2-8
八
八朔五十槻は視力が良い。夜目も利く。例え夜間でもはるか遠くの禍隠を見逃さず、雷の神籠で瞬時に距離を詰め、一刀のもとに殲滅することができる。
だが針に糸を通すのは勝手が違った。周りの級友たちが順調に課題の洋裁を縫い進めるなか、五十槻だけが糸通しに苦戦している。
週明けの一時間目。裁縫の授業である。
五十槻の責務はこの学校に潜む禍隠を見つけ出すことであり、学業に勤しむことではない。ないのだが、一応普通の女学生を装うためには授業に出なければならない。授業に出る以上は真面目にしないと気が済まない五十槻である。
「さあみなさん、今日は男性物のシャツを仕上げてもらいますからね。さ、私は少し席を外しますので、静かに作業なさってくださいね」
中年の裁縫教師はそう言うと、スタスタと教室を去ろうとする。ところが、出入り口のあたりで不意に振り向いて。
「あ、そうそう。清澄さん、いいかしら」
「はい、先生」
呼びかけられた清澄美千流は、清らかな鈴のような声で答えた。隣席の彼女の手元にある課題のシャツは、ほとんど仕上がった状態だ。そんな彼女へ、教師は機嫌のよい声を投げかける。
「あのね、稲塚さんがお裁縫苦手みたいだから、手伝ってあげてほしいの」
「は……はぁ!?」
「学級委員長ですものね、いつも頼りにしてるわ清澄さん! じゃ、後はよろしく」
そう言い残し、教師は足早に廊下を去っていく。足音が段々遠くなりやがて聞こえなくなると、教室にはぽつぽつと私語が飛び交い始めた。
少しずつ騒がしくなっていく教室の中で、美千流は五十槻の方をキッとにらみつける。目が合ったので、五十槻は「お手数をおかけする」と会釈をした。
「なにがお手数よ! あなたの面倒なんか私、見ないんだから!」
美千流はぷいっとそっぽを向いた。どうやら面倒は見てくれないようだ。「左様ですか」と五十槻もあっさり針と糸へ向き直る。何度も糸端を針穴へぶつけているせいで、段々糸端がほつれてきた。糸通しの難易度はぐんぐん上がっていく。
「……稲塚さん、昨日広瀬町の喫茶店にいたでしょう」
会話が終わったのかと思いきや、美千流は作業をしつつ話しかけてきた。
(見られていたのか)
美千流に目撃されていたことを、五十槻は至極冷静に受け止める。会合の内容さえ聞かれていなければ、別に隠すことでもない。五十槻は短く返答する。
「ええ」
「見目の麗しい殿方と一緒にいましたわね」
「はい」
おそらく藤堂中尉のことだろう。人の美醜に疎い五十槻にも、中尉の顔が整っていることは分かる。
淡々と答える五十槻の受け答えに、美千流は段々と苛立ちを露わにしてきた。
「嫁入り前のくせに、あんなに目立つ場所で逢引きだなんて……少しはしたないんじゃなくて? それとも何? あの方はあなたの許嫁かしら?」
嫌味たっぷりの口調に、五十槻は恬淡と返す。
「いえ。そういう間柄の方ではありませんが」
「じゃあなんだって言うのよ」
五十槻には分からない。なぜ藤堂中尉と自分の関係を詮索されるのか。
素直に「上官です」と答えようとして、五十槻は口をつぐんだ。これはいけない、軍属だとバレてしまう。
かといってなんと答えていいものだろう。上司? と考えて、五十槻はこれも却下した。女学生の上司ってなんだ。
さて、こういう場合の最適解は「兄です」だ。もし隣に精一でもいたら、うまいこと耳打ちでもして教えてくれただろう。しかし精一は現在隣のクラスで大福院をやっている。そして五十槻には彼ほどの器用さはなく、嘘や妥協ができない質ときた。だからそんな模範解答、思い浮かぶはずもなく。
自身が考えうる中で、一番当たり障りのない回答を五十槻は口にした。
「……大事な人?」
「なによそれ、結局恋人ってことじゃないのよ……!」
残念ながらそれは、美千流にとっては一番当たり障りのある回答であった。令嬢は大変に憤慨し、手元のシャツを拳の内側が白くなるほど握りしめている。
「いや、違……」
「違わないでしょ! あーあー、あんなに綺麗なお顔の方を侍らせて、いい御身分ですわねー」
否定をさらに食い気味の否定で返されたうえ、やっかみまで付け加えられる。段々不機嫌の度合いが増していく清澄嬢に、五十槻は瞑目した。分からない、女の子との会話分からない──。
よくよく昨日のことを思い返してみれば、おそらく自分が女性の装いだったことが話をややこしくしている。たぶん美千流から見て、五十槻と中尉が恋人同士にでも見えたのだろう。
五十槻はちょっとだけ後悔した。昨日の朝、姉たちを振り切って短髪に馬乗袴で出かけていれば、こんなことには。
「まったく……昴さまもそうだけど、あなたみたいな方のどこがいいんでしょうね。しゃべり言葉は軍人さん、歩く姿も軍人さん、もちろん座る姿も軍人さん……世の中にはもっと似合いの令嬢がいるでしょうに。かわいそうな男」
美千流は言いたい放題である。周囲の生徒はそれぞれ仲良しの生徒としゃべっているし、美千流の腰巾着たちもいまは別の学友たちと話に花を咲かせている。美千流から五十槻へ一方的に散らされる火花に、まだ誰も気づいていない。
