1
右を見よう。
左を見たら、右を見よう。
何かがきっと、そこにいる。
目を合わせては、いけないよ。
話しかけては、いけないよ。
口をつぐんで、左を見よう。
左を見たら、右を見よう。
きっとそこには、何もいない。
前を向いて、真っ直ぐ歩こう。
わざわざ左を見たりせず。
――――静かな森の童謡集 (プリンシパル)
フランは僕の右を歩いている。だから、僕は左を見ないようにしていた。右にいるフランと話をしたあと、左を向いてしまったら。次にフランの方を見たときに、何かがそこにいることになってしまう。きっと目を合わせなければ大丈夫なのだとは思うけれど、それがフランの隣にいることを思うと、わずかな油断も許されない。
——―そう、思っていた。
無意識とは恐ろしいものだ。びちゃり、と濡れたものが落ちた音に反応して、僕は左を向いてしまった。
やってしまった。顔から血の気が引いていく。そんな僕を嘲笑うように、りんごとそっくりな顔がついたキノコがゆさゆさと体を振っている。茶色い柄に、真っ赤な半球の傘。その表面は粘液でたっぷりと覆われている。馬鹿っぽくて可愛い顔に、無性に腹が立つ。杖を一振りし、軽く吹っ飛ばしてやった。「モゲロンポヨ」とおよそ生物らしくない声を上げて、キノコの姿は森の奥へと吸い込まれていく。
「メルン先輩、なにかあったんですか?」
フランに袖を引かれる。右を向きそうになる頭を、ぐっと正面で固定した。
「変なキノコがいただけさ」
一生懸命、正面だけを見つめる。左右を見てしまうというのは、ほんの些細な気の緩みでやってしまうと、たった今僕は理解したのだ。習慣は勝手に息をする。
「なんか、不自然ですよ?」
「今僕は、右を向けないんだよ」
「首の筋を痛めたんですか?」
「いや、プリンシパルの童謡だよ。ほら、右を見て左を見てってやつ」
「あ……」
フランが強ばった声を出した。
「え、まさかと思うけど」
「どうしましょう、メルン先輩。さっき、右の方を見ちゃったんです。で、メルン先輩と話すのに今左を向いちゃったから……」
なんということだろうか。二人とも右を向けなくなってしまったのだ。頭を抱えたくなる。一度、二人で知っている限りの静かな森の童謡集を暗唱した方がいいかもしれない。僕が知っていてフランが知らないものもあるかもしれないし、その逆だってあるかもしれない。「知っているだろう」と思い込むのは危険だ。それに、暗唱することで、意識していなかったものを、再確認して気をつけられるようになる。まあ、それは後だ。今はとりあえず。
「と、とにかく前を向いて歩こう。右を見なければ大丈夫のはず」
「で、ですよね」
会話がぎこちなくなる。
とにかく右を見てたまるかと、僕は斜め左を見ながら、首に力を入れていた。それから三〇分ほど経ったとき。フランが情けない声を上げる。
「メルン先輩、なんかすごい首が凝るというか、痛いです」
「僕もだ」
不自然な角度で、普段力を入れないところを使っているので、首の周りが限界だった。肩凝りがひどいし、そのせいか頭も痛くなってきた。肩甲骨の上から頭のてっぺんまで、体が悲鳴を上げている。これ以上は保ちそうになかった。
やりたくはなかったけれど、最終手段をとるしかなさそうだ。
「フラン、合図して一緒に右を向こう。目が合わないうちに、何も言わずに、すぐに左を見るんだ。これでリセットできるはずだ」
「そうですね。それしかなさそうです」
「それじゃあ、やるよ。せーの」
二人で右を向いた。
「いっつ」
思わず声が、歯の隙間からこぼれた。首筋に痛みが刺さる。攣った、首を攣った。なんとも動かしがたい痛みに首を縛られる。まずい。さすがにこれはまずい……。
目の前に現れた大きな影が、その身を屈めた。魔物の、盛り上がった筋が、吐息が。強大な生命の気配がじっとりと降りてきて。その顔が、僕らと同じ高さにやってきた。
——オーガと目が合ってしまった。
全身が総毛立ち、嫌な汗がぶわりと吹き出す。心臓がびくんと飛び跳ね、呼吸が苦しくなった。
手を伸ばせば触れられる距離に。もう、フランの目と鼻の先に、巨大な赤鬼、オーガがいる。
身長は二メートル半を優に超え、筋肉の一つ一つが木のコブのように、固く大きく膨れ上がっている。浮き出た血管、釣り上がった三白眼、口元から覗く一対の牙、額の角。すべてが暴力の象徴であり、見るだけで押しつぶされそうなプレッシャーがある。
殺される。そう、本能が叫んだ。
事実、オーガはその凶暴さと物理的な強さ、そして、それを振るう見境の無さから、魔女すら避けて通ると言われている。
右手に握る杖が、なんとも非力なものに思えた。
最短で、最速の呪文を唱える。
「風よ、一つ」
どうだ。
杖の先端が光り、どん、という音とともに着弾の風が吹く。人ならば吹き飛ばされて転がるような威力の魔法だ。代償なく使える、最高の攻撃。のはずだが、オーガはびくともしていない。
オーガの右手がぴくりと動いた。咄嗟にフランを僕の胸元に引き寄せる。少しばかり乱暴だけど、力づくで背中側に引き回して庇う。たったこれだけのやり取りで、息が上がる。空気に混ざっているような死の匂いに、突然に訪れたそれに、煙を飲み込んでしまったように、胸が狭まる。
