第5話 搬送
午後七時十二分。
大阪市内。
一台の黒いワゴン車が、夜の道路を走っていた。
後部座席。
若い男が横たわっている。
呼吸は浅い。
額には汗。
時折、指先が細かく震える。
「まだ意識戻りません」
助手席の男が振り返った。
運転席の男が舌打ちする。
「鬼塚さん、なんて?」
「病院送れって」
「救急車は?」
「使うなって」
「……面倒やな」
「しゃあないやろ」
信号が赤になる。
車が止まる。
後部座席の青年が突然、大きく身体を反らした。
「おい!」
男が身体を押さえる。
「痙攣してる!」
「もう着く!」
信号が青へ変わる。
ワゴン車が走り出した。
数分後。
大きな総合病院が見えてくる。
明るく照らされた救急入口。
車は病院から少し離れた場所で止まった。
「ここでええ」
「どうする?」
「電話だけ入れる」
男がスマートフォンを取り出す。
短く話す。
電話を切る。
「行くぞ」
二人で青年を車から降ろした。
病院へ続く歩道。
人目につく場所まで運ぶ。
青年を壁際へ座らせる。
「……悪いな」
男たちは車へ戻った。
数分後。
救急入口から看護師と警備員が走ってくる。
「大丈夫ですか!」
反応はない。
看護師が青年を見る。
「ストレッチャー!」
夜の病院へ。
一人の青年が運び込まれた。
◇
「血圧、八十六の五十二」
「SpO2、九十一です」
「ルート取って」
「はい」
救急処置室。
複数のスタッフが慌ただしく動いている。
青年の身体が再び震え始める。
「先生!」
カーテンが開いた。
白衣姿の男が入ってくる。
三十一歳。
身長は百八十センチほど。
細身だが、白衣の上からでも肩回りには意外と厚みがある。
黒髪は短く整えられ、前髪は軽く上げている。
そして。
顔には細い黒縁の丸眼鏡。
柔らかい印象を与える眼鏡とは対照的に、その奥の目は患者を見た瞬間に鋭くなった。
相馬拓海。
三十一歳。
この病院の副院長。
「状況は?」
看護師が答える。
「病院近くで倒れていたところを発見されました。身元はまだ確認中です」
相馬は青年の瞳孔を見る。
「搬送時から痙攣?」
「はい。発汗もかなり」
相馬が首筋へ触れる。
「体温」
「三十九・一」
「高いな」
「薬物でしょうか」
相馬は答えなかった。
青年の腕を見る。
目立った注射痕はない。
口腔内。
瞳孔。
呼吸。
心拍。
モニター。
一つずつ確認していく。
「採血。血液ガスも」
「はい」
「薬物スクリーニング急いで」
「分かりました」
青年が突然、目を開いた。
「……っ!」
身体が跳ねる。
「押さえて!」
スタッフが動く。
青年の口から意味のない声が漏れる。
「ぁ……あ……」
相馬が顔を近づける。
「聞こえる?」
青年の視線が定まらない。
「名前分かる?」
返事はない。
「何か飲んだ?」
「……」
「薬?」
青年の瞳が、一瞬だけ相馬を見る。
「……さむ……」
相馬の眉が動く。
「寒い?」
青年は激しく汗をかいている。
体温三十九度。
それなのに。
「……さむい……」
相馬が青年の腕を見る。
鳥肌。
「……」
看護師が聞く。
「先生?」
「保温はいらん」
「はい」
相馬はモニターを見る。
心拍数。
体温。
血圧。
症状。
どれも薬物中毒なら説明できる。
はずだった。
でも。
何かがおかしい。
「相馬先生」
検査担当が入ってくる。
「簡易スクリーニング、出ました」
相馬が結果を見る。
数秒。
「……これだけ?」
「はい」
「もう一回」
「え?」
「再検」
「分かりました」
看護師が相馬を見る。
「何か?」
相馬は青年を見る。
「薬物中毒やとは思う」
「思う?」
相馬は丸眼鏡の位置を指で直した。
「……こんな症状、見たことない」
◇
翌日。
午前九時十四分。
NEX。
会議室には六人がいた。
坂東。
豪。
美月。
伊集院。
水野。
そして。
三浦。
三浦の前には缶コーヒー。
まだほとんど手をつけていない。
坂東が聞く。
