2-7
七
時々見る夢がある。とても幼いころの記憶の夢だ。
知らないおじさんが、ブリキでできた戦艦のおもちゃをくれる夢。
おじさんの顔はよく覚えていない。けれど、一つだけ覚えているのは、紫色の綺麗な瞳。
おじさんは頭を撫でながら、言った。「幸せで過ごすんだよ」と。
五十槻は思った。うれしい、と。
五十槻はこの後のことをよく覚えている。貰ったブリキのおもちゃは、次の日五十槻が授業を受けている間に、寮の管理人が勝手に処分してしまった。五十槻が大人を困らせるほど大泣きしたのは、このときが最後だった。
おもちゃがなくなったことが悲しいんじゃない。誰かが自分を気にかけてくれた事実そのものが、なくなった気がしたからだ。
五十槻は目を覚ました。いつも決まった起床時間になると勝手に目が覚める。起床ラッパの時刻よりも早い時間だ。
(達樹おじさんの夢だった)
八朔達樹は五十槻の叔父である。八朔家の先代神籠であり、すでに故人。九年前の禍隠との戦闘において戦死し、当時階級大尉であったが、功績抜群により二階級特進が適用され、最終階級は中佐である。その後、八朔の神籠は五十槻が継いだ。
叔父が命を捧げた戦いは相当苛烈なものであったらしく、八朔達樹の遺体はほとんど残っていなかった。戦場にはわずかに片腕と手指が数本残されていただけである。五十槻の記憶にある叔父は、おそらく戦死直前の時期だろう。元々身体が弱かったらしく、神籠としての役目も無理を押してのことだったらしい。神實華族の特権も使わず、何年も禍隠討伐の最前線にいたそうだ。
父・克樹が五十槻をなんとか軍から引き離そうとするのは、おそらく叔父の死が原因だ。実弟の惨い死に方を見て、同じ境遇の我が娘を、父親が案じないわけがない。
けれど、五十槻はその叔父から役目を引き継いだ。神籠ならば八洲の平穏のため、死力を尽くさなければならない。たとえどんな無残な末路をたどっても。けれど。
(幸せ……)
今日はなぜか、叔父の言葉が心にのしかかる。叔父の夢を見たのは、きっと昨晩、父や姉との会話の中で、叔父の名が挙がったせいもあるだろう。父も姉たちも、叔父も、みな五十槻の幸せを望んでくれている。
五十槻の幸せは、大事な人たちを守り、使命を果たして死ぬことだったはずだ。けれど、夢の中の叔父は、そういうことを指して「幸せ」と言ったのではない気がする。なにかもっと、穏やかな。
「支度をしなければ」
珍しく思考の海に沈みそうになり、五十槻は気を取り直すように声を出した。今日は定時報告の日である。
五十槻は敷布団をさっさと片づけ、衣類を替えて自室を出た。
今日の朝食の席は妙に静かである。いつも姉たちがかしましく食卓をにぎわしているのに、今朝は不自然に静まり返っている。父は昨日の心労が堪えたのか、まだ寝所にいるらしい。和緒も赤子の守に疲れて寝ている。
五十槻は軍の主治医から、養生のために摂食する食物を指定されている。特に大豆はアレルギーを起こすので避けるように言われていた。当然実家にも同じ内容が通達されており、姉や女中が作ってくれる食事の内容は、兵営の食堂で食べるものと大差ない。今日も五十槻だけ、味噌ぬきの汁もので麦飯をかっこんでいる。
「ね、ねえ五十槻……」
いつも元気な皐月が、妙に気づかわし気な様子で声をかけてくる。隣の奈月にしか聞こえないよう、声を潜めている。
「つ、つかぬことを聞くんだけれどね……今まで股の間から血が出たことって……ある?」
「ありません。それは一体どういった病気なのですか?」
「ア、ウン。モウイイモウイイ」
皐月はすごすごと引き下がっていく。奈月は五十槻の隣席でそっと目元に手巾を当てている。給仕をしていた女中のカヨさんが、胡乱な目で姉妹を眺めていた。
五十槻は普段通り、食後に主治医処方の薬をさらさら口内へ流し込み、湯冷ましで飲み込むと、「ごちそうさま」と手を合わせた。
