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BAND  作者: こう
BAND

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2/15

第2話 坂東と豪

午前十時十三分。


株式会社NEXの応接室で、一人の青年が俯いていた。


年齢は十八歳。


黒いスーツはまだ身体に馴染んでおらず、ネクタイも少し曲がっている。


テーブルの上には、一枚の履歴書。


その向かいには三浦陽平が座っていた。


「そんな緊張せんで大丈夫やで」


「……はい」


「面接ちゃうから」


「はい」


「いや、だから」


三浦は困ったように笑った。


青年の返事は、さっきから全部「はい」だった。


今日、彼がNEXに来た目的は就職相談。


高校を卒業したばかりで、正社員経験はない。


アルバイトも短期間だけ。


資格も、特別な経験もない。


履歴書だけを見れば、決して目を引く人材ではなかった。


三浦は履歴書をもう一度見る。


その住所欄の下。


現在の生活状況として書かれている一文。


――児童養護施設を退所し、自立援助ホームに入居。


「やりたい仕事とかある?」


「……分からないです」


青年が小さく答えた。


「そっか」


「すみません」


「なんで謝るん?」


青年が顔を上げる。


「いや……」


「十八でやりたいこと全部決まってる奴の方が珍しいやろ」


三浦は椅子にもたれた。


「俺なんか二十六やけど、毎週やりたいこと変わってるで」


「三浦さんは変わりすぎです」


横から声がした。


三浦が振り返る。


応接室の入口に白石美月が立っている。


「美月ちゃん、聞いてたん?」


「通りかかっただけです」


「今の絶対悪口やろ」


「事実です」


「事実が一番傷つくんやで?」


美月は青年を見ると、表情を少し柔らかくした。


「お茶、大丈夫ですか?」


「あ、はい」


青年が慌ててカップに手を伸ばす。


そして、美月も同じタイミングでポットへ手を伸ばした。


「あっ」


「あっ」


二人の手がぶつかる。


美月がポットを落としかける。


三浦が反射的に掴んだ。


「危なっ!」


三人が止まる。


美月が何事もなかったかのように眼鏡を直した。


「……失礼しました」


三浦がポットを置く。


「美月ちゃん、人に緊張せんでええって言える立場ちゃうやろ」


「私は緊張していません」


「今ポット落としかけたやん」


「手がぶつかっただけです」


「それをドジって言うねん」


「三浦さん」


「はい」


「仕事してください」


「はい」


青年が小さく笑った。


その笑いを見て、三浦も少し安心した。


「そう、それくらいでええねん」


「……はい」


「また『はい』や」


今度は青年も少し笑った。


そこへ、応接室のガラス越しに黒いスーツの男が通りかかった。


坂東航。


美月が気づく。


「社長」


坂東が足を止めた。


「ん?」


「少しよろしいですか?」


坂東は応接室の中を見る。


青年と目が合った。


「相談?」


三浦が頷く。


「就職相談です」


「ふーん」


坂東はそのまま通り過ぎようとした。


だが、一歩進んだところで止まった。


「三浦」


「はい?」


「履歴書見せて」


「いいっすよ」


坂東が部屋へ入る。


三浦から履歴書を受け取った。


ざっと目を通す。


学歴。


職歴。


資格。


そして、児童養護施設という文字。


坂東の目が一瞬だけ止まった。


「名前は?」


青年が名乗った。


坂東は向かいの空いている椅子に座る。


「何したい?」


「……分からないです」


「そっか」


坂東の返事はあっさりしていた。


青年が戸惑う。


「それじゃ……ダメですよね」


「なんで?」


「仕事探しに来てるのに」


「別に」


坂東は履歴書を机に置いた。


「何したいか分からんかったら、何が向いてるか探したらええやん」


「でも……」


「十八やろ?」


「はい」


「時間あるやん」


青年は黙る。


「最初から正解選ばんでええよ」


「……失敗しても?」


「するやろ」


坂東は即答した。


「俺もするし」


三浦が横から口を挟む。


「社長はもうちょい反省してくださいね」


「黙っとけ」


「はい」


坂東は青年を見る。


