神社を探すために、この周辺を二時間近く走り回った。しかし、食事ができるような店なんて、一軒もなかった。
僕が驚いた顔をしたからだろう。彼女は笑顔を浮かべたまま、僕が登ってきた山道を指さした。
「この坂を下ったところにあったでしょ。レストランが」
彼女の声は確信に満ちていた。
ということは、僕がその店を見過ごしたのだろう。
田舎に行くと、民家をそのまま使った食堂を見かけることがある。老夫婦二人だけでやっているような小さな店だ。
でも、レストランと呼べるような建物があったっけ?
ここまでの道順を、頭の中で辿った。
いや、なかった。絶対になかった。
登り口辺りは、見わたす限りの孟宗竹の藪だった。
藪の中からいきなり飛び出してきたウサギを避けようとしてブレーキをかけたから、偶然、神社に続く山道を発見できたのだ。
しかし、よく考えてみると、今日はフルフェイスヘルメット。これが原因で、店に気づかなかったのだろう。
「神社に来る人は、あのレストランを目印にするの。西からは左折。東からは右折。でも参道は狭くて車が通れないから、あの駐車場を使わせてもらうの。あそこなら何十台でも停められるでしょ」
またしても、想定外の言葉。
駐車場?
確かにフルフェイスヘルメットは、視界が狭い。でも、誰かに道を訊ねようと思って、左右に気を配って走ってきた。車が何十台も停められるような広い駐車場を、見落とすはずがない。
彼女は、県道沿いの大通りに面したレストランのことを言っているのかもしれない。
「そのレストランは、何という店ですか?」
と言ったところで、やっと、気づいた。
彼女は、僕の誘いを断っているのだ。
すみませんね、気づかなくて。この手の会話に慣れていないものですから、
と言おうとする前に、彼女は店の名前を口にした。
「ノーソンよ。ノーソン。レストランの名前は、ノーソン」
ホッとした。
どうやら僕に対して、嫌悪感は持っていないようだ。きっと他の用事があるのだろう。僕の誘いをやんわりと断るために、ローソンによく似た店の名前を言ったのだ。
わざわざ三回繰り返したノーソンには、
「世の中に存在しない店で、食事はできないでしょ」
といったような、メッセージが込められているのだろう。
でも、わかりました、じゃあ、さようならで終わらせるには、もったいない。
ちょっと洒落たセリフを返したやろうと思ったが、ありきたりのものしか考えつかなかった。
「そのレストランは、コンビニと間違えられることがあるんじゃないんですか?」
と突っ込むと、彼女は真面目な顔で「そんなことはないわよ」と言った。
「看板はとっても大きいし、夜になるとライトアップされるの。近くに住む人にとっては、灯台の役目もしているのよ。だれもコンビニとは思わないわ」
もちろん、それも冗談だと受け取った。
竹藪の中のレストランだったら、キツネや狸で、いつも大繁盛でしょうね。
と言い返そうかとしたが、やめた。意味のないギャグの応酬は時間の無駄。
要するに、私の前から早く消えてよ、彼女はそう言いたいだけ。
山の向こうに、太陽の頭の先だけが残っていた。
日が落ちると、やばい。バイクのライトだけでは心細い。こんなところでぐずぐずしている場合ではない。
「じゃ、またの機会に」
片手を上げて、バイクに向かおうとすると、彼女は驚いたような表情を浮かべた。
「今の話は、冗談だったの?」
僕はしばらく考えてからたずねた。
「冗談って、何のことですか?」
「食事に誘ってくれたんじゃなかったの?」
誘いを断ったのは、そっちでしょう。
と言おうとした時、Pがよく言っていたことを思いだした。
顔だけで人を判断するな。大やけどをすることがあるぞ。特に若い女には、気をつけろ。
目の前の彼女は、純粋無垢に見える。だが、心の中までは見えない、
今、ここにいるのは、僕と彼女の二人だけ。他には誰もいない。
もしここで彼女の気分を害するようなことを言うと、とんでもない言いがかりをつけられる恐れがある。
男女平等という。でもそれは時と場合による。女性が被害者を装った場合、それが事実として認められる度合いが大きいと聞いたことがある。
冗談じゃない。
今日の目的は、お祓いを受けること。不幸を背負い込むために、こんな山奥まで出かけて来たんじゃない。
訳の分からない女はほっといて、さっさと帰ることにしよう。
バイクに向かって歩き出した時、疑問が湧いた。
彼女はどうやって、ここまで来たのだろう。
後三十分もすれば、この辺りは真っ暗闇。
懐中電灯は持っているのだろうか。確かにジャージは動きやすい。でも、足を踏み外すかもしれない。ケガでもしたらどうするのだろう。
「ここまでは歩いて来られたんですか?」
すると、彼女は、くすっと笑った。
「そうよ、私、自転車にも乗れないの」
それから僕のバイクの荷台あたりに視線を向けた。
バイクに便乗しようと考えているのだろうか。だとしたら、それはお断り。僕はどんな状況下でも運転規則は守る。
「50CCは二人乗りができないんです。でも、走らなくてもライトは点きます。だから、僕の後ろから……」
そこで彼女が話を遮った。
「もしかして、私のことを心配してくれているの?」
そこで気づいたことがあった。僕が一人で原稿用紙を拾っていれば、彼女はもっと早い時間に山を下りることができたのだ。
「ええ、そういうことです」僕は笑って答えた。「こんな時間になったのは、僕のせいですから」
すると彼女は、残念そうな表情を浮かべた。
「でも何枚かは、ずぶ濡れになってしまったわ」
急に暗くなった。僕は話を急いだ。
「その話は後にしましょう。ライトを点けたバイクを押しながら下ります。後をついてきてください。懐中電灯ひとつで歩くより、ずっと安全だと思います」
「ありがとう」
彼女は嬉しそうな笑みを浮かべると、腰をかがめて足元のほうきを拾い上げた。そして柄の部分をポンポンと叩いた。
「でも、私のことだったら、心配しなくても大丈夫。これに乗って下りるから」
なぜこんな時に、こんな冗談を言い出したのだろう。
魔法使いのお婆さんか、魔女の宅急便で、突っ込んで欲しいのだろうか。
真意を探ろうと、彼女の目を見つめた瞬間、ある動物の名前が、脳裏をかすめた。
白ぎつね。
ゾクッ、全身に鳥肌が立った。
僕は頭の中の動物を、あわてて追っ払った。
二十一世紀の今、人を化かすキツネなど居るわけがない。だが、自信はなかった。居るかもしれない。どっちにしろ、こんなところに長居は無用。僕はヘルメットをかぶりながら言った。
「じゃあ、麓のレストランで待っています」
もちろん、レストランがあったとしても、待つつもりはない。




