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6-15

十五


 神さま、神さま、お願いします。


「五十槻さんのことを、どうかお守りください……!」


 真っ暗な石室の中で、赤子を抱えつつ、手を合わせ。

 和緒(かずお)は必死で祈っていた。

 分厚い石の扉の奥からはずっと、激しい雷鳴が響き続けている。ときおり()んだり、また弾けたりしながら。

 継子の鳴らす砲雷(ほうらい)を覆い隠すように、化け物の絶叫もしきりに轟いている。そのたびに石室の内はビリビリと震え、弓槻(ゆつき)はずっと泣き喚いていた。

 いままた石扉の隙間からぴかりと、半色(はしたいろ)の雷光が暗室へ細長く閃いた。


「弓槻、弓槻。大丈夫だからね。五十槻さんも、きっと──」


 壁越しの轟雷の中、和緒が我が子をあやしているときだった。部屋の外からの轟音に紛れて、妙な物音が下方から聴こえてくる。水音のような響きだ。

 はたと後方の床へ視線を落とした和緒は、ふと気付いた。ちょうど外から稲光が瞬いて、か細い光で床面を照らし出す。


「……扉?」


 背後の床には出入口らしきものがある。観音開きと思しき扉で蓋をされているようで、水音はその下から漏れ聞こえている。ちょろちょろなんて生易しい音ではない。それはまるで、どうどうと勢いよく流れる瀑布(ばくふ)のような。母は即座に警戒の念を抱く。

 和緒は弓槻を抱きしめ、さっと立ち上がった。その直後。バン! と音を立てて、床の観音扉が外へ威勢よく開かれる。同時に水音がぴたりと止まった。


「な、なに……?」


 反射的に壁際へ駆け寄りつつ、和緒は床を凝視した。開いた扉から、水が噴出してくる気配はない。

 代わりに床からぬっと這い出してきたのは──人間の気配だ。薄暗くて判然としないが、おそらく複数名いる。そのうちの一人がカンテラを持っているらしく、床穴からは不意に橙色の光がこぼれ出た。


「や、やっと着いた……!」

「耳がキーンとする……」


 カンテラの光に照らされながら、侵入者たちは次々と床下から現れた。和緒の見知らぬ男たちだ。神事兵の軍装を着た、品の良い髭の男。続いて彼の配下らしき下士官。そして──。

 唖然としていた和緒は、はたと目を見開いた。彼らの次に床穴から顔を出した壮年の男は、見紛うはずもない。彼女の伴侶である。


「か……克樹さん!」

「和緒! 和緒か!」


 彼女の夫──八朔克樹は和緒の姿を認めると、薄暗がりの中で一瞬、泣きそうな顔をした。しかしすぐにどたばたと床穴から這い出して、親子の傍へ駆け寄ってくる。


「ふたりとも無事か! 怪我はないか!」

「ええ、私たちは。でも、五十槻さんが──!」


 家族の背後では。

 綜士郎と京華が床穴をよじ登ってくるところである。綜士郎は石室へたどり着くなり、すぐ目の前の分厚い扉へ駆け寄った。おそらくここが本殿との出入口だろう。だが石棺のような重厚な扉は、簡単にはびくともしない。先に部屋に入った香賀瀬配下の式哨(しきしょう)が、うんうん唸りながら扉を押している。


