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旅するロボット

【旅するロボット】 第2話 海へ:波の音だけが、残った

作者: macchao
掲載日:2026/06/05

『旅するロボット』の続編です。


前作から数年後、成長した悠斗と家族、そして家事支援ロボットのハチを描きました。


今回は大きな出来事はありません。

家族で海へ出かけ、同じ時間を過ごすだけの物語です。


前作を読んでいただいた方はもちろん、本作からでもお楽しみいただければ幸いです。

## 一


 春になると、麻衣は長野へ行った。

 夏になっても、行った。

 秋も、冬も、行った。


 最初は「月に一度」と言っていた。

 いつの間にか、それより少し増えていた。

 勇樹は何も言わなかった。

 悠斗も何も言わなかった。

 ロボットも、何も言わなかった。


 その代わり、麻衣が長野に行く日だけ、夕食の品数が少し増えた。

 誰も気づかなかったかもしれない。

 ただ、食卓に並ぶものが、少しだけ豊かだった。


---


 悠斗は九歳になっていた。


 体が伸びて、リュックが小さくなった。

 虫取り網は、押し入れの奥に入った。

 折り紙はいつの間にかやめた。

 猫のぬいぐるみだけが、まだ枕元にあった。

 名前はハルという。


---


## 二


 その年の夏休みに、悠斗が言い出した。


「海、行きたい」


 夕飯の途中だった。

 勇樹がみそ汁を飲んでいた。

 麻衣がハチに「これ少し薄い」と言っていた。


「海」

「うん。泳ぎたい」

「どこの」

「どこでもいい。海なら」


 勇樹は麻衣を見た。

 麻衣は勇樹を見た。

 二人は少しの間、互いの顔の中に何かを探した。


「いつ?」と麻衣が聞いた。

「夏休みのうちに」

「パパのお休みが」

「八月の中ごろなら取れる」勇樹が言った。


 麻衣はロボットを見た。

「ハチも連れていっていい?」


 ロボットは少し間を置いた。

「私が同行する必要がありますか」

「必要かどうかじゃなくて」

 麻衣は少し笑った。

「一緒に行きたい、ってこと」


 ロボットはそれに、すぐに答えられなかった。


---


## 三


 目的地は、房総の先の小さな海沿いの町になった。


 特に理由はなかった。

 悠斗が地図をスクロールして「ここ、名前がかわいい」と指さしたのが、始まりだった。


 四人と一体で、高速バスに乗った。


 窓際に悠斗。その隣に麻衣。

 通路を挟んで、勇樹とロボット。

 それが自然に決まった配置だった。


 バスが首都高に乗ったあたりで、悠斗が言った。

「ハチ、海って何度くらい?」

「海水温、ということでしょうか。この時期の房総沖であれば、概ね二十五度前後です」

「冷たい?」

「人によります」

「ハチ的には」

「私には体温がありません」

「じゃあ入っても寒くない?」

「入ることは推奨されていません」

「なんで」

「防水設計ではないためです」


 悠斗は少し考えてから言った。

「じゃあ足だけ」

「……検討します」


 麻衣がくすりとした。

 勇樹はイヤホンを片耳だけ外して、その会話を聞いていた。


---


 宿は、漁村の古い民宿だった。

 玄関に「素泊まりのみ」と書いてある看板が出ていた。

 廊下が軋んだ。

 布団が少し湿気っていた。

 悠斗は「なんか変な匂いがする」と言い、勇樹は「これが海の匂いだ」と言った。


 夜、近所の食堂で夕飯を食べた。

 ロボットだけ、食卓の隅に立っていた。

 刺身の盛り合わせが来て、悠斗が「でかい」と叫んで、老いた店主が満足そうに笑った。


 帰り道、砂浜沿いの道を歩いた。

 街灯が少なかった。

 波の音だけがした。


 少し歩いたところで、麻衣が言った。

「来年も来られるといいね」


 勇樹は少し間を置いた。

「来年のことはわからない」

「そうだけど」

「仕事が、どうなるか」

「……そうね」


 それきり、二人は黙った。

 悠斗は二人の前を歩いていた。

 ロボットは二人の後ろを、少し離れてついていた。


 波が来るたびに、砂が白く光った。


 しばらくして、麻衣が勇樹の腕に触れた。

 それだけだった。

 言葉は何もなかった。

 勇樹は腕を引かなかった。

 でも、何も言わなかった。


---


## 四


 翌朝。


 悠斗は夜明け前に目が覚めた。

 宿の部屋の窓が、まだ暗かった。

 隣では勇樹が眠っていた。

 麻衣は別室だった。


 廊下に出ると、ロボットが壁際に立っていた。


「起きてたの」

「充電中でした」

「海、見に行きたい」

「お一人では」

「ハチも来て」


 ロボットは少し間を置いた。

「旦那様に一言、残してから行きましょう」


---


 砂浜は、誰もいなかった。


 空が、水平線から少しずつ白んでいた。

 波が、規則正しく打ち寄せていた。