「それでは行ってまいります」
朝食を終え、食器を下げて。五十槻は簡単に身支度を済ませると、玄関で履物を準備する。服装は神事兵支給の詰襟の白いシャツの上に地味な色の着物を重ね、やはり目立たない色合いの馬乗袴を合わせている。非番の日に、手続き等で街に出る際はいつもこの服装だ。もちろん男物の装いである。
草鞋に足を突っ込もうとしたところで、五十槻は首根っこを掴まれて、後ろへぐいっと引っ張られた。
「ちょっと五十槻! なんて格好で外に出ようとしてるの!」
「非番の日はいつもこの服装ですが」
「お待ちなさい五十槻。あなたはこの家にいる間は女の子なのですよ」
やはりあれこれと世話を焼いてくるのは、皐月と奈月である。そのまま五十槻は玄関から連行され、姉たちの手によりあーだこーだとされるがままとなり。
「できたわ!」
「会心の出来ね」
そして美少年から美少女への大変身である。今日もあてがわれた仮髪はいつも以上に丁寧に整えられ、可愛らしく結ってある。八朔を象徴する色である紫を基調にした銘仙に、五十槻は初めて締めるお太鼓の帯。
「お腹が苦しいです」
「我慢なさい! 女子一同そうなんですからね!」
素直な感想は見事に却下された。姿見に映し出される楚々とした出で立ちの華族令嬢を見て、五十槻は率直に「誰だこれは」と思った。それにしても、姉上がたも和緒さんも、普段から女性というのはこういう窮屈な装いなのかと、五十槻は内心で舌を巻く。そして今日一日この姿だと思うと、ちょっとだけ気が滅入った。
「本当は振袖を着せてあげたいんだけど、それはまた今度ね」
「行ってらっしゃい、五十槻!」
どうやら屋敷にいる間は、姉たちの着せ替え人形にされそうである。五十槻は姉たちへ着付けに対する感謝を述べ、八朔の屋敷を後にした。
定時報告は軍営では行わない。潜入の期間、なるべく女学生として過ごし、極力軍部との接点を避けるようにと荒瀬中佐からのお達しである。禍隠はもちろん、櫻ヶ原女学院に通う生徒に見つかれば厄介だからだ。最近路面電車の路線が拡張されたため、休日に皇都中に繰り出す女学生は多い。どこで誰が見ているか、分からない。
今回は午南区広瀬町の純喫茶『一二三珈琲』が指定の場所である。店の前で藤堂中尉、甲伍長と落ち合う予定だ。
乗合馬車を捕まえていたのでは時間に間に合わないので、五十槻は路面電車の停留所を目指している。
皇都内は現在、複雑かつ混沌とした交通事情に悩まされていた。馬や馬車が行きかうだけでなく、最近普及が進みつつある自動車が段々と増え、路面電車も続々と敷衍が進んでいる。交通手段が増える一方、行政の対応は後手後手で、手旗信号の警官が立つのはまだ交通の要衝ばかり。多くの交差点は見過ごされているので、日々様々な場所で怒号が飛び交い、また事故も絶えなかった。
今も目の前の大通りでは、飛び出してきた老人へ、車の運転手が怒声を浴びせている。老人がそれをやり過ごし無事に通りを横切ったのを見届けて、五十槻は再び歩みを進めた。
五十槻はやっと女学生の服装に慣れてきたところだった。けれど、一般的な女子の装束はまた違う。袴がないので大股で歩くと裾が乱れそうで、自然歩幅は小さくなる。しかしこんなにちまちま歩いて電停に間に合うのかと思った五十槻は、一歩一歩を踏み出す速度を速めることにした。結果、ものすごい速さで早歩きをする華族令嬢の爆誕である。行きかう人々は、非常な美少女がとんでもない速度で上体をブレさせずすれ違っていくので、唖然として振り返るのだった。
乗換を二回挟んで、五十槻は広瀬町へ到着した。活気のある町である。石造りの洋風建築が多く立ち並び、常に人ごみでごった返している。一駅先の電停には百貨店があるらしく、そこから人が流れてくるのかもしれなかった。