「仕事なんて、入ってみな分からんことの方が多い。合わんかったら、何が合わんかったか考えたらええ。それで次選んだらいい」


「辞めても……いいんですか?」


坂東は少し考えた。


「逃げ癖つくのは良くないと思う」


青年の顔が曇る。


「でも、壊れるまで続ける必要もない」


青年が顔を上げる。


「自分に合わん場所におって、自分は何もできへん人間やって思い込む方がもったいない」


坂東は履歴書を三浦へ返した。


「陽平」


「はい」


「何個か見せたって」


「了解っす」


坂東が席を立つ。


青年が慌てて頭を下げた。


「あ、ありがとうございました!」


坂東は振り返った。


「別に何もしてへんで」


「でも……」


「仕事決まってから言うて」


それだけ言うと、坂東は応接室を出た。


美月もその後を追う。


三浦は青年を見て、ニヤッと笑った。


「まあ、あんな感じの社長や」


「……変わってますね」


「せやろ?」


「聞こえてるで」


廊下から坂東の声が飛んできた。


三浦が笑った。


「地獄耳やねん」


「それも聞こえてる」


「怖っ」


青年が、今度は声を出して笑った。



面談を終えた青年を、三浦はエレベーターまで見送った。


「また連絡するわ」


「はい。よろしくお願いします」


「そんな固くならんでええって」


青年が頭を下げる。


エレベーターの扉が閉まった。


三浦は青年の履歴書を片手に、オフィスへ戻る。


「さて……どこ紹介しよかな」


書類を見ながら歩いていると、向こうから大きな男がやってきた。


片手にはプロテインシェイカー。


もう片方にはコンビニ袋。


真田豪。


「お、陽平」


「お疲れっす」


「さっき面談?」


「そうっす。十八歳。仕事探してて」


「若いな」


豪が何気なく、三浦の持っている履歴書へ目を落とした。


一番上にクリップで留められた書類。


そこに書かれた一文が、目に入る。


――児童養護施設を退所。


豪の表情が、ほんの少しだけ変わった。


「……施設?」


三浦が手元を見る。


「ああ、そうみたいっすね」


少し前を歩いていた坂東が足を止めた。


振り返る。


豪と坂東の目が合った。


ほんの一瞬。


二人の間だけ、空気が変わった。


美月が首を傾げる。


「どうかしました?」


「いや」


坂東が答えた。


豪もすぐに、いつもの表情へ戻った。


「なんもない」


三浦から離れ、豪は坂東の隣まで歩いてくる。


「坂東」


「ん?」


「昼、外行こや」


「なんで?」


「ええから」


「嫌や」


「行くぞ」


「聞けや」


豪がニヤッと笑った。


「俺が決めた」


坂東の表情が一瞬止まる。


「……お前な」


「十二時な」


豪はそのまま歩いていった。


美月がその背中を見る。


「真田さんって、いつもああなんですか?」


坂東は小さく息を吐いた。


「昔から」


「昔から?」


坂東は、三浦が持っている履歴書へもう一度目を向けた。


児童養護施設。


その文字を見ているうちに。


遠い昔の風景が、頭の中に浮かんだ。



十八年前。


夏。


蝉の声がうるさい午後だった。


八歳の坂東航は、窓際の椅子に座って本を読んでいた。


児童養護施設の二階。


古い建物だった。


廊下を走れば床が少し軋む。


食堂からは昼食の片付けをする音が聞こえる。


庭では数人の子供たちがボールを蹴っていた。


坂東はそこにはいない。


一人でいることの方が多かった。


施設に来て二年。


別に誰とも喋らないわけではない。


必要なら喋る。


遊びに誘われれば、たまには参加する。


ただ、自分から誰かの輪に入ることはほとんどなかった。


ページをめくる。


その時。


一階から大きな声が聞こえた。


「でっか!」


坂東は本から顔を上げる。


誰かの声。


聞いたことがない。


「ここ全部家なん!?」


職員の声が続く。


「豪くん、少し静かにしようか」


「はーい!」


返事だけは良かった。


数秒後。


バタバタバタバタ――。


階段を駆け上がる音。


「走らない!」


「はーい!」


また返事だけ。


坂東は本へ視線を戻した。


興味はなかった。


新しい子供が来ること自体、珍しいことではない。


しばらくすると、職員が部屋へ入ってきた。


その後ろに、一人の男の子。


七歳。


まだ小さいはずなのに、同年代の子より少し身体が大きい。