「もう一回確認するで」
「はい」
「B-24に入った」
「はい」
「現金があった」
「ありました」
「携帯が何台も」
「十台近くあったと思います」
伊集院がメモを取る。
「保冷ケースは?」
「ありました」
水野が聞く。
「何個くらい?」
「俺が見ただけでも四つか五つ」
「ラベルは?」
三浦が考える。
「医療法人って書いてたのは見えました」
坂東が聞く。
「病院名は?」
「全部は見えてないっす」
「一文字でもええ」
「んー……」
三浦が目を閉じる。
昨日の光景を思い出す。
白いケース。
側面のラベル。
男の身体で隠れた文字。
「……すんません。そこまでは」
「ええよ」
坂東はすぐに切り替えた。
伊集院がパソコンを開く。
「水野さん」
「うん」
「昨日の一覧出せます?」
「ちょっと待って」
水野が資料を探す。
「これ」
伊集院が受け取る。
ライオン運輸と取引のある医療法人。
十数件。
「三浦」
「はい」
伊集院が画面を向ける。
「見覚えある名前あります?」
「慎太郎、昨日ラベル全部見えてへん言うたやん」
豪が横から言う。
「記憶って、選択肢見たら出ることあるんですよ」
「へえ」
「真田さんにもそういう機能あったんですね」
「朝から喧嘩売ってる?」
水野が笑う。
「慎太郎くん、朝から元気やな」
「普通です」
三浦は画面を見る。
一つ。
二つ。
三つ。
名前を追う。
「……」
指が止まる。
「これ」
全員の視線が集まった。
坂東が聞く。
「どれ?」
三浦が一つの医療法人を指差す。
「これ……やった気がします」
「確実?」
「いや」
三浦は首を振る。
「そこまでは言えないっす。でも……見た感じこれが一番近い」
坂東が画面を見る。
医療法人の名称。
その下に、運営する病院。
坂東の目が止まった。
「……マジ?」
豪が画面を覗く。
「あ」
水野が二人を見る。
「知ってんの?」
豪が坂東を見る。
「ここって」
坂東が頷いた。
「拓海君のとこや」
◇
午前十一時四十分。
病院。
相馬拓海は病室の前に立っていた。
昨夜搬送された青年は眠っている。
一命は取り留めた。
ただ。
原因はまだ分からない。
「先生」
看護師が資料を渡す。
「再検査の結果です」
相馬は受け取る。
「ありがとう」
見る。
既知の違法薬物。
処方薬。
アルコール。
いくつか反応はある。
だが。
「……合わんな」
「何がですか?」
「症状」
相馬はカルテを見る。
高熱。
発汗。
悪寒。
痙攣。
意識障害。
心拍異常。
単純なオーバードーズとして見るには、妙な点が多い。
「最近、こういう患者おった?」
「薬物ですか?」
「いや」
相馬は青年を見る。
「薬物っぽいけど、説明つかんやつ」
看護師が少し考える。
「……何人かいた気がします」
相馬が顔を上げる。
「何人?」
「確認します」
「お願い」
看護師が去る。
相馬はもう一度、青年を見る。
「……何飲んだんや、お前」
答えはない。
◇
午後一時十二分。
副院長室。
ノック。
「どうぞ」
相馬はパソコンから顔を上げた。
ドアが開く。
最初に入ってきたのは豪。
「久しぶりっす」
相馬が一瞬止まる。
「……豪?」
「うっす」
その後ろ。
坂東が顔を出す。
「久しぶり」
相馬が丸眼鏡を少し下げる。
二人を見る。
「……なんやねん」
坂東が笑う。
「何が?」
「二人揃って病院来ると不安になるわ」
豪が笑う。
「健康診断ちゃいますよ」
「見たら分かる」
相馬が立ち上がる。
白衣のポケットに手を入れたまま坂東を見る。
「航」
「ん?」
「お前、ほんまに社長なったん?」
坂東が眉を寄せる。
「なったわ」
「似合わんな」
「久しぶりに会って一発目それ?」
「昔、人に絡まれてた奴がなあ」
「何年前の話してんねん」
豪が笑う。
「拓海さん、それまだ言うんすか」
「一生言う」
坂東が椅子に座る。
「拓海君も副院長似合ってないで」
「なんで?」
「丸眼鏡が腹立つ」
「ただの悪口やん」