目的地の一二三珈琲は、少し路地を行った先の、少し広めの喫茶店だった。店の前には旧知のふたりがすでにそろっている。しかし、何やら言い争っている様子でもある。
「甲、貴様というやつは! 学校から苦情が入ったぞ、なんだ大福院きな子とかいうのは! こンのばかたれ!」
「あだっ!」
甲伍長が藤堂中尉に拳骨を食らっている。軍営では見慣れた光景だったが、女学校での生活を経たせいでなんだか無性に懐かしい。そして大福院きな子はどうやら無許可営業だったようだ。
中尉も伍長も、今日は軍装を解いている。ふたりとも普段着らしい着流しに羽織だ。
「藤堂中尉、甲伍長。おはようございます」
「うわッ、誰!」
近付いて挙手礼を示すと、藤堂中尉は心底面食らった顔で後じさった。精一はキツネ顔をさらにニヤニヤさせて、値踏みするような視線を五十槻へ送っている。
「なんだ、八朔少尉か……どうしたその格好は」
「姉に着せられました」
藤堂中尉は少し渋い顔をする。神事兵連隊内では、五十槻は男性の扱いだ。事情を知っている中尉だけならばともかく、今日はアホの精一もいる。
「いつきちゃん女学校で女の子の格好に目覚めちゃった? あとで写真館行く? 記念写真撮る? 親衛隊に高値で売れるね!」
心配無用だった。そもそもこいつも好き好んで女装する大ばかたれである。中尉は「営内で商売をするな!」と二発目の拳骨を落とした。
五十槻はまだ挙手礼を保ったまま、じっとしている。上官の答礼がまだだからだ。それに気付いた藤堂中尉が、「礼をやめなさい」と呆れた声で指示する。五十槻は指示通り、さっと腕を下げた。
「いいか。今日は各々軍属であることは秘するように。したがって、いちいち上官への敬礼は不要。階級で呼ぶのもなしだ」
「うん分かった綜ちゃん!」
「お前は急に馴れ馴れしすぎるんだよ!」
「では、なんとお呼びすれば」
指示を仰ぐ五十槻へ、中尉は「そんなもん言われなくても分かるだろう」とでも言いたげな目線を送る。
「普通に俺のことは『藤堂さん』。で、こいつのことは『甲さん』でいいぞ、八朔少尉……」
言いかけて中尉は閉口する。そして困った様子で五十槻をじっと見下ろした。
「あー、少尉のことはなんと呼ぶか……いまはその姿だし、万が一櫻ヶ原の学友に見られることも考えたら、そうだなぁ」
少し考えた様子で、藤堂中尉はおそるおそる口にした。
「い、五十槻……?」
「はい」
「いや、すまん忘れてくれ。八朔さん、いや偽名の方の稲塚さんが最適か……」
「いえ、中……藤堂さん」
危うく階級で呼びそうになりながら、五十槻はまっすぐに中尉を見上げて言った。
「五十槻がいいです」
── ── ── ── ── ──
五十槻は初めて喫茶店というところに足を踏み入れた。薄暗い照明の店内には、小洒落た洋風の椅子やテーブルが所狭しと並べられている。嗅いだことのない香ばしい匂いが、ふわりと鼻孔をくすぐった。
中尉こと藤堂さんは、入店するなり給仕を捕まえて何事か話している。しばらくして給仕が「こちらへどうぞ」と、一行を店の奥の方へ案内した。通されたのは個室である。
「荒瀬中佐御用達の店なんだと。わざわざ出資して、密談用兼自分がくつろぐ用に個室をあつらえさせたらしい」
給仕がドアを閉めて出ていくのを見送ってから、藤堂はソファへどかっと座りつつ言った。個室の中に用意されていたのは、四人掛けのテーブル席だ。五十槻と精一も下座側の席へ腰かける。
広めの窓からは賑やかな大通りの風景がよく見えた。荒瀬中佐も、この風景が気に入ってここに個室を作ったのかもしれない。
「それじゃあさっそく報告を──」
「店員さーん! 珈琲くださーい! 三人分ねー!」
「おい甲。遊びに来たんじゃないんだぞ」
「えっ、違うの!? でもさ、せっかく場所借りてるんだしお金落とさなきゃだめでしょ! ねえねえ店員さん早くぅ!」