短い髪。


日に焼けた肌。


そして、妙に明るい顔。


「航くん」


職員が呼ぶ。


坂東は顔だけ上げる。


「今日から一緒に暮らす豪くん」


「真田豪!」


男の子が自分から名乗った。


坂東は見た。


豪も見る。


「……坂東航」


「坂東!」


いきなり名字で呼ばれた。


坂東の眉が動く。


「なんで名字?」


「呼びやすいから!」


「航の方が短いやろ」


豪が考える。


「……ほんまや!」


坂東は本へ戻った。


会話終了。


――のはずだった。


「何読んでんの?」


豪が隣に座った。


「本」


「見たら分かる!」


「ほな聞くなよ」


「何の本?」


「歴史」


「おもろい?」


「おもろい」


「俺も見る!」


豪が横から覗き込む。


「近い」


「ここ何?」


「漢字読めんの?」


「読めへん!」


「ほな無理やん」


「教えて」


「嫌や」


「なんで?」


「面倒やから」


「教えてや!」


坂東は本を閉じた。


立ち上がる。


別の場所へ行こうとする。


豪がついてくる。


「どこ行くん?」


「別のとこ」


「俺も行く!」


「来んな」


「なんで?」


「うるさいから」


「俺静かやで!」


「今もうるさい」


「ほんまや!」


豪は笑った。


坂東は理解できなかった。


何がそんなに面白いのか。


廊下を進む。


豪も来る。


階段を下りる。


豪も来る。


庭へ出る。


豪も来る。


坂東はついに振り返った。


「なんなん?」


「何が?」


「なんでついてくんの?」


「暇やから」


「他の奴と遊べば?」


豪が庭を見る。


数人の子供がサッカーをしている。


「坂東は?」


「俺はええ」


「サッカー嫌い?」


「別に」


「じゃあやろ!」


「嫌や」


「ほな野球!」


「もっと嫌や」


「鬼ごっこ!」


「嫌」


「かくれんぼ!」


「嫌」


豪が腕を組んだ。


「何が好きなん?」


「本」


「外で?」


「読まん」


「ほな何するん?」


坂東は少し考えた。


「何もせん」


「つまらんやん!」


「お前に関係ないやろ」


坂東はまた歩き出した。


豪はその背中を見る。


そして。


「じゃあ俺も何もせん!」


坂東が振り返る。


豪はその場に座った。


「……何してんの?」


「何もしてへん」


「俺ここおらんで」


「じゃあついていく!」


「ほんま何なん、お前」


豪は笑っている。


坂東はため息をついた。


その日から。


真田豪は、なぜか坂東の後ろをついて回るようになった。



数週間後。


学校からの帰り道。


坂東は一人で歩いていた。


豪は職員と買い物へ行っていて、今日は一緒ではない。


住宅街の細い道。


後ろから声がした。


「おい」


坂東は振り返る。


同じ学校の上級生が三人。


以前、少し揉めた相手だった。


「何?」


「お前、この前先生に言ったやろ」


「何を?」


「俺らが窓割ったこと」


坂東は覚えていた。


放課後。


校舎裏でふざけていた上級生が窓ガラスを割った。


先生に聞かれたから、そのまま答えただけだ。


「聞かれたから」


「チクんなや」


「自分らが割ったんやろ」


上級生の一人が坂東の肩を押した。


「生意気やな」


坂東が一歩下がる。


怖くないわけではない。


相手は年上。


三人。


勝てるとは思わない。


それでも坂東は目を逸らさなかった。


「事実言っただけやん」


「殴られたいん?」


「別に」


その瞬間。


胸ぐらを掴まれた。


「何やその態度」


坂東は相手の腕を掴む。


振りほどこうとする。


だが力では勝てない。


もう一人が近づく。


「ちょっと泣かしたろか」


その時だった。


「坂東ォォォ!」


遠くから、とんでもなく大きな声が飛んできた。


全員が振り返る。


道の向こうから小学生が走ってくる。


真田豪。


なぜか職員の買い物袋を片手に持ったまま。


「何してんねん!」


豪はそのまま突っ込んできた。


「豪?」


「離せ!」


上級生が呆れる。


「なんやお前」


「坂東の友達!」


「は?」


豪が上級生の腕を掴む。


「離せや!」


「ガキが――」


次の瞬間。


豪が思い切り相手へ体当たりした。


二人まとめて地面に転がる。


「痛っ!」


