【旅するロボット】 第2話 海へ:波の音だけが、残った
『旅するロボット』の続編です。
前作から数年後、成長した悠斗と家族、そして家事支援ロボットのハチを描きました。
今回は大きな出来事はありません。
家族で海へ出かけ、同じ時間を過ごすだけの物語です。
前作を読んでいただいた方はもちろん、本作からでもお楽しみいただければ幸いです。
## 一
春になると、麻衣は長野へ行った。
夏になっても、行った。
秋も、冬も、行った。
最初は「月に一度」と言っていた。
いつの間にか、それより少し増えていた。
勇樹は何も言わなかった。
悠斗も何も言わなかった。
ロボットも、何も言わなかった。
その代わり、麻衣が長野に行く日だけ、夕食の品数が少し増えた。
誰も気づかなかったかもしれない。
ただ、食卓に並ぶものが、少しだけ豊かだった。
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悠斗は九歳になっていた。
体が伸びて、リュックが小さくなった。
虫取り網は、押し入れの奥に入った。
折り紙はいつの間にかやめた。
猫のぬいぐるみだけが、まだ枕元にあった。
名前はハルという。
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## 二
その年の夏休みに、悠斗が言い出した。
「海、行きたい」
夕飯の途中だった。
勇樹がみそ汁を飲んでいた。
麻衣がハチに「これ少し薄い」と言っていた。
「海」
「うん。泳ぎたい」
「どこの」
「どこでもいい。海なら」
勇樹は麻衣を見た。
麻衣は勇樹を見た。
二人は少しの間、互いの顔の中に何かを探した。
「いつ?」と麻衣が聞いた。
「夏休みのうちに」
「パパのお休みが」
「八月の中ごろなら取れる」勇樹が言った。
麻衣はロボットを見た。
「ハチも連れていっていい?」
ロボットは少し間を置いた。
「私が同行する必要がありますか」
「必要かどうかじゃなくて」
麻衣は少し笑った。
「一緒に行きたい、ってこと」
ロボットはそれに、すぐに答えられなかった。
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## 三
目的地は、房総の先の小さな海沿いの町になった。
特に理由はなかった。
悠斗が地図をスクロールして「ここ、名前がかわいい」と指さしたのが、始まりだった。
四人と一体で、高速バスに乗った。
窓際に悠斗。その隣に麻衣。
通路を挟んで、勇樹とロボット。
それが自然に決まった配置だった。
バスが首都高に乗ったあたりで、悠斗が言った。
「ハチ、海って何度くらい?」
「海水温、ということでしょうか。この時期の房総沖であれば、概ね二十五度前後です」
「冷たい?」
「人によります」
「ハチ的には」
「私には体温がありません」
「じゃあ入っても寒くない?」
「入ることは推奨されていません」
「なんで」
「防水設計ではないためです」
悠斗は少し考えてから言った。
「じゃあ足だけ」
「……検討します」
麻衣がくすりとした。
勇樹はイヤホンを片耳だけ外して、その会話を聞いていた。
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宿は、漁村の古い民宿だった。
玄関に「素泊まりのみ」と書いてある看板が出ていた。
廊下が軋んだ。
布団が少し湿気っていた。
悠斗は「なんか変な匂いがする」と言い、勇樹は「これが海の匂いだ」と言った。
夜、近所の食堂で夕飯を食べた。
ロボットだけ、食卓の隅に立っていた。
刺身の盛り合わせが来て、悠斗が「でかい」と叫んで、老いた店主が満足そうに笑った。
帰り道、砂浜沿いの道を歩いた。
街灯が少なかった。
波の音だけがした。
少し歩いたところで、麻衣が言った。
「来年も来られるといいね」
勇樹は少し間を置いた。
「来年のことはわからない」
「そうだけど」
「仕事が、どうなるか」
「……そうね」
それきり、二人は黙った。
悠斗は二人の前を歩いていた。
ロボットは二人の後ろを、少し離れてついていた。
波が来るたびに、砂が白く光った。
しばらくして、麻衣が勇樹の腕に触れた。
それだけだった。
言葉は何もなかった。
勇樹は腕を引かなかった。
でも、何も言わなかった。
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## 四
翌朝。
悠斗は夜明け前に目が覚めた。
宿の部屋の窓が、まだ暗かった。
隣では勇樹が眠っていた。
麻衣は別室だった。
廊下に出ると、ロボットが壁際に立っていた。
「起きてたの」
「充電中でした」
「海、見に行きたい」
「お一人では」
「ハチも来て」
ロボットは少し間を置いた。
「旦那様に一言、残してから行きましょう」
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砂浜は、誰もいなかった。
空が、水平線から少しずつ白んでいた。