アホの精一の突然の注文に、藤堂は頭を抱えている。果たして、しばらくして三人分の珈琲が運ばれてきた。
コーヒーカップにたゆたう黒い液体。店の入り口で嗅いだ匂いの正体はこれだ。
五十槻が初めて見る珈琲へじっと視線を注ぐ中、藤堂の仕切りで定時報告が始まった。
「……なるほど、薬師寺昴ねぇ」
まず精一からの概況を聞いてから、藤堂は腕を組んでいる。薬師寺昴。これまでの被害者とひと通り接触しているという噂のある人物だ。五十槻からも清澄美千流と懇意であった報告を聞くと、藤堂は難しい顔をした。
「怪しいっちゃ怪しいが……まだ決定的な証拠に欠けるな。分かりやすく禍隠が尻尾でも出してくれれば助かるんだが」
言いながら、藤堂は懐から紙片を取り出した。広げてみると、以前荒瀬中佐に見せてもらった、被害女性の名簿だ。
「役に立つか分からんが、写しをもらってきた。捜査に役立ててくれ。一応部外秘の資料だからな、くれぐれも学校に持っていくんじゃないぞ。特に、少……い、五十槻は嘘を誤魔化すのが下手だからな」
まだ慣れない呼び名に苦戦しながらそう告げる藤堂へ、五十槻は「はい」と短く返した。確かに五十槻は嘘が苦手である。性別を偽る嘘以外は。
潜入三日時点での収穫は、昴の存在以外には何もない。その昴だって、同性好きが行き過ぎた、ただの好色の女子というだけかもしれない。
現状、五十槻は女学生の身分に慣れることに精一杯だ。精一のように、器用に人の輪に入って情報を仕入れることなどできやしない。まだまだ浅い軍歴の中で、少女はうっすらと無力感を覚えている。
「ごちそうさま! おかわり!」
精一は早々と珈琲を飲み干すと、個室の扉から顔を出して勝手に追加注文をしている。その無礼極まりないふるまいに、藤堂は苛立ちを露わにして口を開く。
「甲! 貴様それ以上は自腹だからな! それよりも!」
鷹のような鋭い目が、いつもより険しくキツネ顔を見据えている。
「さっきの続きだが、貴様の生活態度に関し、櫻ヶ原から苦情が届いている。先方は『高笑いがうるさい』と仰せだ、甲はこれ以降、潜入捜査の任を解く。田貫さんがなんと言おうと絶対にだ! いいな!」
「えー? 俺、クラスで結構人気なんだよ? 昨日も帰りがけお茶に誘われちゃってさー。ねーいつきちゃん」
「はい、ごく自然に溶け込んでおいでです」
「うそだろ……女学生ってのは全員目が節穴なのか?」
藤堂は呆れた様子で言うと、ふと、視線を五十槻へ向けた。
「それで、五十槻はちゃんと友達ができたのか? さっきの報告によると、春岡さんという子と懇意のようだが」
「いえ、春岡さんは友達ではなく弟子でした。とはいえ昨日破門されてしまいましたが……」
「どういうことなんだ……」
五十槻の返答に、藤堂中尉は頭を抱えている。おそらくは精一を任務から外し、五十槻のみの単独捜査を考えていたのだろう。そんな彼へ、五十槻は口を開く。
「藤堂さん。甲さんはこのまま大福院嬢を続けるべきだと思います」
「は!?」
予想外の提案に、藤堂は一瞬固まった。まさか五十槻が精一を擁護するとは思わなかっただろう。
「先刻の報告のように、甲さんは女装姿こそ奇怪ですが、学生の輪に混じり、様々な情報を得ることに長けているとお見受けします。自分には、甲さんのような働きはできない」
「い、いつきちゃん……! ほらほら聞いた綜ちゃん!? いつきちゃんは俺を必要としてくれてるよ!」
「くっ……」
苦悶の表情を浮かべる藤堂の目前では、精一が鼻高々にふんぞり返っている。「自分は甲さんには密偵の才能があると思う」と無垢な表情で称賛する五十槻に、「まあねー、うちのご先祖さま忍者だからさー」などと、精一は嘘か本当か分からないことを嘯く。藤堂はいかにも「お前のようなスカポンタンのクソニンジャがいてたまるか」という顔だ。