「坂東! 逃げるぞ!」


「お前が来たんやろ!」


「ええから!」


坂東は一瞬迷った。


そして豪の手を取った。


二人で走る。


後ろから怒鳴り声。


豪は笑っていた。


「走れ坂東!」


「お前買い物袋!」


「知らん!」


「捨てんなよ!」


「坂東持って!」


「嫌や!」


二人は全力で走った。


しばらくして。


公園まで逃げたところで、二人同時に地面へ座り込んだ。


豪は息を切らしながら笑っている。


坂東はその横で呼吸を整えた。


「……アホちゃう」


「助けたったのに!」


「三人おったやん」


「おったな!」


「勝てると思ったん?」


「思ってない!」


坂東が豪を見る。


「ほななんで来たん?」


豪は少しだけ不思議そうな顔をした。


「友達やから」


坂東は眉を寄せる。


「俺、お前と友達なる言うてへんけど」


「ええねん!」


「何が?」


豪は笑った。


「俺が決めた!」


坂東はしばらく豪を見る。


「……意味分からん」


「坂東!」


「何?」


「腹減った!」


「知らん」


「買い物のパン食お!」


「それ施設のやろ」


「あ」


豪が買い物袋を見る。


中で食パンが潰れていた。


二人は無言になる。


「……怒られるな」


坂東が言った。


「坂東、一緒に謝って」


「なんで俺も?」


「友達やろ!」


「お前が決めただけやろ」


「ほな友達やん!」


「意味分からん」


そう言いながら。


坂東は少しだけ笑った。



「坂東」


目の前で豪が手を振っていた。


坂東は瞬きをする。


淀屋橋。


昼休み。


二人はNEX近くの定食屋にいた。


「何ぼーっとしてんねん」


「昔思い出してた」


「珍しいな」


豪が唐揚げを口へ運ぶ。


坂東は焼き魚定食の味噌汁を飲んだ。


「お前、昔からうるさかったなって」


「今さら?」


「施設来た初日からずっと喋ってたやろ」


「俺、愛想よかったからな」


「愛想と騒音は別や」


豪が笑う。


「お前は逆に愛想なさすぎやったわ」


「普通やろ」


「八歳でずっと本読んでる奴のどこが普通やねん」


「お前がおかしかっただけ」


「俺がおらんかったら友達ゼロやったぞ」


「別にいらんかった」


「嘘つけ」


「ほんま」


「じゃあ俺、友達やめよか?」


坂東は魚を食べながら答える。


「好きにしたら」


「冷た!」


「どうせやめへんやろ」


豪が止まる。


坂東は気にせず食事を続ける。


数秒後。


豪がニヤッとした。


「よう分かっとるやん」


「何年一緒におると思ってんねん」


二人は、それ以上何も言わなかった。


施設に入った理由も。


そこへ来るまで何があったのかも。


今さら話す必要はない。


少なくとも、今日の二人には。



食事を終えて店を出た。


淀屋橋の街を歩く。


豪が大きく伸びをする。


「そういやさ」


「ん?」


「会社作った時もこんなんやったよな」


坂東が笑う。


「あれはもっと酷かったやろ」


「何が?」


「お前」


「なんでやねん」


「誘ってへんのに入ってきたやん」


「結果オーライやろ」


「結果の話してへん」


豪が笑う。


その声を聞きながら。


坂東の記憶は、もう少しだけ近い過去へ戻っていった。



大学時代。


大阪市内のファミリーレストラン。


夜十一時を過ぎていた。


テーブルの上には空になった皿と、何度もおかわりされたドリンクバーのグラス。


豪は巨大なハンバーグを食べている。


坂東はノートに何かを書き続けていた。


向かいでは、一人の女がノートパソコンを触っている。


朝倉凪。


長い髪を適当に後ろでまとめ、パーカー姿。


画面には動画編集ソフトが開かれていた。


「豪ちゃん」


「ん?」


「食べる音うるさい」


「飯はうまそうに食うもんや」


「音量の話」


「凪、お前何してんの?」


「編集」


「また?」


「明日上げるから」


豪が画面を覗く。


「何の動画?」


「ゲーム」


「誰が見るん?」


凪の手が止まる。


ゆっくり豪を見る。


「豪ちゃん」


「何?」


「登録解除していいよ」


「そもそも登録してへん」


「最悪」


坂東がノートから顔を上げずに言った。


「俺してるで」


凪の表情が明るくなる。


「さすが航」


「動画は見てへんけど」


「解除して」


