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第一章「戻ったはずの日常」

本作は『イジメられっ子の僕がオタサーの姫になっちゃった?』の続編となります。


前作を未読でも読めるように構成していますが、読んでいただくとより楽しめると思います。


今回は大きな事件よりも、日常の中にある小さな違和感や関係の変化をテーマにしています。

ゆっくりとしたお話ですが、楽しんでいただけたら嬉しいです。

挿絵(By みてみん)


 朝、目が覚めると、僕はしばらく布団の中で天井を見ていた。


 まだ少し眠い。

 今日も朝から授業だし、特別楽しみな予定があるわけでもない。


 それなのに、胸の奥がわずかに落ち着かないのは、たぶんもう癖みたいなものだった。


 あれから二ヶ月。


 僕の名前は中村直人。高校二年生だ。

 少し前まで、クラスではあまり目立たない、いわゆる陰キャのオタクだった。


 クラスでは特に居場所があるわけでもなく、

 誰かに強く関わることもなく、

 それでもなんとなく毎日をやり過ごしていた。


――ある日、目が覚めると、僕は女の子になっていた。


 理由は分からないし、元に戻る方法も見つかっていない。

 ただ、その日から日常は大きく変わった。


 クラスのカーストトップ、藤原彩香と衝突したこともあった。


 今も、その影響は消えていない。


 そして、藤原彩香とのあの一件から、もう二ヶ月も経っている。


 時間だけを考えれば、充分長い。

 学校の中で起きる騒ぎなんて、普通なら一週間もすれば別の話題に塗り替えられるはずだ。


 みんな最初のうちは大騒ぎしても、やがて飽きて、少しずつ日常に戻っていく。


 僕も、そうなるものだと思っていた。


 けれど実際には、戻ったように見えて、どこか戻りきっていなかった。


「……よし」


 小さく呟いて、布団から体を起こす。


 部屋の隅に置いてある姿見の方へ歩いていくと、そこにはもう見慣れた顔が映っていた。


 長い髪。

 やわらかい輪郭。

 寝起きの少しぼんやりした目。


 最初のころは、この鏡を見るのも変な気分だった。


 いや、変な気分どころではなかったかもしれない。


 毎朝、他人の顔を借りて生きているようで、

 そのたびに自分がどこへ行ってしまったのか分からなくなった。


 でも、今は違う。


 慣れた、とはまだ言いきれない。

 けれど、少なくとも「見慣れた」とは言えるようになってきた。


 洗面所で顔を洗い、髪をとかし、制服に着替える。


 セーラー服の襟を整え、胸元のリボンを結ぶ。

 手つきはまだ少し頼りないけれど、最初に比べればずいぶんましだ。


 昔は、本当に何もできなかった。


 髪のまとめ方も、制服の着こなしも、細かいところが全部わからなくて、

 そのたびに姉に助けてもらっていた。


 今は一人でそれなりにできる。


 もちろん、完璧ではない。

 でも、最低限はやれるようになった。


「直人、起きてる?」


 廊下の向こうから姉の声がした。


「起きてるよ」


「入るね」


 返事を待たずにドアが開く。


 姉は僕の姿を見るなり、少しだけ目を細めた。


「へえ、今日はだいぶちゃんとしてるじゃん」


 中村美和。大学生で、僕の姉だ。


 二ヶ月前、突然性別が変わったとき、

 女の子として生活できたのは、彼女の存在が大きい。


「その言い方、ひどくない?」


「いやいや、褒めてるの。前より全然自然」


 言いながら近づいてきて、僕の胸元を見た。


「あ、でもここちょっとズレてる」


 姉は慣れた手つきでリボンの結び目を直し、ついでに襟元も整える。

 さらに背後に回って、髪を指先で軽くほぐした。


「うん、これでいいかな」


「……やっぱりお姉ちゃんにやってもらうと早いね」


「でしょ?」


 姉は得意げに笑った。


「でもまあ、ここまで自分でできるようになったのは偉いよ。

 前は本当に、何もかも“わかんない”って顔してたし」


「今もそんなに、わかってるわけじゃないけど」


「別にいいの。わかってるふりしなくて」


 そう言ってから、姉はふと鏡越しに直人の顔を見た。


「……なんか、今日ちょっと固い?」


「え?」


「顔」


 僕は少しだけ視線をそらす。


「別に、普通だよ」


「その“普通”って言うとき、大体普通じゃないんだよね」


 姉は笑いながらも、少しだけ優しい声で続けた。


「学校、まだしんどいの?」


 僕はすぐには答えなかった。


 しんどい、と言ってしまうほどではない。