精一の注文した二杯目の珈琲が届き、キツネ顔は大満足の顔でおかわり分をすする。
「まったく……。まあ、しょ……じゃない五十槻の言うことにも一理ある。……のか? とりあえず俺には決定権がないから、田貫さんに一応伝えてはおく」
「タヌさんならたぶん俺、大福院ちゃん続行だわ」
「そうなる可能性が高いのが、うちの中隊の嫌なところだな」
げんなりした様子で、藤堂はやっとコーヒーカップに指を掛けた。彼が舶来の飲み物を口に含むのを見て、五十槻は自分のカップへ再び視線を落とす。少し冷めてしまったようだ。
「そういえば五十槻は食べられないものが多かったな。それは無理して飲まなくていいぞ」
「いえ、お出しくださったものは全ていただきます」
そう言って五十槻はぐびっと口に含んでみた。複雑な苦み、酸味、コクが口腔に広がって……。
「う……」
「ぶはっ! ね、大人の味でしょいつきちゃん!」
「ははは、お前のそんな顔は初めて見たな!」
一体自分はいまどんな顔をしているのだろう。確かにこの黒い液体はそこらの薬湯よりもずいぶん苦い。眉間に物凄く皺が寄っているのが、自分でも分かる。
けれど五十槻だって藤堂中尉のこんな顔は初めて見た。歯を見せて楽しそうに笑っている。軍営ではいつも鋭い眼差しをして、上官としての威厳を保っていたから、なんとなく拍子抜ける思いがした。でもこれは、幻滅という心の動きとも違う気がする。五十槻は盛大に眉根を寄せながら、珈琲を飲み切った。
「よしよし、五十槻は出されたものは全部食べるんだったな!」
「ええ、残してしまっては失礼にあたりますから」
「そうか、じゃあ……」
面白いものでも見つけた子どものように、藤堂は精一といっしょにメニュー表を覗き込んでいる。やがて注文するものが決まったようで、精一がまた給仕を呼びつけてごにょごにょと何事かを申し付けた。
そして運ばれてきた一品が。
「あんみつでございます」
「あんみつ……?」
五十槻はろくに甘味を食べたことがない。名前も知らない。目の前の深皿に盛られているのは、白い団子や賽の目に切った寒天。それにみかんと、丸く盛られたあんこが乗っかっている。かかっている黒いタレは、さっき飲んだ珈琲に少し似ている。
「やはり食べたことがないか。お前は食堂でいつも、麦飯のほかは鶏のささみやら魚しか食わんからなぁ」
じっ、と五十槻が真顔で未知の料理を見つめていると、「一口食べてみなさい」と藤堂が促してくる。五十槻は匙を取り、寒天をひとかけら、すくって口に含んだ。
「!」
思わず五十槻は、あんみつの皿をずいっとテーブルの向こうへ押しやった。あまり期待していた反応ではなかったらしく、藤堂が「口に合わなかったか?」と少し残念そうに尋ねる。
「……すごく甘いです」
「だろうな」
「こんなものを食べていては堕落してしまう」
「ぶっ」
五十槻の感想に、男二人は腹を抱えて笑い始めた。やっぱり今日の中尉はいつもと全然違う。反面、伍長はいたって平常運転である。
「いいか五十槻。これくらい、時々食べたって堕落ってことにはならないぞ」
言葉の端々に笑いの余韻を残しながら、藤堂は五十槻を諭す。あまりに未知の味と食感に、五十槻が「でも……」と珍しく物怖じするが。
「上官命令だ、正直に答えなさい。本当は二口目が食べたいんじゃないのか?」
意地悪ににやにやしながら質問する藤堂中尉も、知らない中尉だ。しかし上官命令ならば、嘘偽りなく答えなければならない。
「はい……」
「ははは、素直で結構! ほら、遠慮するな」
そう言って藤堂は、机の中央のあんみつの皿を五十槻の方へ押し戻した。ごくり、と少女の喉が鳴った。本当は主治医から、決められた食物以外は摂らぬよう言いつけられている。しかし、上官命令なので仕方がない。あくまで命令なので。
「み、みかんってこんなに甘かったんですか」
