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まよいがの住人  作者: ねむのき新月
最終章
18/18

まよいが

 さすがに十一月の夕方過ぎには、寒さが身に凍みて指先が強張ってくる。


 吉田邸の玄関先で一礼してから、振り返ることはしなかった。不安で不安で足が震えるほどだったのに、ここに着いてからはなぜかそれが消えていた。


 部屋の中には、夢の中で訪れた際にはなかった欅材の長火鉢が置かれている。五徳の上の鉄瓶から蒸気があがり、八栄は冷えた体をそばに寄せて、ほぅと息を吐いた。

 リツリが用意した茶を挟んで向かい合ったみちるが、ややって軽くあごをしゃくる。


「それで? 職業紹介所にその荷物ということは?」


 荷物と言っても風呂敷包みひとつだ。中には着物が数枚と、紐やら櫛やらといった、細々としたものが入っているだけだ。それと、三年間で貯めた給金が少し。


「はい。あの家を辞めたんです」


 秀継は八栄がこの東京に頼れる縁者がいないことを知っている。信州に戻ったところで、歓迎されるはずがないことも。

 暇乞いを求めた八栄をじっと見つめていた秀継は、理由も聞かず引きとめることさえしなかったが、会社の住所を書いた紙と、数日は寝泊まりに困らないだけの餞別をくれた。父ほどに年の離れた腹違いの兄は、決してそう呼ぶことはないにしても、八栄にとって間違いなく人生を変えてくれた救い主であった。


「色々となんだかすっきりしましたし。あたしがいると、ぎくしゃくしてしまって」


 富はなんとなく距離を置いている。喜助もどこかよそよそしい。秀継は変わりないが、智津は萎縮しているし、真希も言動がぎこちない。


 使用人ではあるが、先代の娘であり、当代の妹である。その立場を主張するつもりはもちろんなかったのだが、八栄が変わらずとも周囲がそうとは限らない。それは八栄の自意識が過剰なだけかもしれないが、どちらにしても吉田の家をこれ以上かき回すつもりはなかった。母が、そう願ったように。


 結局、いる場所がない。

 いてもいい場所も、いたい場所も。


「なので、新しい職を探そうかと」


 ただ、吉田家を離れれば、遼太郎には会えなくなる。だが、遼太郎はきっと、よくわかっていないのだろう。

 医師の診察に随行してきたが、塞いでいる八栄に気づくより、真希がおずおずと微笑みかけてくれるようになったことが嬉しくてしようがない様子であった。

 そんな遼太郎の態度に、八栄はもっと落ち込むかと思ったのだが、ともに喜んだ中にかすかな痛みさえなかったことに驚いただけだ。


 心残りは、何もない。

 また最初から、何もかも、やり直せばいい。


「いま女中って、結構職があるんです。女工さんにみんな行ってしまうので。あ、女工さんでもいいかなって思ったんですけど」


 夢の中では泣くくせに、現実では無理をして笑っている。


「は? みちるさん、何か言いました?」


 いいや、と首を振ってから、みちるは童女を見やった。


「おまえの粘り勝ちだ」


 リツリはにんまりと笑う。


「楽しいが一番じゃ」

「加えて、わたしの世話を焼くのに飽きたんだろう?」

「お、ようわかったのぉ?」

「長いつきあいだからな」


 そしてみちるはおもむろに八栄を向く。


「この家に再び来てしまったからには、覚悟を決めてもらおう」

「か、覚悟?」


 わけがわからない会話が続いたあげくの不穏な単語に、八栄はかすかに身を引いた。


「おまえは、少し危機感を持ったほうがいい。こちらの世界の知識が少なすぎる」


 こちらの世界――とは、妖しいモノのいる世界のことだろう。


「で、でも。知りようがなかったんです。祖母も母も早くに亡くなって、教えてくれるひとはもういなくて」


 八栄としても後悔していたことだったが、そう責められるのは心外だった。


「この家には、その手の書物はかなりあるぞ。わたしはもう目を通したものばかりだから、いまは埃まみれだがな」

「え、ええと」

「第一、見えるくせに、なぜ馴れない。いちいち怯えていては、連中が喜んで脅かしにくるだけだ」


 目をしばたたかせている八栄に、みちるは平然と提示する。


「もののついでだな。昼寝は無理だろうが、三食お八つ付き住み込み。いろんなモノの出入りが激しいから、相場に多少の色を付けた給金は出そう。なかなか女中が居着かなくて、困っていたところだ」


