第六章 帰る場所
王都を離れる日が来た。
ミーシャは、モリーカとともに馬車へ乗り込もうとしていた。見送りには、エリオットとシャルロットも来た。
「本当に帰ってしまうのか……」
エリオットが尋ねた。
「はい。みんなが私の帰りを待っていますから。 約束してるんです」
「君のような聖女がいなくなると、大教会は困るだろうな。
もちろん、私たちも寂しくなる。お茶が飲めなくなるからということではない。シャルロットもあなたを妹のように大事に思っているのだ」
「そんな。恐れ多いです。
ときどき、皆様にお茶を送りますね」
ミーシャは笑った。
「またすぐに会いに来ますとは言えませんけど、きっと永遠にお別れじゃありません」
「行ってしまうのだな。…残念だ」
エリオットは肩をすくめた。その隣で、シャルロットが微笑んでいた。
「ミーシャ様。本当に、ありがとうございました」
「いいえ。わたしは何も……」
「いいえ。あなたのおかげで、わたくしは自分の気持ちを殿下に伝えることができました」
シャルロットは、少しだけ頬を赤らめた。
「殿下も、改めてご自身のお気持ちを話してくださいました。王家の事情ばかりを優先していたと」
シャルロットは彼を見上げた。
「これからは、二人で話し合っていきますわ」
ミーシャは、ほっと胸をなで下ろした。
「よかった……」
「ええ」
シャルロットは、ミーシャの手を握った。
「ミーシャ様がなかなか王都に来てくださらないのなら、私の方から会いに行ってもよろしいかしら?」
「もちろんです!」
「そのときは、またあなたのお茶をいただきたいですわ。 あなたの大切な場所や人もぜひ紹介してください」
「はい。おいしいお茶を用意しておきます!」
馬車が動き出した。窓から手を振ると、二人も手を振り返してくれた。
王都の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
ミーシャは、胸いっぱいに息を吸った。
やっと、帰れる。
当初、思っていたよりだいぶ長い滞在になってしまった。 みんな、元気に待っていてくれるかしら。
帰ろう! わたしの居場所へ。
私の大切な人達と茶畑のある教会へ。
数日後。
「ミーシャお姉ちゃん!」
孤児院の門をくぐった瞬間、子供たちが駆け寄ってきた。
ニナが一番に飛びついてきて、ミーシャの腰に抱きついた。
「おかえり!」
「ただいま、ニナ!」
「よかった〜!
もう会えないかと思ってた!」
「もちろん、ニナとの約束を忘れたりしてないわ」
ミーシャは、籠から小さな包みを取り出した。
王都で新しく手に入れた、甘い香りのする茶葉だ。
「今日は特別なお茶にしましょう」
「やったあ!」
子供たちが歓声を上げる。
モリーカは、少し離れたところから、その様子を見ていた。
「……これでよかったのよね」
「お疲れ様」
夕暮れ。
教会の裏庭には、いつものように柔らかな風が吹いていた。
ミーシャはハーブ園へ向かい、久しぶりの畑の様子を確認した。
少し伸びすぎてしまったミント。知らないうちに花をつけ始めたカモミール。新しい芽を出したレモンバーム。
どれも、彼女がいない間に少しずつ育っていた。
「みんな。会いたかったわ。ただいま」
ミーシャは、小さく声をかけた。
もちろん、今日も茶葉は答えない。
けれど、葉を揺らす風が、まるで、おかえりと言ってくれているように思えた。
彼女は微笑み、じょうろを手に取った。
明日は、何のお茶をいれようかしら。
誰かが疲れていたら、ミントを。
眠れない人がいたら、カモミールを。
悲しいことがあった人には、甘い香りのするお茶を。
それから、いつかの日のために、もっと色々なお茶を育ててみよう。
シャルロットが喜ぶお茶を淹れて、二人でゆっくりおしゃべりする未来を想像しながら。
もしかしたら、エリオットも一緒に来るかもしれない。いえ!きっとおふたり一緒に来られるわ。シャルロット様とあんなに仲がよろしいのだもの。
そのときは、王子様だからといって特別扱いはしない。
そして、二人がいつまでも仲良くいられるように、ほんの少しだけ、祈りを込めて香りのよい葉を加えてさしあげよう。
ミーシャは、空を見上げた。
夕焼けが今日も村を優しい橙色に染めていた。 今日も一日が無事に終わっていく。
聖女と呼ばれるようになってから、彼女はたくさんのことを知った。
自分の力が、自分が思っていた以上に誰かの役に立つこと。
人々の勝手な期待は、時としてひとを押しつぶしそうになることがあること。
誰かを幸せにするためには、自分自身も幸せでいなければならないこと。
ミーシャは、自分が聖女だと思ったことはない。
王妃になりたいと思ったこともない。
ただ、目の前にいる人が、少しでも笑顔になってくれたらうれしい。
そのために、自分のできることをしたい。
だから、今日も小さな村でお湯を沸かす。
お気に入りの茶葉を選び、丁寧に蒸らし、香りを確かめる。
誰かのために。
そして、自分のために。
やがて、教会の台所から、甘く優しい香りが漂い始めた。
その香りに誘われて、子供たちが集まってくる。
「ミーシャお姉ちゃん、まだ?」
「もう少しよ」
「早くー!」
「はいはい。そんなに急がなくても、お茶の時間は逃げないわ」
ミーシャは笑った。
窓の外では、ハーブの葉が風で揺れていた。
王都では今ごろ、聖女のいなくなった大教会が困っているかもしれない。
王子の婚約者が変わったことで、貴族たちが混乱しているかもしれない。
けれど、きっと何とかなる。
少なくとも、今日のところは。
ミーシャはカップを並べ、子供たちの前にお茶を置いた。
「さあ、召し上がれ」
小さな手が、一斉にカップへ伸びる。
「おいしい!」
「甘い!」
「いい匂い!」
その声を聞きながら、ミーシャは自分のカップを手に取った。
ひと口飲む。
温かな香りが、胸いっぱいに広がった。
――ああ、おいしい。
やっと自分の居場所に帰れた気がする。
自分の好きな場所で、自分の好きなお茶を作り、好きな人たちと一緒に笑える。
それが、ミーシャの望んだ幸せだった。
そして、その日から数年後。
この小さな教会には、王都から時々めずらしいお客様が訪れるようになった。
公爵家の美しい令嬢と、彼女を大切にする王子。
疲れた顔の騎士。
眠れない商人。
心を痛めた旅人。
彼らは皆、教会の裏庭で育った茶葉でつくったお茶を飲み、一休みし、笑顔になる。
そして、帰り際には必ず尋ねるのだった。
「またここに来てもいいですか?」
そのたびに、ミーシャは笑って答えた。
「いつでもどうぞ。お待ちしています」
ミーシャはこれからも小さな教会の裏庭で、誰かのために幸せの香りを育てていく。
――完――