しかし、五十槻は思った。美千流の言うことももっともだと。こんなことで勝手に哀れまれている中尉が気の毒だ。五十槻は自分がけなされていることにも気付かず、令嬢の意見に心から同意する。
「確かに自分もそう思います」
「でしょ……って、え?」
「中……いえ、あの方も自分のような不出来な弱輩と恋人扱いされて、たいそう不本意だと思います。もっと女性らしくて、淑やかな方と添うべきだ」
「は……?」
美千流は口を半開きにして五十槻を見る。対して五十槻は紫の瞳でまっすぐに、真剣な眼差しを返している。
「あなた、本気で言ってるの?」
「もちろん」
本気で言ってる目だ。
清澄美千流、まさか誹り言葉を肯定されるとは夢にも思わなかった。美千流は五十槻が段々と目に涙を溜めて、堪えきれず御不浄へ駆け込む姿が見たかった。だが見れなかった。この軍人かぶれの変人転校生は、底が知れない。
「ぐっ……」
二の句が継げず、美千流はぐぬ、と押し黙る。そのまま爪を噛みつつ何事か考えこんでいる。
彼女が黙り込んだので、五十槻は糸通しを再開した。ほつれのひどくなった糸端を糸切狭で切り落とし、気持ちを新たに針穴へ糸を近づける。
「……しょうがないわね。貸してごらんなさい」
横から見ていて、よっぽど不器用に見えたのだろうか。美千流がそっと席を立ち、横から白い腕を伸ばして五十槻の縫い針へ指をかける。面倒は見ないという話だったが、気が変わったのかもしれない。五十槻は「お願いします」と素直に針と糸を渡す。
「いい、針はね、こうやって……」
美千流は五十槻から針のみを受け取ると、ぐっと針先を下に向けて握る。
彼女の小さな顔に、冷たい笑みが浮かぶ。
「使うのよ!」
そして間髪入れず振り下ろした針先は、転校生の手の甲へ──
「おっと」
「んなっ!」
刺さらなかった。五十槻は落ち着いた挙動で素早く美千流の腕を取り、さほど力を入れずに掴んでいる。机の上にカラリと針が落ちた。美千流、襲撃失敗である。
美千流の目論見はこうだった。針で刺された五十槻が痛みで声を上げたなら甲斐甲斐しく介抱するふりをして、もし五十槻が美千流にやられたと言おうものなら「ひどいわ稲塚さんっ、私なんにもしていないのに!」と周囲へ涙ながらに訴えて、腰巾着の助けを借り優勢を取る。クラスの女帝である美千流にとって不可能な流れではなかった。だが、それも目論見通り五十槻を負傷させることができればの話。
「驚いた。清澄さんも針の扱いを誤ることがあるのか」
大して驚いていない顔面で五十槻は言った。だが皮肉や嫌味を言っているような口調でもない。
「キーッ! 何なんですのあなたはーッ!」
やることなすこと、この転校生相手にはすべてが徒労に終わってしまう。金切り声を上げて悔しがる財閥令嬢へ、さすがにクラスのみんなから注目が集まった。
「ちょっと稲塚いつき! 何やってるの!」
「美千流さんを放しなさい!」
慌てた様子で美千流の腰巾着たちが駆け付ける。その最中に、五十槻は見た。
(これは……?)
美千流の白い手の甲に、ぽつ、と虫刺されのようなものがあった。
患部に腫れているような膨らみはなく、痣のような赤い跡が小指の先ほどの大きさでできている。痣の中央に虫の噛み跡のような小さい穴が、ぷつぷつと二つ並んで開いていた。
「だから美千流さんを放しなさいよー!」
言われた通りに五十槻は手を放す。あまり見ない形の虫刺されだと思った。
腰巾着たちは口々に「美千流さん大丈夫?」「私たちがついてますわ」と親分役の令嬢を気遣っている。
「もうっ、稲塚さんったらひどいわっ! あんまりよ!」
なんだなんだと衆目を集めつつ、美千流はさっそく被害者面をしている。腰巾着たちも同調して「そうよそうよ!」とやんややんや。
「清澄さんの針が自分の机を穿ちそうだったので、お怪我をされぬようお止めしました」
「うそをおっしゃい! 私の腕を急に掴んで、針で刺そうとしたでしょ!」
嘘を言っているのは美千流の方であるが。折悪しく、そこへ所用から戻ってきた裁縫教師がバタバタと駆け込んできた。
「ちょっと皆さん、なにを騒いでいるの!」
「先生、大変なんです! 稲塚さんが、清澄さんを……!」
「縫い針で刺そうとしたんです!」
「まあ!」
教師は人の好さそうな顔をむむっとしかめ、五十槻の方へ歩み寄る。
「稲塚さん、本当なの?」
「いえ、決してそのようなことは」
「清澄さん、稲塚さん違うって言ってるわよ!?」
「いいえ! 確かに刺されそうになりました! あなた見たでしょ、ねえ!」
「そうです先生! 清澄さんの言う通りで……」
「偽証です。撤回を要求します」
喧々囂々。一方は感情的に喚きたて、一方はひたすら冷静に否定の言葉を述べる。挟まれた裁縫の先生のジャッジは……
「ふたりとも廊下に立ってなさい!」
そんなこんなで、五十槻と美千流は並んで廊下に立たされている。美千流は恨みがましい目で五十槻の方をじろりと見た。
「あなたなんか大っ嫌いだわ……!」
五十槻は珍しくため息を吐いて、本当に珍しく落胆の表情を見せた。
(僕も、清澄さんのことは到底好ましく思えそうにない……)




