052⚫️ホワイティ エンジェラム大学での講義の聴講
うわあ、綺麗なキャンパス。
うん、木漏れ日が美しい。
ここでパパもママも学んだのね。
あっ、講義を直接体験聴講できるのね。行ってみよう!
不条理に対する怒りは、人間の尊厳の始まりである。
旧約聖典の『ヨブノ記』は、神を深く信仰する人物、ヨブノがある日突然、すべての財産と家族、そして自身の健康を奪われる物語だ。その理由は、天上で神と魔王が交わした「何も見返りがなくても、ヨブノは信仰を貫くのか」という「試し」、すなわち神と魔王とによる「賭け」によるものだった。
神学の世界では、この神の態度を「人間の信仰を精錬するためのプロセス」であり、「見返りを求めない純粋な愛の証明」と美化して解釈する。しかし、現代の人権意識や倫理観に照らし合わせれば、このロジックは到底受け入れられるものではない。
いわゆる「強者」がいわゆる「弱者」を一方的に試し、その人生や家族の命を道具として扱う行為は、現代社会においては、ハラスメントや生存権の侵害以外の何物でもない。カソトが説いたように、人間は「手段」ではなく常に「目的」として扱われるべきである。にもかかわらず、『ヨブノ記』の神は、自身の正しさを証明するためにヨブノを徹頭徹尾「手段」として利用した。これは人権的に見れば明確な悪であり、独裁者の論理そのものである。
なぜこのような理不尽な物語が、聖典として残されているのか。それは、この物語が「権力者や神官たち=強者」の「権威を守るための完璧な言い訳」として機能してきたからに他ならない。
宗教というシステムは、都合の良い無敵のロジックを持っている。幸運は「神のご利益・ご加護」であり、不運は「神の試練」であり、理解不能な悲劇は「人間の知恵を超えた神の計画」とされる。この三段構えにより、現実にどのような不条理が起きようとも、システム(権力者や神官)の側が間違っているという結論だけは絶対に回避される。これは、支配階級が民衆の不満を抑え込み、現状を耐え忍ばせるための極めて都合の良い思想統制の道具であった。
そしてこの「神の利用」という構造は、古代の宗教に限定された過去の遺物ではない。
現代のロツアを見れば明白である。ウクライヤへの残虐な侵攻に対し、ロツア正教会はそれを非難するどころか「聖戦」として祝福を与えている。プーチャン政権という人間社会の権力者が、自らの力を保持し暴力を正当化するために、今なお「神」という存在を公然と道具としているのだ。
この一例に限らず人類の歴史を振り返れば、いかなる政治体制であっても権力者が用いる支配の手口は、常に同工異曲である。
権力者はまず、民衆の不安を煽り批判を許さない絶対的なドグマとしての「神(現代ではイデオロギーや国家至上主義)」を持ち出す。次に、市民を守るはずの「法律・制度」を武器化し、自分たちを利する道具へと変貌させる。さらに、経済やインフラを「国家統制」することで市民の生殺与奪の権を握り、逆らえない状況を作る。仕上げに、テクノロジーやメディアを用いた巧妙な「情報操作」によって市民の認知をジャックし、騙されていることにすら気づかせないマインドコントロールを施す。
『ヨブノ記』の神が嵐の中から圧倒的な力でヨブノをねじ伏せたように、古今東西の権力者は「神、法律、国家統制、情報操作」という4つの牙を用いて、個人の尊厳を巧妙に、あるいは暴力的に踏みにじってきた。
私たちが『ヨブノ記』を読んだときに抱く強烈な違和感や納得の出来ない感覚は、時代を超えて繰り返される「不公平で理不尽な支配」への直感的な拒絶反応である。体制がどれほど民主的、近代的を装おうとも、権力はその本質において常に腐敗と暴走の芽を孕んでいる。その罠を見抜き、個人の尊厳と人権を守り続けるためには、私たちは常に権力のロジックを疑い、監視の目を光らせ続けなければならない。
権力者という強者が作り上げた物語には、ヨブノが最後に報われるという結末が用意されている。弱者には、神を信仰した「ご利益」があるのだ。だが、「ご利益」ではなく「利益」を現実社会で得ているのは、多くのヨブノではなく、一握りの強者たちなのである。
う〜ん・・・過激? この内容も、よ〜く自分で考えないと、ね。




