02
「ホタル!逃げろ!!!」
化物が咀嚼を一時中断し、口を開けたタイミングを見計らって海月は無理を承知で叫んだ。
逃げろ、と言ったって脚を失った身体を引き摺ってどうにか出来る訳がない。
それでも、普段から海月の命令を拒否しない蛍はその声を聴いて我を再び取り戻した表情を見せ
ボロボロの上半身を捩りながら、化け物の爪から逃れようと奮闘しはじめた。
髪を振り乱しながら息を上下させ、血塗れの右手にナイフを握ったままだったことを思い出した彼女はそれを化け物の爪に何度も刺した。
「ぐううあああああああああ!!!!!!」
余計に拘束する力を込められたのか、痛ましい蛍の苦痛の声が響く。対して、海月も自分を振り落とそうとする数本の化け物の足を避けながら傷口を裂くことに必死だった。
話が違う、と叫びだしたい衝動にかられたのは今日で何度目だろうか。
―――事前の報告書では、自分たちに依頼されたのは18年前に神隠しにあった少年の怨霊を鎮めてほしいと言う案件で、まさかこんな化け物が自分たちを待ち受けてるとは思っても見なかった。
同級生たちに虐められ、戦争時代の遺跡となった防空壕に閉じ込められた少年。
大人たちの必死の捜索に黙っていられなくなった虐めっ子の一人が3日後に自白し、大勢で当の防空壕へ駆け付けたが外からチェーンで掛けた鍵は閉じたまま、壁に石で「助けて」と山ほど書いた文字を残して忽然と姿を消してしまったという悲劇的な少年の事件。
30を迎える年齢になり、同級生たちが幸福に生きている事に対して恨みが爆発し、加害者たちに今更ながら被害が及んでいる―――と、記されていたのだ。
それが、こんな化け物だとは聞いていない。
海月は普段の彼には似つかわしくない必死の形相で腕に満身の力を込める。
杖は呪文による能力の開放で最大限の力を発揮していたが、それでも自分たちだけで歯が立たちそうにない事は歴然としていた。
蛍がダウンしたあたりで本部に応援を寄越すよう連絡したが、秘境と言っても過言ではないド田舎の山奥なせいか随分遅い……と海月は苛立った。
「この、野郎!!クソが!!」
これ以上やっても杖で傷を深めることは出来ないと判断した海月は諦めてその身体から杖を抜き、硬い毛が覆う化け物の胴体を滑るように降りると、後ろから蛍を捕らえる脚の一つへ回り込んで杖を振り下ろした。
化け物の爪はビクッと反射して一瞬開き、その隙を付いて海月は蛍の身体を急いで引き剥がした。
既に意識は失われているようで、だらりとした身体を背中に担いで走ろうとも、筋肉質のそれは石の様に微動だにせず、デカくて重い。
化け物の顔を覆う様にビッシリと付いている十数個の黒いドーム状の眼に見詰められ、もう終わりかと悟ったその刹那。
―――何者かが閃光のように空から飛んできて、海月が先ほど与えた化け物の傷口目掛けて回転しながら着地した。
突然の痛みに暴れる化け物の衝撃を軽いステップで耐えながら、その人物は足元の海月に叫びながら紐に繋がれた何かを投げ落とす。
「君!!これを受け取ってくれ!!!」
海月は一瞬戸惑ったが、上から伸びてきた物体を言われるがままキャッチした。
「メジャー…」
それは業務用の測定用巻き尺だった。
この仕事に就いて撮影役を主とする海月にも馴染みがある道具、しかしこの状況での使い道が思い浮かばない。
落ちてきたのは本体の方で、テープの先は伸びたまま、化け物の頭に乗る人物が先を手に持った状態だった。
「そのまま持っていてくれよ!!」
言うや否や、今やすっかり化け物の標的となり替わった彼女は、激しく蠢めく鋭い爪の嵐を翻弄するように、その黒い巨体の周囲を飛んだり走ったりしながらテープを次々伸ばしていく。海月は自分の腕に固定したメジャーの輪が激しい音を立てて小さくなっていくのを感じながら、抱きとめた蛍の表情を覗き込んだ。