「藤堂さん! 五十槻は!」

「無事です! だが交戦しているな……!」


 克樹が彼に呼びかける声で、和緒はやっと、顔見知りの大尉がこの場にいることに気付いたようだ。だがやりとりを交わしている場合ではない。

 石扉を押している式哨が、綜士郎へ向けて助勢を請う。


「藤堂大尉、ご加勢を! 自分ひとりでは、とても……!」


「もちろんだ!」とそれに応じつつ、綜士郎は扉に両手をぴたりと添えた。


「いいか、せーので行くぞ。せー……」

「どきたまえ」


 綜士郎と式哨が、せーので押し開けようとしたときである。背後から神経質な仕草で割って入ってきたのは、香賀瀬少佐だ。

 石扉の前のふたりを「しっ、しっ!」と追い払うと、少佐は扉へ向かい、片手に持っていた物を振り上げた。

 それは──透明な刀身だ。柄も鍔もない刀。少佐はその(なかご)の部分を握っている。水のように透き通った刃に、ふるりと波紋が渡った。

 香賀瀬家の産土(うぶすな)多津河淵深水神タツガフチミミズノカミの神籠である。水を刃として用いる異能だ。


「藤堂綜士郎! 念のために聞くが、この扉の先、刃の届く範囲に誰もいないな!」

「ああ! 安心してやってくれ!」

「よぉし! (かけ)まくも(かしこ)多津河淵深水神タツガフチミミズノカミの大前に!」


 かくて水の刃が一閃する。

 積み木が崩れるように石の扉は倒壊し、そして──。


      ── ── ── ── ── ──


「わ────! ヤダ────!」


 (きのえ)精一(せいいち)は上空から落下しているところである。

 真っ逆さまに落ちていく彼の真下には、上を向き、大きく口を開いて待ち構える、禍隠の大猿。

 いやに整った歯列の奥には、真っ暗な闇が広がっている。


「ヤダー! ヤダヤダー! めっちゃ歯並びいいのなんかヤダー!」


 喚きながらの急降下。精一が騒いでいるうちに巨大な白い歯はもう目前である。猿はひときわ大きく顎を開く。

 精一は覚悟した。このままだと良くてごっくん、悪くてむしゃむしゃ。

 そんなあわや、のところである。


「甲伍長!」


 彼方から紫の光が到来した。

 禍隠の歯の間に精一が落下する直前で、雷光は彼を攫って飛び去っていく。

 直後に響く、ガキンと歯が打ち鳴らされる音。


「伍長! 遅くなりました!」

「ちょっぱやじゃん! ありがといつきちゃん!」


 五十槻はすんでのところで精一を拾い、そのまま社殿の方向へ軌道を合わせた。

 八朔の神籠は精一を小脇に抱えつつ、美千流も背負っている。突然五十槻は苦しそうに謝罪した。


「す、すみません……清澄さん、甲伍長……!」

「なんで謝るのいつきちゃん」

「そうよ、大手柄よ五十槻さん!」

「あの、重くて」


 五十槻がそう言うやいなや。雷の軌道が突如ぐわんと湾曲した。

 それはまるで、弱りかけた蠅のような軌跡である。八朔の神籠は雷をふらつかせながら、やっとのことで社殿内へ帰還──というか激突した。どんがらがっしゃんと派手な音が響く。

 果たして、美千流と精一は床の上へ投げ出され、倒れ伏し。

 五十槻はといえば、崩れかけた祭壇に上半身を突っ込むようにして停止している。


「ハ、ハッサク!」


 八朔の神籠が派手に転がり込んできたのを見て、社殿奥から駆け寄ってきたのはもちろんこの男である。獺越(おそごえ)万都里(まつり)


「ハッサク! ハッサク無事か! ついでに他ふたり!」

「ついでとは失礼ね獺越の次男!」


 五十槻を助け起こしつつの万都里の声に、美千流が抗議の声を上げながら起き上がった。とくに怪我はなさそうである。彼女の奥で、精一もまた「いつつ……」と起き上がるところだ。

 五十槻も痛みに呻きながら目を開く。


「う……獺越さん……?」

「大丈夫かハッサク! 人工呼吸は必要か!」

「負傷の状況的に必要ないと存じます」


 抱え起こしてくれていることに「ありがとうございます」と律義に礼を述べ、五十槻はふらりと立ち上がる。その最中に気付いた。傍らにいる年上の同期は、全身ボロボロだ。禍隠に引っかかれたのだろうか、軍服には爪痕が刻まれ、左の肩章が外れかけていた。少なからず出血もしている。


「ああ、これか? ほら、あれ」


 五十槻の視線に気付いた万都里が、軽く指で社殿内を示して見せた。あちこちに倒れ伏しているのは、狼型の禍隠だ。飛禽(ひきん)型だけでなく、獣型の禍隠の襲撃もあったらしい。黒い獣は一様に、急所を銃撃されて事切れている。


「安心しろ。お前んとこの祝部(はふりべ)も、式哨(しきしょう)も全員無事だ。もちろん奥の石室も。だが──新手がどこから現れるか……」


 万都里が言いかけたところで、社殿の下方。山岳の斜面から不意に、狼の吠え声が聴こえてくる。続いて、ざし、ざし、と足場を飛び伝う音が瞬く間にこちらへ駆けあがってきた。そして。