 でも、平気かと言われたら、それも少し違う。


「……落ち着いてきたと思ってたんだけど」


「うん」


「なんか、落ち着いたっていうことになってるだけで、実際はそうでもないっていうか」


 自分で言いながら、ああこれだ、と思う。

 ずっと胸の中で曖昧だったものが、ようやく言葉になった感じがした。


 姉は小さくうなずいた。


「まあ、そういうのあるよね。

 みんな表向きはもう普通でしょ、みたいな顔するけど、実際は全然普通になってないやつ」


「……うん」


「でも、直人が無理して“はいはい、もう平気です”みたいな顔する必要はないよ」


「してないつもりだけど」


「してるしてる」


 姉は即答した。


「直人ってさ、自分が変な空気に置かれてても、先に相手の方を気にするじゃん」


「そんなことないよ」


「あるよ。昔から」


 くすっと笑って、姉はドアの方へ向かう。


「まあ、困ったらまた言いなよ。朝でも夜でも髪ぐらいはやってあげるから」


「髪ぐらいって」


「あと悩み相談もね」


 ひらひらと手を振って部屋を出ていく姉の背中を見送りながら、

 僕は少しだけ肩の力を抜いた。


 全部一人でできるようになることが、大人になることだと思っていた時期もあった。

 でも今は、たまに誰かに頼れるくらいの方が、むしろ自然なのかもしれないと少しだけ思う。


 登校中の道は、二ヶ月前と同じようでいて、やっぱり少し違っていた。


 駅前を抜け、校門へ向かう坂道を上る。

 その途中で、何度か視線を感じた。


 あからさまに見られるわけではない。

 通り過ぎる一瞬、友達同士で話していた声が少しだけ止まる。

 すれ違った男子が、振り向くほどじゃないけれど、目だけでこちらを追う。


 何か言われることはないし、笑い声が上がるわけでもない。


 でも、その「何も起きない感じ」が、逆に全部わかってしまう。


 もう騒がない。

 もう直接は言わない。

 でも、何もなかったことにはなっていない。


 それが、今の学校だった。


 下駄箱で上履きに履き替えていると、少し離れたところで男子の二人組が話しているのが聞こえた。


「いや、あれ普通に可愛くない?」


「お前またそういう……」


「いやでも、近くで見るとホントすごいって」


 笑いを含んだ声。


 それが自分のことだと分かっていても、僕は振り向かなかった。


 こういうのも、もう珍しくはない。


 前は驚いていた。

 今は、いちいち反応する方が疲れる。


 教室に入ると、こちらもまた表面上は普通だった。


「おはよう」


「おはよー」


 声をかければ返ってくる。

 それだけなら、本当に何も変わっていないように見える。


 でも、男子の何人かは以前より明らかに話しかけ方が変わった。


 変に丁寧だったり、逆に妙によそよそしかったり。

 目を合わせづらそうにするやつもいれば、妙に緊張しているやつもいる。


 僕からすると、むしろ前のまま話してくれる方がありがたかった。


 そんなことを考えながら席に向かう途中、教室の後ろの窓際で、一人の男子がスマホを見つめたまま固まっているのが目に入った。


 同じクラスの小林だった。


 おとなしくて、休み時間もあまり大きなグループには入らないタイプで、以前の僕と少し似ているところがある。


「どうしたの?」


 声をかけると、小林はびくっと肩を揺らした。


「え、あ……いや、その」


 スマホの画面を見ると、どうやらグループチャットの話らしい。

 文化祭の班分けか何かで、小林だけが最後まで決まらずに残っている。


「ああ……それね、まだ入ってないの?」


「別にいいんだけどさ」


 よくない顔で、小林は言う。


「こういうの、毎回ちょっとだけ遅れると、そのまま入るタイミングなくなるよね……」


「じゃあ、今入っちゃえばいいんじゃない?」


「いや、でも今さらって感じしない?」


「しないでしょ。むしろ向こうも、誰か言い出すの待ってるだけかもよ」


 僕は自分の席に置いたカバンの中から、昨日のプリントを取り出した。


「ほら、これ小林くんの分。昨日配られたやつ、まだ持ってなかったよね」


「あ……ありがと」


「ついでに僕も一緒に行こうか? その方が入りやすいなら」


「え、いや、そこまでしてもらうの悪いし」


「別に悪くないよ」


 あっさり言うと、小林は少しだけ困ったように笑った。


 そのときだった。


「……またやってる」


 聞き慣れた声がして振り向くと、藤原彩香が席の間を縫ってこちらへ歩いてきていた。


挿絵(By みてみん)