豪が爆笑した。


「お前ら仲悪いんか!」


「豪ちゃんよりは好き」


「比較対象俺!?」


坂東はノートに視線を戻した。


しばらく。


三人の間には、豪が食べる音と、凪がキーボードを叩く音だけが続いた。


そして。


坂東が突然ペンを置いた。


「俺、会社やるわ」


豪が顔を上げる。


「やろ!」


坂東が豪を見る。


「……ん?」


「やろ!」


「いや」


「何?」


「お前誘ってないけど」


豪がハンバーグを食べながら言う。


「やる!」


「いや、だから」


「俺もやる!」


「何する会社か知ってんの?」


豪が止まる。


「……何するん?」


凪が吹き出した。


「アハハハ! 何も知らないじゃん!」


「坂東が考えるやろ!」


「そこ人任せなん?」


「得意な奴がやった方がええやろ」


坂東はため息をつく。


「お前なぁ」


豪は笑う。


「ええねん」


「何がええねん」


「やる!」


「なんで?」


豪は即答した。


「俺が決めた」


坂東が黙った。


凪が豪を見る。


「それ昔から言ってるよね」


「便利やで」


「便利な言葉ちゃうぞ」


坂東が言う。


凪は画面を閉じた。


「で?」


「ん?」


「会社」


凪が坂東を見る。


「何するの?」


坂東はノートを凪の方へ向けた。


そこには走り書きでいくつかの単語。


人材。


教育。


企業支援。


採用。


派遣。


凪が読む。


「人関係?」


「うん」


「なんで?」


坂東は少し考えた。


豪も箸を止める。


「俺ら、人に恵まれたからちゃうかな」


凪が黙る。


坂東は続けた。


「自分一人でできることって、そんな多くないやろ」


豪が頷く。


「お前は特にな」


「お前に言うてへん」


「聞いてるやん」


「黙れ」


凪が笑う。


「それで人材会社?」


「まだ決めてへん」


「会社名は?」


「それもまだ」


「資本金」


「考え中」


「仕事」


「これから」


凪が真顔になる。


「何も決まってないじゃん」


「せやな」


豪が胸を張る。


「大丈夫や!」


凪が見る。


「なんで?」


「坂東がおる」


坂東が豪を見る。


「お前一番危機感持てよ」


「俺営業するわ!」


「何売るん?」


「……坂東?」


「俺売るな」


凪は腹を抱えて笑った。


「絶対潰れるって!」


「うるさい」


坂東も少し笑った。


豪が凪を見る。


「凪もやろや!」


「やらない」


即答。


「なんでや!」


「私はYouTubeやる」


「本気なん?」


「本気」


豪が腕を組む。


「食っていけへんやろ」


「豪ちゃんより稼ぐよ」


「言うたな!」


「言った」


「ほな勝負や!」


「何の?」


「年収!」


坂東が間に入る。


「勝手にやっとけ」


凪が坂東を見る。


「航は?」


「何が?」


「会社でどこまで行くの?」


坂東は少し考えた。


当時の坂東には、明確な数字も未来図もなかった。


ただ。


「でかくはしたい」


「どのくらい?」


「分からん」


「珍しく曖昧」


「でも」


坂東は豪を見る。


凪を見る。


「面白い奴いっぱいおったら、なんかできるやろ」


豪が笑った。


「雑やな!」


凪も笑う。


「豪ちゃんに言われてるよ」


「やばいな」


その夜。


会社名すら決まっていない。


仕事もない。


金もない。


事務所もない。


ただ三人でくだらない話をしながら。


株式会社NEXの原型だけが、確かに生まれていた。



現在。


NEXへ戻るエレベーターの中。


豪が壁にもたれている。


「そういや」


「ん?」


「凪、元気かな」


坂東がスマートフォンを見る。


「元気やろ」


「最近連絡取った?」


「いや」


「YouTubeまだやってんの?」


「知らん」


豪がスマートフォンを取り出す。


検索しようとして。


止める。


ポケットに戻す。


坂東が見る。


「見んの?」


「嫌や」


「なんで?」


「調子乗るから」


坂東が笑った。


「大学の時からそれ言うてるやん」


「ほんまに調子乗んねん、あいつ」


エレベーターの扉が開いた。


美月が目の前に立っていた。


「社長」


「びっくりした」


「何かやましいことでも?」


「ない」


「三浦さんがお呼びです」