「獺越少尉! 禍隠が!」


 祭壇の後ろから、中津一等兵の声が響く。万都里も先刻承知といった様子で、いち早く小銃を構えた。欄干から黒い影が飛び出したところで。


「化け物どもが! 次から次に鬱陶しい!」


 怒声とともに、獺越の神籠は銃弾を放つ。だが銃弾が撃ち抜いたのは狼ではなく──鳥の禍隠だ。


「小癪な!」


 万都里の照準が整う前に。社殿の欄干を飛び越えて、大きな四つ足の獣が現れた。狼は(あぎと)を思い切り開きながら、跳躍の勢いのままにこちらへ向かってくる。あっという間に獣の鼻面は五十槻の目前だ。


「いかんハッサク!」


 咄嗟に万都里が五十槻を突き飛ばした。「獺越さん!」と叫ぶ五十槻の目の前で、万都里の肩口に黒い猛獣が食らいつく。

 鋭い牙に肩の肉を抉られつつ「畜生が!」と青年は罵声を上げた。よく見れば彼も、禍隠の胸部に小銃の銃口を押し付けている。正確には、その先に取り付けられた銃剣を。鋭い切っ先は毛皮の奥深くへ沈んでいた。銃床を伝って、黒い血がばたばたと床に散っていく。


(早く僕も神籠を!)


 異能の発動を念じかけるが、五十槻の神籠は雷の異能だ。この状況では下手をすると、万都里を感電させかねない。ためらう少女の視界の内で、また別の変化が起きる。

 西側の景色が、ふと黒い影によって覆いつくされた。巨大な何者かが社殿の前に立ちふさがったのだ。百雷の社に肉薄し、顔面を貼り着かせて覗き込んでいるのは──大猿の禍隠。

 不意を衝いて、屋内には他にも、狼や鳥の禍隠が侵入している。精一が社殿の木材を操って応戦しているが、禍隠は社殿内のあちこちに散らばっている。とてもではないが精一ひとりでは応戦しきれていない。


「スマンまつりちゃん! 俺はみちるちゃん守ってあげんので手一杯だ! みちるちゃん、いつきちゃんのとこまで行ける!? 早く止血を!」

「わ、わかってるわ! い、五十槻さん待ってて、すぐに!」

「早くしろ清澄の! クソッ、早くくたばれ畜生めが!」


 混乱する状況に、五十槻は逡巡した。美千流と離れたからか、傷口からはまた血が垂れている感触。


(社殿内の禍隠を一掃後、大猿の禍隠へ対処すべきだ。だが獺越さんがこの状況では神籠が使えない。どうすれば……!)


 切羽詰まった思案のさなか。

 がらり、と何かが崩れる音が後ろから響いた。それから、ごとんごとんと重い物が床に落ちていく音。そちらを振り向いた五十槻は目を見開いた。

 母と弟が隠れていたはずの石室。家族を匿う重厚な扉が──切り裂かれ、積み木が崩れるように手前側へと崩れていく。


「お母さん、弓槻(ゆつき)!」


 一瞬にして少女は冷静さを欠いた。まさか、石の部屋の内にも禍隠がいたのだろうか。そんな、まさか。信じられない。

 しかし──崩れた扉の奥から飛び出してきたのは、禍隠ではなかった。

 それは、水の大蛇(おろち)である。

 扉の内からぬっと姿を現した大蛇は、透き通った頭をもたげ、じっと静止して。

 次の瞬間に、社殿中の禍隠に向けて頭部から勢いよく支流を放つ。精密な水勢は獣や鳥の頭部を射抜き、瞬時にすべての禍隠を葬り尽くした。万都里に襲い掛かっていた狼も、側頭部を貫通されて事切れる。噛みつかれたままの体勢で、万都里が「どわっ」と骸に押しつぶされているのが視界の端に見えた。

 しかし大蛇の放つ水流は、大猿にだけはあまり通じていないらしい。猿は目元を高圧水流で薙ぎ払われるも、多少後方へ後退ったくらいのものである。大して傷を負ったようには見えない。


「水の……神籠……?」


 思わず五十槻は美千流の方を見た。美千流は「私じゃないわ」と言わんばかりに、首を横へぶんぶん振る。しかしこれはどう考えても、八津曲水早神ヤツクマミズハヤノカミの異能だ。


