43.新たな一歩
わたくしはかつて戦場となった魔界の草原に足を運びました。今、ここには数件の真新しい木の家が建てられており、さらに立てかけの家が何軒も作られています。
宰相によって広げられた転移の門は高い木の柵で囲まれており、通りから区切られています。大きな通りには家を建てたり物を運んだりする魔族があふれかえり、とてもにぎわっていました。魔界では珍しいことに、様々な種族が入り乱れています。
そろそろ夕方ということもあって、周囲の家では食事の準備が始まっているようでした。小さいながらも活気にあふれた光景がそこにありました。
わたくしがそこに近づくと、周囲の魔族が作業の手を止めてにこやかに挨拶してくれました。わたくしも手を振って応えます。彼らの横を通り抜けて転移の門に近づき、そのまま足を止めることなくくぐり抜けます。
人間界はもうすぐ夜明け。かつて魔界に攻め入るべく宰相が軍を集めていたであろう草原は、小さな村に姿を変えていました。
建物の数は魔界側よりもずっと多く、民家だけではなく商店の類もちらほら見られます。村の外側には畑もあり、そちらの方からはもう目覚めたらしい牛や鶏の声が聞こえてきました。朝早くから仕事をする者たちが、周りを起こさないように静かに動いている気配もしています。
わたくしは物音を立てないようにしながら転移の門を離れ、村の近くの草原で、やがて来る朝日を待っていました。白んできた東の空に顔を向け、静かに目を閉じて。
少しずつ日が昇り、わたくしの頬に柔らかな日差しが優しく触れるのが分かります。そうやって朝日の温かさを感じていた時、急に目の前が暗くなりました。
そっと目を開けると、そこにはクリスが立っていました。かつて行動を共にしていた頃の旅装ではなく、ごく普通の町民を思わせる質素で動きやすそうな普段着です。彼の髪に朝日が当たり、夕日の色に輝いています。
彼はいつものように優しく笑うと、わたくしを促して草地に座らせました。彼もその隣に腰を下ろし、二人並んで朝日を眺めます。
心地良いそよ風に髪をなびかせながら、彼は話し始めました。
「何だか、君に会うのも久しぶりな気がするな」
「そうでしょうか? わたくしは先週もこちらに来ましたよ」
「前はずっと君と一緒だったからね、少しでも離れていると寂しいんだよ」
彼はそう言って、わたくしに微笑みかけました。こういった物言いは、初めて会った時からずっと変わっていません。
「もう、クリスったら。そんなに寂しいのでしたら、いつでも魔王城に遊びに来てくれていいのですよ」
「そうしたいのは山々なんだけど、中々ここを離れられなくて。こっちは人数が多い上にまとまりがないから、ちょっとしたもめごとが絶えなくて。毎日仲裁に走り回ってるんだ。そっちはどうだい?」
「こちらの村はゆっくりと大きくなっていますね。村に移り住んでいるのは元々人間に理解があって温厚な種族ばかりですから、さほどもめることもありません」
そう答えると、彼はそうか、と言って目を細めました。わたくしたちの間に心地良い沈黙が流れます。
しばらくそうしていたあと、彼がぽつりとつぶやきました。
「それにしても驚いたよ、君の前世がお姫様で、しかも陛下の末娘だったなんて」
「わたくしも驚いていたのです。自分が王家の姫であったという記憶はありましたが、もっとずっと昔のことだとばかり思っていたのです。宰相の話を聞いたときに初めて、父王がまだ生きていることを知ったのです」
「父王、か。陛下は君のことを娘のように思っておられるみたいだけど、君の方はどうなんだ?」
「正直なところ、実感はあまりないのです。わたくしにはオーレリアとしての記憶はありますが、あくまでわたくしは魔族のリュリですから」
そこまで言うと、わたくしはクリスに笑いかけました。彼は興味深そうに目を見張って、わたくしの次の言葉を待っています。
「それでも王がわたくしを思う気持ちも分かるのです。ですから、すっかり遅くなってしまいましたが、これから親孝行をしてみようかと思っています」
その言葉に、クリスもにっこりと笑いました。
「陛下もきっと喜ばれるよ」
「ありがとう。そう言えばクリス、わたくしも驚いたことがあるのですが」
「なんだい?」
「あなたがこの村を作ると言い出した時は、本当に驚きました。人間と魔族が交流できる場を作りたい、だなんて」
