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九
「あーもう、腹が立って仕方がないわ!」
廊下をずんずんと歩きながら、清澄美千流は怒りを滾らせていた。
ぜんぶぜんぶ、あの軍人かぶれの真顔転校生が悪い。櫻ヶ原女学院でのこれまでの三年間、美千流は優等生であり続けてきたのに。それがまさか、あの稲塚いつきのせいで廊下に立たされることになるなんて!
状況を落ち着いて振り返ってみれば全部は美千流の自業自得ではあるが、この少女は自分の行いを省みるなどという、慎ましい精神を宿してはいない。財閥総帥の令嬢に生まれ、ほしいものは何でも買ってもらい、美しい容姿にも恵まれた。
何不自由ない人生。数日前には命の危険に晒されたものの、玲瓏たる神籠の貴公子に窮地を救われて、まるで気分はお姫さまだった。それが美千流の人生の絶頂期。
稲塚いつきが現れてからだ。昴先輩を誘惑し、見知らぬ美男と茶をしばき、そして美千流は廊下へ立たされる羽目になった。すでに持っている物や、ほしいと思った物を横から掻っ攫われたうえ、どん底につき落とされた気分だった。
ついでに白獅子の君も一向に正体が分からない。苛々は募るばかり。
(なんとかして、稲塚をとっちめてやれないかしら)
令嬢は苛立ちながら思案する。清澄財閥の令嬢が不機嫌を露わに闊歩しているので、周囲の生徒は皆、恐れて遠巻きにしている。
ふと、美千流は図書室の前で見知った顔を見つけた。本を抱えながら猫背でおどおど歩く、眼鏡でおさげの地味な生徒だ。にやりと美千流の口角へ冷たい笑いが表れる。
おさげの女学生は、美千流の姿に気付くと怯えた様子で後ずさった。彼女に対し、気遣いのない歩幅で詰め寄ると、美千流は威圧感たっぷりに口を開く。
「ちょっといいかしら──春岡雫さん」
── ── ── ── ── ──
「仲直り?」
「は、はい……」
五十槻は眼鏡の少女の方を向きながら、彼女の言葉を復唱した。授業の合間の休み時間である。
「あ、あの……この間は、急に大きな声で怒鳴ってごめんなさい」
改めて雫は頭を下げる。薬師寺昴に対し、五十槻が酷評を下したときの話だ。「いきなり大声出すから、稲塚さん意味分かんなかったよね」と、相変わらず気弱な口調で雫は述べる。五十槻は「いえ」と頭を振った。
「自分も、他者に対して悪しざまなことを言ってしまった。春岡さん、申し訳ない」
五十槻もしっかりと頭を下げた。仲直りというのは五十槻にとって初めての経験である。通っていた小学校では「おんな顔!」などとからかわれ、服を脱がされかけたことがある。そのときは加害側を返り討ちにし、骨折脱臼を複数カ所お見舞いして担任にひどく叱られた。しかしそれ以降、加害者の児童らは五十槻と顔を会わせることなく他校へ転校することとなり、仲直りの機会にはついぞ恵まれなかった。
女子の喧嘩は口喧嘩くらいか、穏やかなものだな、くらいのもんである。美千流に針で刺されそうになった一件に関しても、それ自体は本気で彼女のうっかりだと思っている。
「じゃ、じゃあ……また私と、お弁当一緒に食べてくれますかっ」
なおも俯き気味で雫が言う。異論はない。「もちろん」と言えば、雫は「よかった」と小さくつぶやいた。しかし、よかったという割には暗い声音である。だが五十槻は鈍感だった。
「春岡さん、今度は師弟関係ではなく、友人ということでいいだろうか」
雫の様子が普段と少し違うことに気付かない。同級生同士で師弟関係はさすがに変なので、そう申し出てみれば。
「あっ、えっと……いいよ」
やはりおどおどしながら雫は承諾した。五十槻にとって、初めての同性の友達である。嬉しい気持ちはあるが、やはり五十槻の面持ちは真顔であった。
「それじゃ、私先生に呼ばれてるから……。行くね」
「はい、行ってらっしゃい」
終始五十槻と目を合わせることなく、雫は会話を終える。そして踵を返しおさげ髪をぱたぱたさせて、教室を出て行ってしまった。
五十槻は席に座り、窓の外へ視線をやる。禍隠はいっこうに気配をあらわさない。もしくは、すでに何かしらの糸口が表出しているかもしれないのに、五十槻が気付いていないだけかもしれない。
仲直りしている場合ではないのでは、と年若すぎる少尉は自責の念に悩まされるのであった。
── ── ── ── ── ──
「な、仲直りしてきました……」
「結構よ、春岡さん」
三年二組の教室から少し離れた階段の踊り場。息を切らせて帰ってきた雫の報告に、美千流は満足にうなずいた。両脇にはいつもの腰巾着もいる。
権力者三人組の前で、雫は五十槻の隣にいたときよりも、いっそう縮こまっている。そんな彼女を取り囲み、美千流はさらに指令を伝える。
「いい、あなたの使命は稲塚いつきの弱みを探ること」
「弱み……」
「できれば物凄く強烈なのがいいわね。もし、私の満足いくような情報が得られたら、そうね……」
美千流は形の良い唇に指をあて、少し考える仕草。そして囁くように雫へ耳打ちする。
「昴先輩を、返してあげる」
「え……」
眼鏡の奥で、雫の目が見開いた。