「社殿内の禍隠は一掃できたかしら」


 冷静な声を発しつつ、石室の奥から現れる人影がある。コツコツと靴音を鳴らし、手のひらをこちらへ向けて、水の大蛇を制御するかのような素振りをしている。

 黒を基調とした旗袍(チーパオ)に、その上に羽織った白衣。ゆるくまとめた長く艶やかな黒髪。妹とよく似た美しい(かんばせ)に、射干玉(ぬばたま)の瞳。

 暗室の暗がりからこちらへ進み出てきたのは──清澄京華だ。美千流が「え」と目をひんむいた。

 突然のことに、五十槻は呆然とした。どうしてここに、清澄博士が? 神籠を使ったのは、清澄美千流ではないのか。

 けれど紫の瞳は、続いて石室の奥から現れた人物へ吸い寄せられる。

 少し身をかがめて、出入り口から出てくる長身は。あの髪や、手や、仕草は。


「あ……──」


 五十槻の目頭が熱くなる。鼻の奥がツンとした。喉が震えている。

 向こうも五十槻に気付いたようである。青年はこちらへ向けて、顔を上げた。

 藤堂綜士郎大尉だ。間違いなく、本人だ。少しやつれて、疲れた顔色で。そして。

 鋭い目元を、大きく見開いて。その表情は五十槻と同じように──すぐに泣きそうな顔に変わる。


「五十槻!」

「藤堂大尉……!」


 綜士郎が扉の残骸を踏み越えて、こちらへ駆けてくる。

 その再会はあまりにも突然で、五十槻はどうしてか身動きできずにいる。

 銃撃の傷を焼いて。一度は止まった心臓を、無理矢理動かして生き延びた。そこまでして生きたいと願った理由は、一番は藤堂大尉に会いたかったからだ。

 小さな子どものようにわっとその胸に抱き着いて、痛かった分、頑張った分、たくさん泣き喚いてしまいたい衝動が身体中を満たしている。それで、頭を撫でてもらって、背中を撫でてもらって。