波が、規則正しく打ち寄せていた。
悠斗は砂の上を素足で歩いた。
「冷たい」
「砂が、ですか」
「波が。ちょっとだけ入った」
「足だけですか」
「足だけ。約束通り」
ロボットは水際から少し離れたところに立っていた。
悠斗はしばらく波と遊んでから、振り返った。
「ハチ、長野の時さ」
「はい」
「楽しかった?」
ロボットは答えなかった。すぐには。
波が三度、打ち寄せてから、言った。
「楽しい、の定義をご確認させてください」
「また言う」
悠斗は笑った。
「聞いてほしいんだけど」と言ってから、続けた。
「ハチがいたから、みんなうまくいったと思う。俺は」
「……私は、指示に従いました」
「知ってる」
「目的を達成しました」
「知ってる。でも、ありがとう」
ロボットは、その言葉をどこに格納すればいいか、わからなかった。
指示ではなかった。
達成でもなかった。
データとして保存するには、分類する項目がなかった。
だから、ただ持っていた。
水平線が、少しだけ赤くなっていた。
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## 五
朝食は、民宿のおかみが作ってくれた。
アジの干物。
納豆。
大根のみそ汁。
ご飯は多めに盛られていた。
四人が食卓に座り、ロボットが隣の壁際に立った。
おかみは一瞬だけロボットを見て、それから何も言わずに奥へ戻った。
麻衣が、ふと言った。
「ねえ、ハチ」
「はい」
「昨日の夜から今朝にかけて、一番よかったこと、何?」
勇樹が箸を止めた。
悠斗が麻衣を見た。
ロボットは少し間を置いた。
「波の音が、一定でした」
誰も笑わなかった。
誰もおかしいとは思わなかった。
麻衣がうなずいた。
「そうね」と言った。
「一定だったね」
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## 六
帰りのバスで、悠斗は途中から眠った。
ロボットの腕に寄りかかって、完全に落ちた。
長野の時と、同じ姿勢だった。
ロボットは今回も、その頭をそっと支えた。
勇樹は反対側の窓から、外を見ていた。
しばらくして、ロボットに静かに言った。
「麻衣が、お前のことを気にしてる」
「どういう意味でしょうか」
「どういう意味だと思う」
ロボットは少し考えた。
「わかりません」
「俺もよくわからん」
二人は少しの間、黙った。
勇樹が続けた。
「でも、お前が家にいてよかったと思ってる。今は」
ロボットは、何も言わなかった。
何かを言うべき言葉が、見つからなかったのではない。
言わない方が、正確だと思ったのだ。
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夕方、家に着いた。
玄関に入ると、テーブルの上の小皿が目に入った。
欠けた縁が、そのままだった。
中に飴が一粒、入っていた。
悠斗がリュックを下ろしながら言った。
「ただいま」
誰に言ったのか、わからなかった。
でも家が、少しだけ応えるように、静かだった。
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夜。
麻衣はロボットと並んで、台所で片付けをした。
しばらく無言で食器を洗って、ふと言った。
「ハチ、海どうだった」
「波の音が、記録されています」
「それだけ?」
「それと、悠斗さんの足が、砂で汚れていました」
「それは記録しなくていい」
麻衣は笑った。
グラスを手に取って、拭いた。
それから、独り言のように言った。
「ハチって、海、見たことあった?」
「記録上はありません。今回が初めてです」
「そう」
少し、間があった。
「私ね、子どもの頃に一度だけ、家族で海に行ったことがあって」
「はい」
「楽しかったのかどうか、もう覚えてないんだけど」
麻衣は手を止めた。
「でも行ったことは、ちゃんと覚えてる」
ロボットは何も言わなかった。
言わなくていい、と思ったのかもしれない。
麻衣は、また食器を拭き始めた。
それから、少しだけ声を落として言った。
「また、行こうね」
ロボットは、皿を拭きながら考えた。
「次回は、防水対応モデルの確認をしておきます」
麻衣は笑って、「そういうこと言ってんじゃない」と言った。
でも、嫌ではなかった。
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その夜、ハルは悠斗の枕元にあった。
少し色あせていた。
耳の縫い目がほつれかけていた。
それでも、そこにいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『海へ』は『旅するロボット』の続編として書いたお話です。
特別な事件は起こりませんが、家族で過ごした時間や、少しずつ積み重なっていく思い出を描きたいと思いました。
ハチにとっては初めての海でしたが、きっとそれぞれに何かが残る旅になったのではないかと思います。
もし楽しんでいただけたなら幸いです。