 悠斗は砂の上を素足で歩いた。


「冷たい」

「砂が、ですか」

「波が。ちょっとだけ入った」

「足だけですか」

「足だけ。約束通り」


 ロボットは水際から少し離れたところに立っていた。


 悠斗はしばらく波と遊んでから、振り返った。

「ハチ、長野の時さ」

「はい」

「楽しかった?」


 ロボットは答えなかった。すぐには。

 波が三度、打ち寄せてから、言った。


「楽しい、の定義をご確認させてください」

「また言う」


 悠斗は笑った。

「聞いてほしいんだけど」と言ってから、続けた。

「ハチがいたから、みんなうまくいったと思う。俺は」


「……私は、指示に従いました」

「知ってる」

「目的を達成しました」

「知ってる。でも、ありがとう」


 ロボットは、その言葉をどこに格納すればいいか、わからなかった。

 指示ではなかった。

 達成でもなかった。

 データとして保存するには、分類する項目がなかった。


 だから、ただ持っていた。


 水平線が、少しだけ赤くなっていた。


---


## 五


 朝食は、民宿のおかみが作ってくれた。


 アジの干物。

 納豆。

 大根のみそ汁。

 ご飯は多めに盛られていた。


 四人が食卓に座り、ロボットが隣の壁際に立った。

 おかみは一瞬だけロボットを見て、それから何も言わずに奥へ戻った。


 麻衣が、ふと言った。

「ねえ、ハチ」

「はい」

「昨日の夜から今朝にかけて、一番よかったこと、何?」


 勇樹が箸を止めた。

 悠斗が麻衣を見た。


 ロボットは少し間を置いた。


「波の音が、一定でした」


 誰も笑わなかった。

 誰もおかしいとは思わなかった。


 麻衣がうなずいた。

「そうね」と言った。

「一定だったね」


---


## 六


 帰りのバスで、悠斗は途中から眠った。


 ロボットの腕に寄りかかって、完全に落ちた。

 長野の時と、同じ姿勢だった。

 ロボットは今回も、その頭をそっと支えた。


 勇樹は反対側の窓から、外を見ていた。

 しばらくして、ロボットに静かに言った。


「麻衣が、お前のことを気にしてる」

「どういう意味でしょうか」

「どういう意味だと思う」


 ロボットは少し考えた。

「わかりません」

「俺もよくわからん」


 二人は少しの間、黙った。


 勇樹が続けた。

「でも、お前が家にいてよかったと思ってる。今は」


 ロボットは、何も言わなかった。

 何かを言うべき言葉が、見つからなかったのではない。

 言わない方が、正確だと思ったのだ。


---


 夕方、家に着いた。


 玄関に入ると、テーブルの上の小皿が目に入った。

 欠けた縁が、そのままだった。

 中に飴が一粒、入っていた。


 悠斗がリュックを下ろしながら言った。

「ただいま」

 誰に言ったのか、わからなかった。

 でも家が、少しだけ応えるように、静かだった。


---


 夜。


 麻衣はロボットと並んで、台所で片付けをした。

 しばらく無言で食器を洗って、ふと言った。


「ハチ、海どうだった」

「波の音が、記録されています」

「それだけ?」

「それと、悠斗さんの足が、砂で汚れていました」

「それは記録しなくていい」


 麻衣は笑った。

 グラスを手に取って、拭いた。

 それから、独り言のように言った。


「ハチって、海、見たことあった?」

「記録上はありません。今回が初めてです」

「そう」


 少し、間があった。


「私ね、子どもの頃に一度だけ、家族で海に行ったことがあって」

「はい」

「楽しかったのかどうか、もう覚えてないんだけど」

 麻衣は手を止めた。

「でも行ったことは、ちゃんと覚えてる」


 ロボットは何も言わなかった。

 言わなくていい、と思ったのかもしれない。


 麻衣は、また食器を拭き始めた。

 それから、少しだけ声を落として言った。


「また、行こうね」


 ロボットは、皿を拭きながら考えた。


「次回は、防水対応モデルの確認をしておきます」


 麻衣は笑って、「そういうこと言ってんじゃない」と言った。


 でも、嫌ではなかった。


---


 その夜、ハルは悠斗の枕元にあった。


 少し色あせていた。

 耳の縫い目がほつれかけていた。

 それでも、そこにいた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


『海へ』は『旅するロボット』の続編として書いたお話です。


特別な事件は起こりませんが、家族で過ごした時間や、少しずつ積み重なっていく思い出を描きたいと思いました。


ハチにとっては初めての海でしたが、きっとそれぞれに何かが残る旅になったのではないかと思います。


もし楽しんでいただけたなら幸いです。

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