「陽平?」


「例の派遣案件について、とのことです」


坂東と豪が顔を見合わせた。



三浦は自分のデスクで資料を広げていた。


「社長」


「どうした?」


「この前の新規案件、先方から返事来ました」


先日持ち込まれた、物流関連企業への派遣案件。


坂東が資料を見る。


「進める?」


「はい。契約周りも問題なさそうです」


「誰出すん?」


三浦が少し笑った。


「俺、行こうかなと思ってます」


豪が目を丸くする。


「陽平が?」


「最初だけですけどね」


坂東は三浦を見る。


「派遣する側やろ」


三浦がニヤッとする。


「社長が言ったじゃないですか」


「何を?」


「現場知るんも勉強やって」


坂東は思い出した。


「……あれ半分冗談やで」


「半分は本気だったでしょ」


「まあな」


「だから行ってきます」


「先方は?」


「むしろ歓迎するって」


坂東が少しだけ眉を寄せた。


「すんなり?」


「はい」


「ふーん」


豪が資料を見る。


「何か変なん?」


「いや」


坂東は資料を三浦へ返した。


「一応、何かあったらすぐ連絡して」


「心配性っすね」


「社員やからな」


「じゃあ危なかったら豪さん呼びます」


豪が胸を叩く。


「任せろ!」


坂東が豪を見る。


「何しに行く気や」


「助けに」


「何から?」


「知らん!」


三浦が笑う。


「じゃ、契約進めます」


「頼む」


三浦は資料をまとめた。


その右上には、紹介者の名前。


神谷直人。


坂東は一瞬だけそこを見る。


だが、何も言わなかった。



午後七時五十八分。


三浦はNEXの入るビルを出た。


「お疲れっしたー」


片手には鞄。


もう片方にはスマートフォン。


明日から始まる派遣先とのやり取りを確認する。


初回勤務日。


集合時間。


住所。


そして。


――初日は正面入口ではなく、東側搬入口よりお入りください。


「搬入口……」


三浦は首を傾げた。


だがすぐに納得する。


「物流会社やもんな」


画面を見ながら歩く。


淀屋橋の夜。


昼間ほどではないが、まだ多くの会社員が行き交っている。


三浦は角を曲がった。


その瞬間。


ドン。


「うわっ!」


肩に衝撃。


三浦の身体が後ろへ弾かれた。


スマートフォンを落としそうになり、慌てて掴む。


「す、すみません!」


壁にでもぶつかったのかと思った。


顔を上げる。


「…………でか」


男が立っていた。


三浦より、頭一つ以上高い。


百九十センチ近くあるだろうか。


それ以上に異様なのは身体の厚みだった。


太い首。


広すぎる肩。


黒いシャツの上からでも分かる胸板。


腕など、三浦の脚ほどあるように見える。


男が三浦を見下ろした。


「兄ちゃん」


低い声だった。


「はい?」


男の視線が、三浦の手元へ落ちる。


スマートフォン。


「歩きスマホ、危ないで」


「……すんません」


三浦は反射的に頭を下げた。


怒鳴られるかと思ったが、男はそれ以上何も言わない。


三浦の肩を、大きな手で軽く叩く。


「気ぃつけや」


「はい」


男はそのまま三浦の横を通り過ぎた。


三浦も歩き出そうとする。


その時。


背後から、もう一度低い声がした。


「……またな」


三浦の足が止まった。


振り返る。


「え?」


男は振り返らない。


片手を軽く上げただけ。


そのまま人混みの中へ歩いていく。


それでも一目で分かる。


周囲の人間より明らかに大きい背中。


「……またな?」


三浦は首を傾げた。


「知り合いやったっけ……」


考える。


見覚えはない。


「まあ、ええか」


三浦は再び駅へ向かった。


数歩進んでから、もう一度だけ振り返る。


男の姿は、もう見えなくなっていた。


三浦はぶつかった肩をさする。


そして、小さく呟いた。


「……豪さんよりデカいやん」


スマートフォンの画面には。


明日向かう派遣先の住所が、まだ表示されていた。


三浦は知らない。


今すれ違った男と。


明日。


もう一度、顔を合わせることになる。


そして。


ただの人材派遣だと思っていた一件の仕事が。


坂東たちの日常を、少しずつ別の場所へ連れて行こうとしていることを。

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