「うそぉ! みかんも食べたことないのぉいつきちゃん!」
「いままでどういう食生活だったんだ、お前は……」
いつもは早食いの五十槻が、このときばかりは十分以上かけて、じっくり料理を味わった。藤堂中尉はなぜかそれを得意げに見守っている。
五十槻があんみつを食べている最中、不意に精一が席を立った。藤堂が「どうした」と問えば、「お花を摘みに行ってまいりますわ」と大福院きな子の口調で返答し、精一はバタバタと部屋を出て行った。閉められた扉の奥から、「膀胱決壊五秒前であります!」と騒がしく去っていく声が聞こえてくる。徹頭徹尾アホの部下に、「あんなに珈琲をガブガブ飲むからだボケ」と藤堂は呆れ果てるしかない。
気付けば飲食をしているのは自分だけである。五十槻は慌てて咀嚼を速め、口の中のものを飲み下す。
「す、すみません。つい味わってしまって……すぐに食べ終えます」
「いい、いい。ゆっくり食え」
藤堂は柔らかい眼差しで、部下があんみつを食べる姿を見つめている。あんまり見られると、少し居心地が悪い。
「と、藤堂さん」
五十槻は匙で寒天を持ち上げながら呼びかけた。藤堂に関して、五十槻は以前に大変申し訳ない失態を犯している。
「そ、その後……中隊での職務に支障はないでしょうか」
「ああ、あの件か……」
一転、遠い目になりながら藤堂は答える。あの件とは、藤堂中尉が八朔少尉を押し倒し事件である。五十槻はあの翌日から潜入任務に就いたため、中隊の軍営に登庁しておらず、その後の顛末が不明であった。
「ま、まあ支障がないといえば、ないんだが……」
複雑そうな面持ちで中尉は続ける。
押し倒し事件の直後、五十槻が一時的にではあるが部隊を離れた。傍から見れば同性同士の痴情のもつれが原因で、立場の弱い方が異動されたように映るだろう。さらにとっさにとはいえ、乱痴気騒動の最中、藤堂中尉は「襲った」などと事実と違う自白をしてしまっている。騒動を知る者から白眼視されることは、確実であった。
そんな藤堂中尉の暗雲垂れ込める第一中隊生活を救ったのは、意外にも八朔少尉親衛隊の面々であった。彼らは隊内にかの一件について口さがなく触れ回る者あらば、地の果てまでも追いかけて忠告という名の私的制裁を加え、自主的に醜聞の根絶を図った。中尉と少尉の噂をするとどこからともなく偉丈夫が群れをなして現れて、運動場うさぎ跳び二十周を強要してくるので、いつの間にか噂をする者はいなくなったという。親衛隊の面々は中尉に対し、
「八朔少尉にご迷惑がかからないよう、率先して隊内の風紀を正しております!」
「全然中尉のためとかじゃないんだからねっ!」
と熱く涙ながらに語ったという。釈然とはしなかったが、正直助かるので藤堂は放置している。
そういった顛末をつらつら語り、藤堂中尉は落ち着いた口調で結ぶ。
「五十槻が気にすることは何もないよ。ま、そうだな。急に自決しようとするのだけは勘弁してくれ」
「はい……」
今となっては恥ずかしい話である。当時は今まで性別を偽っていた慙愧のあまり、突発的に死を決意してしまった。
本人に明確な自覚はないけれど、除隊を申し出ることと性別を偽っていたことは、それだけ五十槻にとって大きなことだった。特に、尊敬する藤堂中尉に嘘をつき続けることは。除隊願を出したあの時、自ら性別を明かさなければ話は除隊云々だけで済んだのに。五十槻は良心の呵責に耐えられなかったのだ。
「ほら、手が止まってるぞ。全部食べるんじゃなかったのか?」
「は、はい」
促されて、五十槻は再び匙を動かし始めた。傍から見れば一見、眉目秀麗な青年と、可愛らしい令嬢との逢引き現場である。精一はまだ帰って来ない。大であろうか。
「五十槻、もっと食べたかったら言いなさい。他にも美味そうなものがたくさんあるぞ」
「いえ……これ以上はさすがに」