 よく頑張ったな、と褒めてもらえたら。

 けれど今はそんな場合ではない。


「オオオオオオオ!」


 山を震わせるような咆哮が響く。大猿の禍隠だ。

 水の神籠によって少し後方へ追いやられた禍隠は、ずし、ずしと足音を轟かせつつ、再びこちらへと迫りつつある。

 五十槻は歯を食いしばった。私情は抑えるべき場面である。いま最も優先すべきは──。


「藤堂大尉!」

「五十槻!」


 駆け寄ってきた綜士郎に向け、五十槻はまず直立の姿勢を取る。軍帽は先刻の空中戦で、山中のどこかへ紛失してしまった。無帽の状態であるが、五十槻は挙手の礼を取る。

 再会を喜びかけていた綜士郎の顔が、瞬時に引き締まった。彼も状況の優先を判断したのだろう。さっと素早く答礼を返してくれる。

 少尉と大尉の間に、束の間、皇都での日常が戻ったようだ。五十槻は胸の内の高揚を封じて、努めて冷静に告げた。


「急ぎ、藤堂大尉へお願いしたい儀がございます!」

「委細承知している」


 藤堂大尉の真剣な口調が返ってくる。けれど大尉は、次の瞬間には表情も声色もゆるめて、兄のように五十槻へ笑いかけた。


「あの猿を内側から破裂させろ、ってんだろう? 任せておけ」

「藤堂大尉……!」


 さて。綜士郎はひとり社殿の欄干の(きわ)に立ち、目前に迫る大猿の禍隠を凝視している。

 藤堂大尉以外の人員は全員、社殿奥の石室周辺に、ひとかたまりになって退避している。五十槻も美千流に傷跡を止血してもらいながら、大尉の方へ気を配っていた。


 綜士郎の持つ香瀬高捷神(カゼタカハヤノカミ)の神籠は、大気を操る異能だ。

 神域(ひもろぎ)内の大気を大雑把に操作して、収縮したり、膨張したりさせることができる。

 大猿が社殿へ再接近を果たす前に、綜士郎の神籠は発動した。

 大猿を中心に、四方八方へ突風が巻き起こる。社殿にも大風が吹き付けてきた。


「ぶわっ! いつにも増してすっげえ風!」


 精一が柱にしがみつきながら叫ぶ。

 皆が身を小さくして強風に耐える中、五十槻だけはじっと綜士郎の背中に視線を注いでいる。


「────!」


 大猿の身体が突如、風船のように膨れ上がった。体腔の空気が急激に膨張しているのだろう。身体の輪郭は瞬く間に毬のように膨らみ、そのまま断末魔の叫びも残さずに。

 ボン、と。

 強烈な破裂音をあたり一帯へ響かせて、巨大な禍隠は飛び散って事切れた。ざあ、とあたりに破片や血が降り注ぐ。同時に。

 霊山上空の雷雲が晴れ渡った。時刻は昼下がり。重苦しい雲を押しのけるようにして、天にはのどかな青空が広がった。

 綜士郎はその後も神籠を使っている。禍隠の血や肉が社殿内へ入り込まないよう、また人里に落下しないよう、神籠で風向きに微調整をかけているのだろう。


「……よし、終わったな!」


 そう言いながら、百雷の青空を背に。

 綜士郎は五十槻の方へ向けて、笑った。


 かくて百雷山の戦いは終焉を迎える。

 社殿奥へ避難していた全員が、ほっと息を吐いた。精一と式哨たちは笑いさざめき合い、美千流と万都里は綜士郎の方をねめつけながら「チッ」と息ぴったりに舌打ちをしている。


「藤堂大……」

「五十槻さん!」


 改めて綜士郎のもとへ駆け寄ろうとする五十槻を、呼び止める声が響いた。女性の声だ。

 はたと少女は後ろを向く。

 声の主は、石室の奥から走ってくるところだ。


「お、おかあさ……」


 五十槻の継母──和緒(かずお)。その腕の中にはもちろん、へにゃへにゃ泣いている弓槻(ゆつき)が抱かれている。

 そして、彼女とともにやってくる人影を見て。五十槻は紫の目を思いっきり見開いた。


「……父上!? どうして……!」

「五十槻!」


 呆然とする娘を、夫婦は左右からがっしり抱きしめた。父は傷に障らないよう、注意深く、けれど力強く。母は赤子を抱きながら、やわらかく。

 親子はそれ以上に言葉が出てこない。ただただ四人四様に、嗚咽だったりすすり泣きだったり、赤子らしく泣き喚いていたりする。そのまま揃って親子はへなへなとへたり込んだ。急な脱力に、一斉に見舞われたようだ。

 ここに至るまで、色々あった。五十槻が国の都合で男として育てられ、軍人の人生を歩まされ。五十槻の現状を受け入れられぬ父を拒絶したり、継子の本来の性別を知らされずにいた継母と、確執が起きたりもした。これまで八朔家を翻弄し続けてきた波乱万丈が、親子から言葉を奪っている。何をどう語っていいのか。どう謝ればいいのか。どう、感謝を伝えればいいのか。

 父と母のあたたかい腕に包まれて、五十槻の顔がくしゃりと歪む。少女は小さな子どものように涙をこぼしながら、ただただ父母へ呼びかけた。


「お父さん……お母さん……!」


 家族の嗚咽の声はいっそう激しくなった。

 涙にむせぶ八朔一家を、皆があたたかく見守っている。精一も、美千流も、万都里も。

 社殿後方で様子を見ている、京華や式哨たちも。

 香賀瀬少佐はどことなく気まずそうな顔をしている。兄のことがあるからだろう。

 綜士郎も欄干の前で、親子の再会へ満足そうな微笑みを向けていた。

 五十槻がふと目線をあげると、その微笑の眼差しと目が合う。綜士郎は「よかったな」の表情をすると、ふと顔色を青くした。たぶん神籠の精密使用で負荷がかかったのだろう。大尉は慌てて欄干へ駆け寄ると、おえっと胃の中のものを霊峰の地面へ吐き出している。


「あ、あの……お父さんお母さん……藤堂大尉が……」

「五十槻ぃ! 父さんは、父さんはなあ! お前のことをものすごく心配して……!」

「あの」

「よかったわ、五十槻さん……あなたに何かあれば、私はもう……!」

「いや、ええと」


 そんな親子の再会である。なんだかちょっと締まらないのであった。


      ── ── ── ── ── ──


「感動の再会中申し訳ないのですがね」


 抱き合っている一家へ、ちょっとやりづらそうに声をかけてきのは初老の医師だ。克樹が連れて来た、八朔家のかかりつけ医である。


「拝見したところ、お子さんはかなり深手を負っていらっしゃる。早急に処置をしなければなりません」

「お医者様とお見受けしますわ」


 医師の隣にスッ……と立ち、話に割って入るのは美千流だ。軍服の令嬢は真剣な面持ちで挙手し、医師へ告げる。


「私、看護については心得がございますわ。ぜひ手当てのお手伝いをさせていただきたく存じます」

「五十槻、こちらのお嬢さんは?」

「清澄美千流神事兵准尉です。以前は女子看護隊に所属されておられましたから、応急手当の経験も豊富でいらっしゃいます」

「ああ、女子の神籠の……!」


 五十槻の紹介で、医師は納得したようである。財閥令嬢・清澄美千流が水の神籠に目覚めた一件は、八洲ではすでに知らぬ者のいない大事件だ。けれど医師はその件について、さほど興味がないらしい。彼は五十槻の他にも負傷者が数名いるのを見渡しながら、「それなら」と口を開いた。