三人の間に少しだけ笑いが生まれる。
久しぶりだった。
それでも。
距離はすぐに昔へ戻った。
相馬が向かいへ座る。
「で?」
表情が変わる。
「遊びに来たんちゃうやろ」
坂東も笑うのをやめた。
「ちょっと聞きたいことあって」
「何?」
「ライオン運輸って知ってる?」
相馬の反応は薄い。
「名前は」
「取引ある?」
「物流?」
「多分」
相馬は少し考える。
「うちくらいの規模なら業者いっぱい入ってるからな。全部は知らん」
「薬品関係は?」
相馬の目が動いた。
「なんで?」
坂東は昨日の出来事を話した。
NEXの社員がライオン運輸へ派遣されたこと。
夜勤。
通常管理されていない区画。
医療用の保冷ケース。
大量の現金。
複数の携帯電話。
そして。
倒れていた若い男。
相馬は途中から一度も口を挟まなかった。
坂東が話し終える。
沈黙。
相馬が聞いた。
「その倒れてた奴、どんな状態?」
「俺は見てない」
「見た社員は?」
「陽平」
「症状分かる?」
「身体震えてたって」
相馬の目が止まった。
「意識は?」
「なかったと思うって」
「汗は?」
坂東が眉を寄せる。
「そこまで聞いてへん」
相馬は椅子にもたれた。
「……昨日な」
「うん」
「似た奴が運ばれてきた」
坂東と豪の表情が変わる。
「どこから?」
「病院の近く。倒れてたらしい」
豪が聞く。
「同じ奴?」
「分からん」
坂東がスマートフォンを取り出す。
「陽平に聞く」
相馬が止める。
「待て」
「何?」
「患者の情報は出されへん」
「顔だけでも」
「無理」
「拓海君」
「航」
相馬の声が少し低くなる。
「そこは分けろ」
坂東は数秒、相馬を見る。
そしてスマートフォンを置いた。
「……分かった」
「ただ」
相馬が続ける。
「俺も気になってる」
「何が?」
「症状や」
相馬は丸眼鏡を外した。
レンズを白衣の裾で軽く拭く。
「薬物中毒っぽい。でも、俺が今まで見たどれとも少し違う」
豪が聞く。
「新しい薬?」
「可能性はある」
相馬は眼鏡を掛け直す。
「でもまだ分からん」
坂東が相馬を見る。
「調べれる?」
「患者のことは調べる。それが仕事や」
「薬品の流れは?」
相馬が少し黙る。
「……なんでそこまで?」
坂東は答える。
「ライオン運輸の医療系取引が妙に多い」
「誰が調べた?」
「うちの慎太郎」
豪が横から言う。
「口悪い奴」
「余計な説明すんな」
相馬が少し笑った。
「優秀なん?」
坂東が即答する。
「めちゃくちゃ」
「珍しく社員褒めるやん」
「俺、普通に褒めるで?」
豪が横から首を振る。
「褒めへん」
「黙っとけ」
相馬が小さく笑う。
ただ。
すぐに表情を戻した。
「分かった」
「見てくれる?」
「一応な」
坂東が立ち上がる。
「助かる」
豪も立つ。
相馬が坂東を見る。
「航」
「ん?」
「お前」
少し間。
「変なこと首突っ込んでへんやろな」
坂東が笑う。
「俺が?」
「お前が」
「まさか」
相馬はじっと坂東を見る。
「……その顔してる時、大体嘘やねん」
豪が吹き出した。
「拓海さん、分かってるわ」
「豪」
「はい」
「こいつ止めとけよ」
豪が坂東を見る。
「無理っす」
「即答すんな」
相馬がため息をつく。
「ほんま変わってへんな」
坂東がドアを開ける。
「拓海君もな」
「俺は出世した」
「それ自分で言う?」
「お前にだけは言われたない」
坂東が笑う。
「また連絡する」
「おう」
ドアが閉まった。
相馬はしばらく、その扉を見ていた。
◇
午後一時二十九分。
病院の廊下。
豪が坂東を見る。
「久しぶりやったな」
「せやな」
「拓海さん全然変わってへんな」
「眼鏡丸なってた」
「そこ?」
坂東は歩きながらスマートフォンを見る。
伊集院からメッセージ。
医療法人とライオン運輸の追加資料。
坂東が立ち止まる。
「豪」
「ん?」
「慎太郎らにもうちょい掘らせる」
「病院?」
「両方」
「拓海さんに任せへんの?」