「そうかな。俺は奪われていた力を取り戻したおかげで、自然に消えてしまう転移の門を、消えないように固定することができるようになった。だったら、常に同じところに開いている転移の門の両側に村を作れば、転移の門を通じて人間と魔族が交流できるだろうって思っただけなんだ」
彼は何でもないことのようにさらりと言ってのけました。今まで個人間の交流くらいしかなかった魔族と人間が交流するための村を作る。それはとても困難なことなのに、彼はそう思っていないようでした。
「でも、そう言い出してからのあなたの行動ときたら。王に掛け合って村を作る許可をもらい、行き場を失った宰相の手下たちに声をかけて人を集め、あっという間に家を建てて畑を作って」
「それだけ迅速に進んだのは君のおかげでもあるんだよ。陛下は君と再会してから魔族に興味を持っておられるし、君が俺たちの命を救ったということも、王都では広く知られている。魔族や魔王に悪い感情を抱いている者は、今では随分と少なくなったんじゃないかな」
「それはよかったです。あなたが旅に出たころ、王都でのわたくしの言われ様はひどいものでしたから。このまま人間に誤解されたままというのも複雑な気分でしたので、誤解が解けたようで嬉しいです」
「うん。俺も頑張って君の本当の姿を広めて回ったからね。邪悪さなんてかけらもなくて、人間の身の安全を思いやる優しさと強さがあって、そして息を飲むほど美しい妖精の女王だって」
「……最後のものは、わざわざ広めて回るほどのことでしょうか?」
「そうでもないよ。俺が君の美しさに目を奪われたように、誰しも美しいものには興味をひかれるものなんだ。なんなら君が一度王都に来てくれれば、きっと君の誤解は完全に解けるよ」
クリスはとんでもないことを言っています。前から彼がわたくしに投げかける褒め言葉は過剰だと思っていましたが、まさかわたくしのいないところでも同じように話していたなんて。わたくしは彼に向かって眉をひそめてみせました。
「あなたがそのようなことを言いふらしているのなら、しばらく王都には近づけそうもありませんね」
「残念だな。この美しい魔王が俺の命の恩人だ、ってみんなに見せて回りたかったのに」
そうやって話すクリスには、すっかり以前の気安さが戻っていました。
「本当にあなたは、そういうところは変わらないのですね。ああそうです、誤解といえば」
わたくしはまた彼に笑いかけました。彼も楽しそうにこちらを見ています。
「今までわたくしたち魔族には、人間はわたくしたちをさげすみ迫害する危険な存在だからむやみに近づいてはいけない、という考えがあったのです。けれど、あなたたちのお蔭でその考えも変わりつつあります」
わたくしは人差し指を立て、彼の目の前で軽く振りました。
「もちろん、宰相のような人間もいます。けれどそんな人間ばかりではないということを、あなたたちはあの戦いを経て魔族たちに教えてくれました。初対面の魔族にも対等に接するエスメラルダ、無口ですが実直で信頼に足るイヴァン」
ここでわたくしは一度言葉を切りました。クリスは期待に満ちた目で微笑んでいます。わたくしが立てていた指で彼の胸を指し示すと、彼の微笑みがさらに大きくなりました。
「そして、敵であるはずの魔王と手を取りあって宰相を打ち倒し、その力で転移の門を開いて魔界の危機を救った勇者であるあなた」
わたくしはゆっくりと手を下ろし、体ごと彼に向き直りました。
「ありがとう。わたくしはあなたに会えてよかった。たくさんのものを見て、色々な思いを知って、世界が広がった」
彼もこちらを向きました。澄んだ空色の瞳が優しくきらめいています。
「お礼を言うのは俺の方だよ。ありがとう。君がいなければ俺はとっくに死んでいた。俺だけじゃない、たくさんの人間が宰相から解放された。全ては君が俺を救おうとしたところから始まった」
彼の手がわたくしの肩にかかり、そっと引き寄せられました。わたくしは彼の胸にもたれかかり、穏やかな鼓動とぬくもりを感じていました。今の幸せをそのまま表すようなぬくもり。言いようのない暖かい気持ちが胸に満ちていました。
温かな陽光が、わたくしたちを優しく包んでいました。
これで完結です。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