「だから若者が遠慮するな。いいかー、若い奴は健康で美味い物をたくさん食って、幸せでなくちゃならないんだ」
目の前では、藤堂がメニューを開いてあれこれと五十槻に甘味を勧めている。軍営では絶対に聞けないあけすけな口調で、「さすがにアイスクリームは高いな」と楽しそうに話している。
うれしい、と五十槻は思った。今の装いは女性の衣装だが、なんだか藤堂中尉の弟になれた気がする。
五十槻は相変わらずの真顔の内側で、そんなことを思った。
やがて、まったく帰って来ない精一を心配して個室を出た二人は、やや年嵩の女性客にちょっかいをかけるアホを発見。藤堂がアホ伍長を一発しばき、謝罪と会計を済ませ三人は店を出た。
五十槻は自分が食べた分以上の金額を藤堂へ差し出したが、ついに受け取ってもらえなかった。一方で精一はきっかり二杯目分の珈琲代を請求されていた。
三名は会合を解散し、五十槻は翌日以降の捜査に備え、気持ちを新たにするのであった。
── ── ── ── ── ──
休校日。清澄美千流は家の使用人を連れ、午南区広瀬町へ来ていた。日々の鬱憤を晴らすべく、買い物に興じるためだ。
「もぉ、もっと早くついてきてくださいまし!」
「お嬢さま、そうは言っても荷物が多すぎます!」
「まったく、不甲斐ないわね」
百貨店で買い物を終え、美千流は広瀬町にある呉服屋を訪ねるつもりだった。喫茶店のある通りを、戦利品過積載の使用人を遥か後方へと引き離しつつ、令嬢は颯爽と歩いていく。
「ね、ね。美形な方でしょ?」
「ええ、素敵な殿方ねぇ……お連れさんは恋人かしら?」
ふと、そんな会話が聞こえてきたので、美千流は足を止めた。声のした方を見れば、喫茶店の窓の方を伺うように見つめている年頃の娘がふたり。
そのふたりの視線の先を見た美千流は、あわや店の窓ガラスに張り付きそうになった。喫茶店の窓際の席にいたのは。
(めッッちゃくちゃな美男だわっ!)
好奇心を抑えなんとかその場に留まりつつ、美千流は気付かれないよう遠目からしげしげと美男を見た。さらさらの黒い髪、通った鼻筋に、笑うとこぼれる白い歯。なにより印象的なのは、鷹のような力のある眼差し。
しかし、美男の対面の席には誰かいる。ここからの角度だと、その後頭部しか伺い知れない。ただ髪を可愛らしく結いあげているので、おそらくは女性だろう。立ち話をしている娘の言う通り、たぶん恋人だ。
(こんな美男子を射止めただなんて、一体どこの御令嬢かしら。顔を見てやらなきゃ)
嫉妬半分で美千流はこそこそ身を潜めつつ、立ち位置を変えて窓の内を盗み見た。
そして彼女は一瞬呼吸を忘れた。
(稲塚いつき──)
紫の上品な銘仙を着て、もくもくとあんみつを口に運んでいるのは、もはや美千流の怨敵となったクラスメイト、稲塚いつきである。
途端に美千流の胸へ、ふつふつと怒りがこみ上げる。いつきはいつも通りの無表情なのに、美男の方が楽しげに語り掛けている。それもなんだか無性に腹が立つ。
「ああ、お嬢さま! やっと追いついた……」
「帰るわよ」
「へ?」
大荷物を抱えてやっと主人に追いついた従者は、突然の予定変更にもちろん戸惑った。
「お、お嬢さま……反物を見に行くはずでは」
「気が変わったの! ほら帰るわよ! はい回れ右! 走って走って! こら休むなー!」
「ひいい! 勘弁してくださいよお!」
従者を急がせながら、美千流も足早にその場を去る。
ただでさえかの真顔女には学校でも煮え湯を飲まされているのに、どうしてこんなところで美男と茶をしばいているのか。
(ああもう腹が立ってしょうがないわ!)
美千流ご執心の白獅子の君に関しても、あれから色々伝手をたどって情報を集めているが、まったくと言っていいほど成果がない。その甲斐のなさも、美千流の怒りに拍車をかけた。
──あんなやつ大っ嫌い。絶対にあのすまし顔を泣き喚かせてやるんだから。