坂東は振り返る。
副院長室のある方向を見る。
「任せるよ」
そして。
「でも、拓海君が知らんところで何か起きてるなら」
スマートフォンをポケットへ入れる。
「病院の中だけ見ても分からんかもしれん」
豪が頷いた。
二人はエレベーターへ向かった。
◇
午後十一時二十一分。
病院。
ほとんどの外来照明が消えていた。
副院長室。
相馬は一人。
白衣は椅子の背に掛けている。
濃紺のスクラブ。
丸眼鏡。
机には缶コーヒー。
「……航のせいや」
帰る予定だった。
だが。
昼間の話が頭から離れなかった。
医療用の保冷ケース。
ライオン運輸。
相馬は院内システムを開いた。
薬品在庫。
「……」
仕入れ。
使用量。
廃棄。
在庫。
数字を追う。
最初の数品。
問題なし。
次。
問題なし。
さらに次。
「……ん?」
相馬の手が止まった。
ある薬品。
仕入量。
使用量。
現在庫。
数字上は合っている。
ただ。
「こんな使ったか?」
診療科別の使用記録を開く。
確認。
「……」
別の薬品。
同じ。
さらに別。
相馬が椅子を前へ寄せる。
「なんやこれ」
数字そのものは合っている。
帳簿上は。
だが。
現場の感覚と合わない。
相馬は医者だ。
毎日患者を診る。
どの診療科で、どの薬品を、どれくらい使うか。
経理ほど正確な数字は知らない。
でも。
これは多い。
相馬は仕入先を開いた。
さらに配送記録。
複数の会社。
その中。
見覚えのある名前。
相馬の指が止まった。
ライオン運輸株式会社。
「……航」
相馬の表情が変わる。
配送先。
病院本館。
薬品管理室。
各診療科。
そして。
一部の薬品だけ。
院内移動記録がある。
相馬は開く。
移動先。
旧病棟・研究管理区画。
「……旧病棟?」
相馬は画面を見る。
この病院には、現在使用している新病棟とは別に。
敷地の奥に古い建物が残っている。
十年以上前まで使われていた旧病棟。
老朽化。
設備更新。
新病棟への機能移転。
現在は一部を資料保管庫として使用しているだけ。
少なくとも。
相馬はそう認識していた。
「研究管理区画……?」
聞いたことがない。
履歴を見る。
一か月前。
二か月前。
三か月前。
定期的に薬品が移動している。
量も少なくない。
相馬は眼鏡を外した。
目頭を押さえる。
もう一度掛ける。
見間違いではない。
「誰が承認してんねん」
承認者欄を開こうとする。
その時。
プルルルル。
副院長室の電話が鳴った。
相馬の手が止まった。
時計。
午後十一時四十八分。
「……誰やねん」
受話器を取る。
「はい、相馬です」
数秒。
『――まだ病院にいたのか』
相馬の表情が変わる。
聞き慣れた声。
「院長?」
『遅いな』
「ちょっと調べ物してまして」
『そうか』
相馬はパソコンを見る。
旧病棟・研究管理区画。
「院長は?」
一瞬。
沈黙。
『……私もだ』
「え?」
『あまり遅くなるなよ』
「はい」
電話が切れた。
ツー。
ツー。
ツー。
相馬は受話器を置いた。
「……」
何かがおかしい。
相馬は立ち上がった。
窓へ向かう。
カーテンを少し開ける。
病院の敷地。
駐車場。
新病棟。
そして、その奥。
暗闇の中に。
古い建物がある。
旧病棟。
ほとんどの窓は真っ暗。
人がいるはずはない。
相馬は目を細める。
「……」
最上階。
端から三つ目。
一室だけ。
明かりがついていた。
相馬はしばらく、その光を見ていた。
机の上。
パソコン画面には。
旧病棟・研究管理区画。
窓の向こうには。
誰も使っていないはずの病棟。
そして。
相馬の頭には、昨夜の青年の言葉が残っていた。
――さむい。
三十九度を超える高熱。
大量の発汗。
それなのに。
寒い。
「……何してんねん」
相馬拓海は。
まだ知らない。
旧病棟の中にあるものが。
ライオン運輸だけでは終わらないことを。
そして。
昨夜運ばれてきた青年の症状が。
単なる薬物中毒ではない可能性を。