「それじゃあ、あちらにいる男性お二人。キツネっぽい方と金髪の方だね。そのお二人の処置をお願いしたいかな。ガーゼや包帯はそこの鞄の中に……」

「い・い・え! まずは全身全霊で八朔五十槻少尉のお怪我の処置を優先すべきですわっ! そこのおふたりなら放っておいても死にやしなくてよ!」

「ひでえやみちるちゃん」

「薬室にもう一発残ってたな確か……」


 令嬢の熱弁に、満座が困惑した。しかしお嬢さまは止まらない。なにせこの娘は、八朔五十槻をせっせと看護したくてこの作戦に志願したのである。途中神籠になったり軍役を命じられたりしたものの、いま目の前に巡ってきたのは絶好の好機。大怪我を負った想い人に、その両親までそろっているではないか。

 ここでズバッと的確な処置を甲斐甲斐しく決めて見せれば。


(お義父さまとお義母さまからの心証を荒稼ぎできるわ──!)


 この娘、まだ外堀を埋めることを諦めていない。

 さて、その目論見を叶えるために、美千流は強引にことに取り掛かる。


「さあさあお医者さま! 五十槻さんのお怪我はいまのところ私の神籠で止血していますけれど、早急に処置をしなくてはですわ! となるとお召し物を脱いでいただかなくてはですね!?」

「え? ああ、まあ……」

「はいそれじゃあ五十槻さん! さっそくぬ、脱いでいただきますわ! はい両手をあげてバンザーイ!」

「おい誰かあの小娘止めろ!」


 鼻息荒く迫ってくる美千流が、五十槻へ触れる前に。


「ま、待って!」


 慌てて五十槻を守るように抱きしめたのは、和緒である。母はふるふると首を横に振りつつ、我が子の脱衣を拒絶した。


「お、お願い……ここではその……あの、この子は」

「そうですね。慎みとして、いま衣服を脱がされるのはご遠慮願いたい」


 言いづらそうにしている和緒に続けて、五十槻が口を開く。母の肩口に頭を預けながら、安心したような──吹っ切れたような面持ちで五十槻は言った。


「ここにいらっしゃる大半の方には黙っておりましたが──僕の本当の性別は女性です。ゆえに処置に関しましては、その点ご配慮いただけますと大変ありがたく……」


 恬然(てんぜん)とした口調で真顔がそうのたまう。五十槻はそこまでしゃべると、「あ、急にめまいが」と、こてんと意識を失った。とはいえ、安らかな寝顔と寝息なので、命に別状はなさそうだ。

 ほぼ全員が先の言葉を、脳裏で反芻している。ぽかんとした面持ちで。

 それはまさに青天の霹靂。


 僕の本当の性別は女性です。

 僕の本当の性別は女性です。

 僕の本当の性別は女性です。


「え……」


 ええ────────────!?


 百雷山に響き渡る、驚愕の声の大合唱。

 我が子を抱えつつ、父とは母は「いま言っちゃうのそれ?」という顔だし、後ろで式哨たちは全員が全員白目をむいているし。精一は「ぶっは!」とツボに入っている。

 そんな中、綜士郎はといえば。


「はー……このクソ神籠め、相変わらず反動がキツくてかなわん。胃の中のもん全部出たかこりゃ……」

「おい藤堂!」

「やい藤堂さん!」

「は、え? なんだなんだ?」

「知っていたのか藤堂綜士郎!」

「えーと、何の話だ? 吐くのに必死で全然聞いてなかっ」

「ええい埒があかん! おい式哨ども! 全員で藤堂に洗いざらい吐かせるぞ!」

「いやいま全部吐ききって」

「問答無用──!」


 かくて霊山には喧噪がこだまする。

 自らを巡って、敬慕する藤堂大尉が万都里や美千流らにやり玉にあげられているなどとは、露ほども知りもせず。

 五十槻は戸惑い気味の父母の腕に抱かれて、安穏と眠るのであった。


 神さま神さま、ありがとうございます。

 僕や、僕の家族、大事な人たちを守るのに、お力をお貸しくださって。

 これからは──。

 押し付けられた枠におさまるのは、もうやめだ。

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