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八
百雷山は別名を常雷の山という。常に雷が鳴っているからだ。
山は西方に切り立った断崖を有し、太華方面の海から吹く風を受け止めている。そうして生じた気流が雷雲を作り、この山へ常に雷をもたらしていた。
当地における雷神信仰の発生も、ごく当然のことである。
実際にこの地で目覚める神籠は、雷の神通力を宿す。八朔の神籠だ。
八朔の神籠は百雷山の山頂にある神奈備で、代々継承の儀を行う。
山頂。険しい断崖にへばりつく様にして、祓神鳴神を祀る社殿が築かれている。基本的に悪天候の山なので、建立の際はたいそう苦労したらしい。本殿は、断崖からせり出すようにして設える懸造りという工法で建てられている。建物は床下を数多くの太い支柱によって支えられており、造り自体はかなり頑丈だった。
その本殿の中で、継承の儀はいままさに執り行われようとしている。
本殿東、断崖側に設けられた祭壇の前に、祝部の正装に身を包んだ古田が傅いている。
その後ろ──豪華な敷物の上に、弓槻は寝かされていた。赤子はよく分かっていない様子で、「あう」と喃語をつぶやいている。
次代神籠の生母である和緒は、敷物の外に座らされていた。すでに目隠しも耳栓も付けている。真っ暗な視界の中、我が子の声も祝部の上げる祝詞も、彼女の鼓膜には不明瞭に、くぐもった音声で届いていることだろう。むろん、社殿の外で鳴り響く雷鳴も。
本殿の西側に壁はなく、欄干があるだけで吹きさらしだ。
欄干の前に、当代の神籠──五十槻は寝かされていた。床板の上に直に。傍らには軍刀が置かれている。
五十槻は昏々と眠り続けている。軍服だけは改められて、まっさらな新品を着せられていた。
顔にかぶせられているのは、白獅子の面だ。こちらも真新しいものである。
すべては神事を穢さぬために。
継母の和緒はこの場に継子がいることに、気付いていない。彼女が目と耳を覆ってから、五十槻は運び込まれたのだ。
儀式に参加するのはこの四名だけ。
ごぉん、と百雷山にひときわ大きな雷鳴が轟いた。同時に。
山頂の上空に、赤く、不吉な光が現れる。光は社殿にまで達し、捧げられるように置かれた少女の顔の、白獅子の頬を撫でている。
五十槻はまだ夢を見ている──。
そのまぶたの内に映るのは。強い強い雷光に照らされる、隻腕の人影。
── ── ── ── ── ──
五十槻は目を覚ました。
薄暗い場所だ。複雑な木組みの天井が、五十槻のことを見下ろしている。
顔には何かをかぶせられている。よく親しんだこの感触は、八朔の神籠の証である白獅子の面だろう。
あたりに響くのは、雷鳴と、祝詞の声。
五十槻は顔を左側へ傾けてみる。木造りの社殿らしき建物だ。奥には祭壇が設けられていて、その前で見覚えのある神官が、一心不乱に祝詞を唱えていた。祝部の古田一比古だ。祝部はこちらに背を向けていて、五十槻が覚醒したことには気付いていない。
そして──祭壇よりもこちら側。豪奢な敷物の上に寝かされているのは、弟の弓槻だった。敷物から少し離れた場所には、目に覆いをした継母、和緒の姿もある。
状況を一瞥して、五十槻は理解した。
──継承の儀だ。これは。
よくよく見れば、五十槻はこの場所に見覚えがある。なにせさっき夢の中で見たばかりだ。
ちょうど五十槻が寝かされているところに、彼は立っていたはずだ。
隻腕の人影──先代神籠、八朔達樹が。
意識がはっきりしてくるにしたがって、五十槻の身体は命の危機を訴え始める。全身がだるい。身体が熱い。
なにより左胸から脇腹にかけて、ずくずくと激痛がわだかまっている。むろん、銃弾を受けた場所だ。痛くて痛くてたまらない。
けれど。痛いということは、生きているということに他ならない。
ごぉん、とさっきから雷が絶え間なく鳴っている。百雷山はそういう場所だ。常雷の山。八洲で最も猛き雷神、祓神鳴神の住まうところ。
空の上から、見覚えのある赤い光が社殿を照らしている。
五十槻はゆっくりと身を起こした。赤光を浴びて、血潮に衝動が滾っているのを感じる。八朔の宿痾は、神籠本人が生命の危機に瀕していようがお構いなしである。だが今は好都合だ。
少女は弟の方を見て微笑んだ。
「……悪いな弓槻。まだお前に、神籠の座を譲ってはやれないよ」
よろめきつつ立ち上がる。軍刀を手に取り、略刀帯に吊る。
そこでやっと祭壇前の祝部が、五十槻の目覚めに気付いたようだ。丸顔がこちらを振り返る。
「お目覚めになりましたか、御当代」
「お久しぶりです古田さん。僕はもう用済みですか」
「そのお怪我ですから、致し方ないかと」
「……継承の条件を教えて頂いても?」
五十槻の問いに、古田は少しだけ、和緒の方を見た。五十槻の継母は、五十槻がいることにも、古田と会話を交わしていることにも気付いていないようである。弓槻の方を、はらはらした顔色で気にしているようだ。
古田は厳かな口調で、五十槻へ告げる。
「条件は簡単です。この場であなたが絶命なされば、弓槻殿が八朔の神籠を宿します」
本来、継承の条件は当事者である神實の一族には、明かしてはならない。
けれど条件を明かしたということは、古田は五十槻の死を確実視している。祝部は当代の神籠の死を望んでいる。
「僕の死がお望みならば、意識を失っているうちに手にかければ楽だったものを」
「そうもいきません。条件は、もうひとつあるのです」
古田は少し震える指先で、社殿の西側を示して見せる。吹きさらしの西の側面。天上から、赤い光が降り注いでいる。
「……当代の神籠は、禍隠と争った上で死ななければならない」
「やっぱり……」
そうだろうなと五十槻は思っていた。
祓神鳴神という荒っぽい神格については、その神通力を宿す身として、それとなく傾向を把握しているつもりだ。
この神はそう簡単に神籠を次代へ渡さない。
荒々しい戦いの末にこそ、次を選ぶのだろうと。
「残念ですが古田さん。今回の儀では、継承の条件はいずれも満たせません。なぜなら僕は死ぬつもりはない。生きなければ……果たさなければならないことがある──」
五十槻は痛みを堪えてそう言うと、赤光へ向き直った。
白獅子の面が赤く照らされる。
紫の瞳の中で、瞳孔が異常収縮する。仮面の内に浮かべるのは、夜叉の笑みだ。
面の奥から、五十槻はくぐもった声で祝詞を奏上する。
──掛まくも畏き祓神鳴大神の大前に
神實八朔五十槻 恐み恐み白く
清浄なる霹靂あらわし 千早振る神寶の剣刀以て
四海の外より来る禍隠どもの尽くを
祓いたまえ 清めたまえ
祝詞を奏し終えるのと同時である。
がぁん、と大きな雷が付近に落ちた。五十槻の神籠ではない。天然の雷だ。
すると社殿西側。吹きさらしの欄干の奥に、赤い光が閃いた。一つ、二つ、三つ。
百雷の本殿を覗き込むように。三つの赤い正円が、百雷山の中空に発生している。
「門が……同時に複数……!」
百雷山は常雷の山である。
常に雷が鳴り続けるこの山は、磁場が不安定だ。
そのせいだろうか。
この山は実は、古来羅睺の門が異常発生する──死地である。




