081⚫️密の味 猫をも殺す好奇心 とサンドイッチを運ぶ彼
他人の不倫というニュースが流れるたび、世間は奇妙な熱狂に包まれる。ある国では人気ゴルフ選手や政治家のスキャンダルが発覚した際、メディアが一斉にプライベートを暴き立て、国民的な大バッシングへと発展した。
我が国でもその構図は変わらず、テレビのワイドショーは連日その内幕を報じ、SNSには当事者を激しく糾弾する言葉が溢れかえる。しかし、一歩引いて冷静に眺めてみれば、不倫とはつまるところ「婚姻者間の契約違反」に過ぎない。法律的にも道徳的にも、それは当事者同士、あるいは家族という極めて私的な領域で解決されるべき問題である。怒りを示す権利があるのは、直接の被害者である配偶者だけであり、見ず知らずの第三者が首を突っ込んで憤る理屈はどこにもないはずだ。
それにもかかわらず、なぜこれほど多くの人々が、他人の私生活に「正義の鉄槌」を下そうと躍起になるのだろうか。
その背景には、人間が持つ歪んだ心理と、それを巧みに利用して巨大な富を生み出すメディアの商業主義がある。心理学には、ルールを破った者を罰することで快感を得る「利他的罰」という概念がある。自分自身は誘惑を断ち切り、社会のルールを順守して鬱屈とした日常を送っている。その一方で、華やかな世界にいる有名人が不誠実な行為に耽っていたと知った瞬間、大衆の心に強い不公平感が芽生える。そこへメディアが「叩いてもいい悪人」というお墨付きを与えることで、人々は「正義の味方」という免罪符を手に入れ、日頃のストレスを合法的に発散する。
この「他人の不幸や私生活のエンタメ化」をビジネスとして世界で最も洗練させ、過熱させたのが、とある国のタブロイド紙(大衆紙)の歴史である。それらは読者の好奇心を刺激し、高級紙の数倍から十倍近い驚異的な部数を売り上げてきた。有名人の決定的なプライベート写真に数千万円もの賞金が賭けられる狂気的な経済システムは、やがて「パパラッチ」という怪物を生み出す。
それらの執拗な追跡から逃れようとした、元皇太子妃が事故で非業の死を遂げるという悲劇が引き起こされた。大破した車を前に、救護よりも先にフラッシュを浴びせ続けたカメラマンたちの姿は、正義なき商業主義の残酷な証明そのものであった。
現代の過剰なバッシングもまた、情報を受け取る側の「疑似被害者意識」によって姿を変えて引き継がれている。メディアは視聴率やネットのアクセス数を稼ぐため、単なる男女のトラブルを「倫理的な大罪」へとドラマチックに仕立て上げる。視聴者はその巧妙に作られた物語に感情を乗せられ、いつの間にか自分自身が裏切られたかのような錯覚に陥っていく。そこに、過去に浮気をされた自身のトラウマや、クリーンなイメージを売る商品への消費者としての裏切り感が重なり、怒りは手がつけられないほどに増幅していく。
他人の私生活を覗き見たいという好奇心と、誰かを傷つけずに暴力を振るいたいという残酷な欲求。これらが「正義」という言葉で綺麗に包装されたとき、集団リンチという名のエンターテインメントが完成する。元皇太子妃を死に追いやった原因の一つは、パパラッチという個人の暴走ではなく、写真を買い叩いたメディアと、「もっと見たい」と欲望を膨らませて雑誌を買い続けた大衆だった。
どれほど大衆が怒りの声を挙げようとも、その怒りは当事者同士の関係を修復することもなければ、社会をより良くすることもない。画面の向こう側の見知らぬ誰かを裁くために費やされる凄まじいエネルギー。その本質が「他人の不幸を肴にした暇潰し」であることに気づかない限り、私たちは形を変えた「見せ物小屋」の観客であり続けるのだろう。
そして、このことは不倫という現象に対してだけには、留まらないのである。
携帯端末を閉じ、ふうっと息をついた。
アーカイブの過去の論説記事の余韻が、まだ頭の中に残っている。
いや、違うぞ!
ビリーは Misa と付き合ってたわけじゃないから、
これは別に浮気でも、三角関係でも、略奪愛でも、ましてや、不倫ではな〜い!
・・・何回も誘われたし、ちょっとだけ可哀想に思っただけよ。
青いボートの上。
ヤオはデッキチェアに寝そべり、
ジュースを飲みながらそんな言い訳を考えていた。
ビリーが笑顔でサンドイッチを運んでくる。
洋上の光は、眩しくふたりに降り注いでいた。