 良すぎる条件に、言われたことがすぐには飲み込めなかった。


「……もしかして、これも夢?」

「安心しろ。おまえは生身でこれは現実だ」


 そこへ別の人物もやってきた。


「今晩はー。ああ、まったくいつ来ても坂道の多いとこだよな。もっと下町のほうに引っ越せばいいのに。おおい、みちる、いるんだろう。晩飯食わせてよ、と」


 引き戸の玄関を開け上がり込み廊下を歩く足音も賑やかに、開けたままの障子から顔を覗かせて、背を丸め懐手にしたまま昭は惚けたように動きを止めた。


「あれ、八栄ちゃん。何やってんだ?」

「新しく雇ったうちの女中だ。身を守る術を覚えるのにも、ちょうどいいだろう」

「あぁ、まぁそうだね、って……。住み込みで? この家で? おまえとふたりきりで?」


 みちるの横に無造作に胡座をかき、白い縮緬の襟巻きをはずしながら、昭はみちると八栄を見比べる。


「他に色々いるだろう」

「人外がな。年頃の男女がひとつ屋根の下で、おまえはいいかもしれないけど、嫁入り前の娘さんにおかしな噂が出たらどうする。おれも住まわせろ。家賃が助かる」

「なんの解決にもなっていないし、居候などごめんだ」


 小気味よく拒絶するみちるより、八栄がひっかかったのは昭の言葉の最初のほうだ。それも『人外』のくだりではない。


「あ、あの。土門さん? 年頃の男女がひとつ屋根の下、って。みちるさんは」

「男だよ?」


 あっさり返されて、ぎしぎしと音が鳴るような動作でみちるを見やる。


「あ。八栄ちゃん、気づいてなかった?」

「……だ、男装は、お似合いでした、よ?」


 今日の装いは、少し前に流行った元禄模様の派手な着物だが、美人は何を着ても似合うという見本のような状態である。


 八栄に向かってみちるが真顔で言った。


「女装もお似合いだろう?」


 あのときの男装は、暗い茶色のズボンに揃いのチョッキだった。言われてみればおかしなことに、何も知らず、髪が短ければ、疑いなく男性に見えた凛々しさだった。しかし真実を告げられていながら、いまはやはり、女性としか思えない可憐なたたずまい。


 だが、信じられない――というより、八栄としては信じたくない。

 みちるの容姿もさることながら、怯えてわけがわからなくなっていたとはいえ、同年齢の少年に、抱きついてしまったということなのだろうか。思い返すと、それはかなりはしたないことだ。


(で、でもあれは不可抗力だし。それに女の子だと思ってたし)


 しかし、だから真希の身を改めるときに、後ろを向いていたのか。


「男の子は女装で育てると丈夫になるとか魔よけとか言うけど、こいつの場合、もう趣味だから。好き好んでこういう格好でいる変わり者だから」


 放言にみちるは鼻を鳴らしただけだ。


「しかも、気づいてるかどうか知らないけど、座敷童のリツリを筆頭に、目々連やら釣瓶火やら付喪神やら、いわゆる妖怪なんかが普通に出るよ? 八栄ちゃん、女中奉公はよく考えたほうがいい」

「我が道々きちんと説明したわ!」


 余計なことを言うなとばかりに昭の横面を睨め付けつつ、リツリは八栄の着物の袖を小さな手で握った。


「大丈夫じゃ。さっきの連中は、我がちゃんと叱っておく。ここに、おるよな? みちるは人間と群れようとせん。八栄がおれば万事丸く収まる。みちるは人間と群れるし、八栄は職が得られる」


 リツリは座敷童であるという。

 もともと東北地方で有名な名前だが、古い家を好む存在らしい。良い妖怪だと、昔話にも聞いていた。少しも怖くはなかった。


「それにの、あの狼も、心残りなく逝けよう」

 

 リツリの懇願と説得に目元を和ませていた八栄だったが、最後の言葉に息を飲んでマカミを探す。

 白い姿が、透けはじめていた。


「え?」


 行ってしまう――?