 呆れたような、でも少し面白がっているような顔だ。


「なにが?」


「そういうとこ」


 彩香は僕の隣に立つと、小林のスマホ画面をチラッと見た。


「あー、なるほどね」


「いや、別に大したことじゃないよ」


「そうやって自分では大したことないと思ってるところが、まさに“またやってる”なんだけどね」


 彩香は小さく笑う。


「直人ってほんと、そういうタイプ見つけるのうまいよね」


「見つけるっていうか、たまたまだよ」


「たまたまで毎回それなら、もう特技でしょ」


 そう言われても、僕にはよく分からない。


 気になったから声をかけてみた。

 前からそれだけなんだけど。


 ただ、昔の自分と少し重なって見える相手だと、特に放っておけなかった。


「まあいいや」


 彩香は小林の方に向き直った。


「小林くん、今なら全然入れるって。

 ていうか、こういうのって誰か一人言い出せば普通に決まるから」


「あ、うん……」


「ほら、直人もついてくって言ってるし」


「いや、ついてくっていうか」


「同じようなもんでしょ」


 彩香はそう言って、僕の肩を軽くつついた。


「ほんと、相変わらずだね」


「なにが」


「男子に優しいの」


「……別に男子だからじゃないよ」


「はいはい」


 彩香はまるで分かっていたように笑う。


 からかわれている気もするけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 むしろ、こういうふうに軽く受け流してくれる相手がいることに、僕は少しだけ救われていた。


