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066⚫️巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すくな)し仁(じん)

ふ〜ん・・・。随分、古い資料よね。

こんなことを口述してたヒトがいたのね。

時代は変わったけれど、気をつけたい視点ではあるかな?

いや、考えなくっちゃ。自分の頭で。


ミサヨはデータを再読する。



テレビから流れる笑い声に、子ども心にはっきりとした拒絶感が混ざり合ったあの瞬間から、すべては繋がっていたのだと思う。


大喜利の席で、司会の男がひとりの女性を容赦ない言葉でなじり続けていた。容姿を貶め、化け物と呼び、スタジオは爆笑に包まれる。それがその場の「お約束」であり、高度な芸の掛け合いだったのだ、と当時の大人たちは美化して語る。しかし、幼い私の目に映ったのは、ただただ執拗にいじめ抜かれる人間の姿と、それに加担する空間の狂気だけだった。女性は途中で席を立ち、そのまま画面に戻ることはなかった。司会者が放った「えっ、帰っちゃったの?」という狼獗した声と、そのまま何事もなかったかのように幕を閉じた番組の、あの冷え冷えとした空気はいまも脳裏に焼き付いている。


大人はよく、子どもに向かって「いじめはいけない」と口にする。人に優しくしなさい、と諭す。しかし、その同じ大人が、夜には誰かが精神的に追い詰められ、恐怖し、パニックになる姿を映し出す画面を見て、ビールを片手に大笑いしている。圧倒的な権力を持つ者がターゲットを定め、周囲のひな壇がそれに同調して囃し立て、標的になった者は立場上逃げることも怒ることも許されない。そのいじめの基本構造を、日本で最も分かりやすいエンターテインメントに加工して垂れ流してきたのは、ほかならぬ大人たちだ。子は親の鏡である。大人のきれいな言葉ではなく、何を見て笑っているかという生々しい後ろ姿を驚くほど正確に見つめている。大人が自らの娯楽の残酷さに無自覚なまま、子どもにだけ道徳を強いる社会の欺瞞を、子どもは本能的に察知して不快感を抱く。そして子どもたちは真似るのだ。


この「笑い」という免罪符によるハラスメントは、形を変えて地続きで生き残った。通行人をゲリラ的に脅かしてパニック顔を収穫する企画、断れない立場の若手を精神的に追い詰めるドッキリ、大御所が仮装して現れ、拒否権のない若手に問答無用で水をぶっかけるオープニング。どれほど時代が変わろうとも、誰かの尊厳や安全を二の次にして、刺激的な映像さえ撮れればいいという作り手の歪んだ姿勢は変わらない。


かつて、ある駆け出しの芸人が背中に一万本の花火を背負わされて生死をさまよう大火傷を負った。それから三十年以上の時を経て、今度はタレントであるその妻が、ゴールデンタイムのクイズ番組で床を抜かれ、暗闇の穴へと真っ逆さまに落とされる罰ゲームの犠牲となり、背骨を折った。ウレタンが敷いてあったから安全だと考えた、とプロデューサーは釈明するが、人が驚き、痛がる姿を消費する残酷な発想が変わらない限り、悲劇はいつまでも繰り返された。


そしてこの「実態の不都合」を「言葉とイメージで取り繕う」という構造は、テレビという時代遅れの箱を飛び出し、この社会のシステムそのものを動かしている。

何度も深刻なシステム障害を連発し、人々の生活インフラを麻痺させたあの巨大金融企業は今、清潔感あふれる若手タレントを並べ、自らの「シンボル・カラー」をテーマにした爽やかなCMを大量に流している。高齢者を組織的に騙して不適切な契約を結ばせていたあの巨大保険組織も、かつて集団食中毒を起こし社名を書き換えたあの老舗食品メーカーも、不祥事のあとには必ず、寄り添いや誠実さをアピールする美しい広告でメディアを埋め尽くす。


中身を真摯に変える苦労よりも、見た目の印象をコントロールして世間の記憶を上書きするほうが手っ取り早いからだ。「言葉による取り繕い」を優先し、「忘れる世間」に甘え、口先だけで反省を述べる。そこには、態度や結果で改善を示そうという誠実さは微塵もない。


これらの組織や世間に共通するもう一つの醜悪な性質は、ひとたび問題が社会問題化すると、本質的な原因から目を背け、特定の誰かをスケープゴートに仕立て上げて幕引きを図ろうとすることだ。

たとえば学校で悲惨ないじめが起きたとき、世間の批判の矛先は、実際に暴力を振るった加害者や、その人間性を育てた保護者の責任よりも、管理責任を問いやすい学校や教育委員会ばかりへと集中する。もちろん学校の対応の不備は責められるべきだが、叩きやすい組織をスケープゴートにして社会全体が溜飲を下げ、怒りを消化している間に、いじめの真の張本人やその家庭の歪みという「問題の本質的根源」は追及を逃れ、うやむやにされていく。身代わりを差し出し世間の怒りを鎮め、すべてが終わったことにしようとする卑劣な態度。しかし、真の原因に目を背け、誰かを犠牲にすることで成り立つ平穏など、次の抑止力になるはずがない。それは真の解決ではなく、単なる第二の暴力、欺瞞の再生産に過ぎない。


この欺瞞の最たるものが、地球規模で行われている戦争や紛争だ。「自衛」や「防衛」、あるいは「人道的保護」という大義名分を掲げながら、他国へ戦車を走らせ、主権を蹂躙する。かつて超大国のひとつは大量破壊兵器の脅威を叫んで単独で戦争に突入し、世界を混沌に陥れた。今また、自国民を守るためという名目のもと、病院や難民キャンプを巻き込み、何万人もの子どもたちの命を空爆で奪い去っている者たちがいる。特定の勢力や民族を「諸悪の発生源」というスケープゴートに仕立て上げ、排除の論理を正当化する大国たち。言葉のメッキをどれほど厚く塗ろうとも、現実に他者を侵略し、命を奪っているという「暴力行為の実態」を隠すことはできない。


いじめを行う大人が「指導」と言い張り、大企業が「誠実」を広告で謳い、他国を蹂躙する大国が「防衛」と強弁する。すべては同じ構造だ。権力を持つ者が、自らの残酷な欲望を正当な言葉でコーティングしているに過ぎない。


この不条理な社会の中で、一市民として生きる私たちは、一体何に留意すればいいのだろうか。

答えは、あの子どもの頃に抱いた違和感の中にある。周りの大人がいくら笑っていようとも、社会がそれを正しいと評価していようとも、自分の内側が告げる「不快感」を絶対に手放さないことだ。綺麗に整えられた広告や、美しくパッケージされたスローガンといった美辞麗句に疑問を持ち、「実際には何が行われているのか」「誰が傷つき、誰が本当の引き金を引いたのか」という「態度と実態」を冷徹に見つめ続けることである。


そして、誰かを傷つけて成り立つ番組は見ない。不祥事をイメージで誤魔化し、都合の良い身代わりを作って本質から逃げる組織の商品は買わない。数字と体裁だけを気にする権力者たちに対し、その差し出された欺瞞を静かに拒絶するという「態度」を示す。何よりも、投票権を行使する。それこそが、社会の嘘を見抜き、誰一人として生け贄にされないまっとうな世界を望む、市民としての唯一の、そして最も強固な盾となるはずだ、と信じたい。



ふう。長〜い!ま、録音データを起こしただけだからね。前後関係がちゃんと繋がってないところや、意味がわからないところもある。

だけど。

うん、いろんな意見が言えるというのは、いいことだ。


ミサヨは寮の部屋の窓から夕焼けを見る。

あの日、展望台で見た光景と重なった。


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