「どうして……。ねえ。マカミはずっと一緒にいてくれるんじゃないの?」

「八栄はここで預かる。そう伝えておくれ」


 みちるに向かって静かにうなずいただけで、狼はあっけなく消えていった。


「あの狼は、よほどおまえが心配だったんだろうな。それとも誰かに頼まれたか、その両方か」


 知らず知らずのうちに、八栄の頬をいく筋もの涙が伝っていた。

 マカミがいたから、寂しくはなかった。ひとりの孤独を、耐えてこられた。


「狐は、狼を恐れるとも言う。狐落としの札にも、狼が描かれているくらいだ」


 母が育てていた狼。母のあとはおそらく父が。管狐のもたらす災いを、父は憂いていただろうか。マカミはそんな父を看取ったのだろうか。そのあとに、マカミ自身も死んでしまったのだろうか。死してなお、八栄を見守るために、残ってくれたのだろうか。


 何も。本当のことは、何もわからない。

 ただマカミがそばにいてくれたことだけが、真実だった。


 ふむ、とリツリがみちるを見上げる。


「書き留めるものが増えたの、みちる。狼は死しても霊魂として残るようじゃ」

「ぬかりなくしたためてある」


 ひょいとみちるは肩をすくめながら、気遣わしげに少女を見やっていた。

 渦巻く感情に収拾がつかず、八栄は放心したように座り込んでいる。

 その目の前に、熟した柿がずいと差し出された。


「八栄。この柿を剥いてくれんかの」

「おまえ、少しは気を使いなさいよ。それに自分で剥けるだろう」


 甘える様子に呆れる昭に、リツリが小憎らしげに舌を出す。


「この家におらねば我の姿を見ることもできんやつが、何やらうるさいのー」

「そもそもモノノケの力を強くするようなこの家がおかしいんだよ」

「自分の無能を棚に上げてよう言うわ」

「そういう憎まれ口を叩くのはこの口かっ!」

「頬を引っ張るのはやめいっ。顔が伸びるっ」


 青年と童女がきゃいきゃいとじゃれあう姿がほのぼのと優しくて、八栄は目元を拭いながら立ち上がった。


「台所はあっちですか?」

「我が案内する!」


 昭などさっさと放り出し、リツリがはしゃいだように手を引いた。

 無言で見上げて来るみちるに、八栄は口ごもる。


「あの、あたし……」


 ここには八栄を遠巻きにするひとはいない。八栄にしか見えなかったモノは、八栄以外にも見えるひとがいる。


「八栄」

「は、はいっ」

「居場所は、結局のところ自分で決め、自分で作り上げるものだとわたしは思うが」


 まるで心を読んだかのように、まっすぐに見つめてくる眼差しを、八栄は同じように見返した。


「――お世話になります」


 そしてマカミの最後の遠吠えに向かって、微笑んだ。




 今日は『まよいが』のお話をしてやろうかね。

 迷い家というのはね、深い山の中にある不思議な家のことだよ。

 鉄瓶にはしゅんしゅんと湯が沸いて、いますぐにでも茶が飲めそうだ。鍋には美味しそうな煮物だってあるかもしれない。裏庭の鶏は卵を産んでいるね。

 なのに、誰もいない。そんな家のことさ。

 そこにあるものを何かひとつ、そう、お椀ひとつでもいいんだ。持ち帰れば大金持ちになれるそうだよ。

 何? 黙って持ってきては泥棒? 戸締まりをしないのは物騒だって? ああ、そうだね。もちろんそうだ。

 でもね、その家は誰でも入れるわけじゃないんだ。

 求めるひとにだけ、家は戸を開けてくれるんだよ。




 そんな祖母の昔話を、八栄は思い出していた――。

                                        了

この作品はこれで終了となります。

おつきあいいただきありがとうございました。


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