 昼休み、パンを片手に廊下に出たところで、彩香が隣に並んできた。


「さっきの、ありがとね」


「なんで彩香が言うの」


「別に。ああいう空気、放っとくと面倒だから」


「……そうなんだ」


「そうだよ」


 彩香は壁にもたれながら、パンの袋を開ける。


「ていうか、直人って学校の悩み相談、地味に向いてるよね」


「向いてないよ」


「向いてるって。自分は大したことしてないつもりで、相手の逃げ道だけ作るのうまいし」


「そんなことしてるつもりないんだけど」


「してるんだって」


 彩香は一口かじってから、少しだけ真面目な顔になった。


「でもさ、直人がそういうふうに普通にしてると、逆に周りがまだ慣れてないのがよく分かるよね」


「……やっぱりそう見える?」


「見える」


 即答だった。


「みんなもう慣れたふりしてるけど、男子とか特に全然だよ」


「男子?」


「そりゃそうでしょ。元々知ってる相手が、いきなりこうなったんだよ?」


“こうなった”という言い方に少し引っかかったけれど、彩香に悪気がないのは分かっている。


「普通に接したいけど、普通が何なのか分かんないんだと思う」


「……なるほど」


「だから、変に距離取るやつもいれば、逆にテンションおかしくなるひともいるし」


 まるで教室を俯瞰して見ていたみたいな言い方だった。


「じゃあ、僕はどうすればいいのかな」


「いつも通りでいいんじゃない?」


 彩香はあっさり言った。


「直人まで相手に合わせておかしくなったら、余計ぐちゃぐちゃになるし」


「それもそうか」


「ただし、無理はしないこと」


 彩香はパンの袋を丸めながら付け足す。


「“優しくする”のと、“我慢する”のは違うからね」


 その言い方が、少しだけ胸に引っかかった。

 たぶん今のは、彩香なりのアドバイスなのだろう。


「ありがとう」


「別に」


 彩香は照れたように視線をそらし、すぐにいつもの調子に戻った。


「まあ、また困ったら相談しなよ。

 女子側の面倒くささについてなら、多少は教えられるし」


「それ、助かるかも」


「でしょ?」


 少しだけ誇らしげに笑う彩香を見て、僕もつられて笑ってしまった。


 放課後。


 僕はいつものように、文研(現代文学研究会)へと向かう。


 部室に入った瞬間、なんとなく今日の空気を察した。


 静かすぎる。


 人はちゃんといる。

 いつものメンバーが、いつもの席に座っている。

 誰も喧嘩していないし、険悪な顔をしているわけでもない。


 でも、前みたいな雑多な賑やかさがない。


「お疲れ」


「おう」


「お疲れ様」


 挨拶は返ってくる。

 それも普通だ。


 けれど、その“普通”が妙に整いすぎている。


 以前のこの部室には、もっとどうでもいい雑談があった。


 誰かの新刊の話から、いつの間にか関係ない作品の話になって、そこからさらにゲームやアニメの話へ飛んでいく。

 話が脱線して、誰かがツッコんで、また別の話題が始まる。


 そんなまとまりのない感じが、この場所の良さだった。


 でも今は違う。


 話題が妙に無難で、会話の切れ目がはっきりしている。


 誰かが話し始めても、少しして終わる。

 笑いが起きても、すぐ静かになる。


 まるでみんな、余計なところに踏み込みすぎないように慎重になっているみたいだった。


 席につくと、隣にいた慎太郎が視線を上げた。


「……お疲れ」


「お疲れ」


 佐藤慎太郎。

 隣のクラスで、いつもラノベの話で盛り上がっていた僕の親友だ。


 そんな慎太郎の声も、少しだけ慎重だった。


 いや、慎太郎は元々こんな感じかもしれない。

 でも、最近はその“元々の無口さ”とはまた違う、どこか言葉を選んでいるような間がある気がする。


「今日、なんか静かだね」


 僕が小声で言うと、慎太郎は少しだけ苦笑した。


「最近ずっとこんな感じじゃない?」


「そうかも」


「たぶん、みんな気使ってるんだと思う」


「僕に?」


「……たぶん、それもある」


 慎太郎はそこまで言ってから、少しだけ言葉を探すように視線を落とした。


「でも、それだけじゃなくて。

 なんか、一回空気変わったあと、元のノリに戻すタイミングなくした感じっていうか」


 その言い方が妙にしっくりきて、僕は思わずうなずいた。


挿絵(By みてみん)


「ああ……それだ」


 壊れたわけではない。

 決定的な揉め事があったわけでもない。


 ただ、一度みんなが「ここは慎重にいった方がいい」と思ってしまったせいで、そのまま少しずつ無難な場所になってしまった。


 安全だけど、少しだけ息苦しい。


 今の文研は、そんな感じだった。


「前の方が、もっとくだらなかったよね」


 僕がそう言うと、慎太郎は少しだけ笑った。


「うん。くだらなかった」


「その方がよかったな」


「分かる」


 短い会話だったけれど、それだけで少しだけ楽になった。


 少なくとも慎太郎も、今の空気を同じように感じているのだと分かったから。


 そのあと、部室の中では誰かが最近読んだラノベの話を始めた。

 それに別の誰かが軽く反応する。


 以前ならそこで一気に話が広がったはずなのに、今日はすぐに落ち着いてしまう。


 たぶん、誰も悪くない。


 悪くないまま、楽しくなくなりかけている。


 それが一番厄介だった。


 僕は机の上に頬杖をつきながら、ぼんやりそんなことを考える。


 ここは、好きな場所のはずだった。


 今も嫌いになったわけじゃない。

 でも、前みたいに自然には笑えない瞬間がある。


 そして、たぶんそれは自分だけじゃない。


「……なぁ、直人。今日の帰り、どうする?」


 ふいに慎太郎が隣で聞いてきた。


「どうするって?」


「いや、その……本屋とか、行くなら」


「あ、行く」


 すぐに答えた。


「ちょうど欲しい本あるし」


「そっか」


 慎太郎は少しだけ視線をそらし、でもそれ以上は何も言わなかった。


 その反応の意味を、このときの僕はまだ深く考えなかった。


 ただ、一緒に本屋へ行く。

 たぶんそのあと、オタクショップも少し覗く。


 前から何度もやってきたことだ。


 いつも通り。


 少なくとも僕にとっては、そういうつもりだった。


 けれど、今まで通りに見えるものほど、本当は少しずつ形を変えているのかもしれない。


 部室の窓の外は、もう夕方の色になりかけていた。


 戻ったはずの日常は、まだどこか落ち着ききっていない。


 学校も、サークルも、たぶん自分自身も。


 それでも僕は思う。


 全部が元通りじゃなくてもいいから、

 せめてここが、またちゃんと楽しい場所になればいい。


 その願いが、どこまで叶うのかはまだ分からない。


 ただ少なくとも、変わってしまったことを、最初からなかったことにはしたくなかった。


 このときの僕は、まだ知らなかった。


 慎太郎が、僕の思っている「いつも通り」とは少し違う気持ちで、隣に座っていることを。


 そして、僕自身もまた、以前とまったく同じではいられなくなっていることを。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「壊れてはいないけど、元には戻らない空気」というものを意識して書いてみました。

誰かが悪いわけではないのに、少しずつ変わってしまう関係というのは、現実でもよくあることだと思っています。


直人は相変わらず、自分のことよりも他人を優先してしまうタイプですが、

それがこの先どういう形になっていくのかも、見守っていただけたら嬉しいです。


引き続き、オタサー姫2をよろしくお願いします。

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