次の魔法を唱える暇もなく、オーガの右手が動いた。背筋が凍る。しかし、オーガはただその右手を、魔法が当たった胸元に当て、撫でさするだけだった。
「やっぱりこうなってしまう」
低く、ひび割れた声がした。僕は驚き、次の魔法を撃つことなく、眼前のオーガを凝視した。
「怖がらせて、ごめんなさい」
なんと、オーガはただ頭を下げたのだった。
ありえない。オーガが謝るなんて聞いたことがない。凶暴で、ほかの生き物を殴る対象としてしか見ていないのがオーガではないのか。
それに。
「人の言葉を喋れるのか……?」
「俺、言葉話せる」
「す、すごい。こんなオーガ初めて見ました……」
まだ信用できるわけじゃない。僕は警戒したまま、フランを自分の背中に隠れさせる。
「えーと、なんて言えばいいんだろう。まずは、こちらこそいきなり攻撃して申し訳ない。怪我はないかな?」
「ない。俺、このくらいじゃ全然怪我しない。昔はたくさん怪我したけど、最近何が当たっても痛くない」
「そ、そうか。それなら良かった」
やはり、オーガは圧倒的にタフネスだった。どうやら謝罪も受け入れてくれたようであり、今のところは温厚なオーガに思える。
「俺、人間に会いたかった」
オーガは言った。僕は再び警戒を強める。
「どうしてだい?」
「教えて欲しいことがある」
杖を握る手に汗がにじむ。返答次第では戦いになるかもしれない。そう思ったからだ。
「どうやったら、俺、泣けるんだろう」
何を言っているのか理解出来なかった。なける、なける、なく。泣く?
「泣くって、涙を流すことで合ってる?」
「そう。俺、何をしても涙流れない。どうしたら流れるかもわからない。教えて欲しい、どうすれば俺、泣けるようになる?」
それは、とてもオーガらしくない問いだった。
相変わらずの三白眼で、相変わらずの凶悪な面相だ。けれど、そこはかとなく、悲しみの色を宿していた。
どうやら僕の警戒は、杞憂だったらしい。
「どうして、オーガさんは泣きたいんですか?」
フランが訊ねた。オーガは言う。
「話すと、長くなる」
「僕らは、できるだけ早くに、この先にある開拓村につかなければいけないんだ。歩きながらでもいいかい?」
「そうする。荷物、持つ。俺、力持ちだから、手伝う」
一瞬、このオーガが荷物を持ち去ったら取り返せないなと思った。
「わぁ、親切なんですね。ありがとうございます」
と、フランが無邪気に差し出したものだから、すっかり毒気が抜けてしまった。リュックの中身なんて、どうせ開拓村でも買い戻せるようなものだ。僕もオーガの逞しい手に、大きなリュックを預けた。オーガは両手に軽々とリュックを持つ。やはり、人間では及ばない筋力だ。
オーガは口を開き、初めは躊躇いながらも、やがてしっかりとした声で語り始めた。
――巨体を誇るオーガにだって、子どもの時期がある。もちろん体は小さくて、力だって弱い。筋肉なんて全然ついていないし、背も低い。二〇年ほど前。この辺りの森に、人間の子どもとほとんど変わらないくらい、細っこくて弱いオーガがいた。
◇◇◇
薄暗い森の中は、ほっとするけど退屈だ。小さなオーガは、意味もなく柔らかい土を掘り返しながら、そう思っていた。香ばしい土の香りにまみれ、両手ですくい上げた土がパラパラと落ちるのを見て、子どもながらにため息をつく。
虫だっているし、カエルもいる。ときどきりんごの兵隊に出会うことだってある。けれど、物心ついてから三年間も同じ場所で遊んでいては、何もかも飽きてしまう。あてもなく、新しいものを探して森を駆け回るオーガは、ある日、とても明るい世界を発見した。
森の木々の切れ目。古びた分厚い木の葉に光を遮られない、青空が見える世界。オーガは、その余りにも広くて、明るくて、美しい世界に息を飲んだ。
オーガの冒険は始まった。同じ種類の草ばっかり生えた、平らな地面を歩いた。しゅっと刃物のようにとんがった、硬い葉っぱが細い脚に切り傷を作った。ひりひりと痛んだけれど、それもまた、オーガにとっては新鮮なことだった。
森ではとても深くまで掘らないと出てこない、石で出来た不思議な箱を見つけた。オーガに良く似た生き物が、そこから出たり入ったりしている。手は二本、脚も二本。後ろ足で歩いていて、背筋はぴんと伸びている。オーガは、仲間を見つけた気がした。
近くまで駆け寄り、大きく手を振る。
「おーい」
と、大きな声で呼びかけた。仲間たちは振り返り、オーガを見ると、叫んだ。
「オーガだ! 森からオーガが出てきたぞ!」
「まだ子どもだ。やっちまうか」
「親はいないのか!?」
「いない! 育つ前に仕留めるぞ!」
仲間だと思っていた二足歩行の生き物たちは、手に持っていた棒切れで、オーガをめっためたに打ち据えた。全身にあざを作り、真っ赤な体を青黒く染めながら、オーガは頭を抱えて命からがら逃げ出した。
どうして、こんな酷いことをするんだろう。
驚いた。悲しんだ。何より、あまりの痛みに焦っていた。
オーガは方向もわからずにがむしゃらに逃げ回り、とうとう、一つの石の箱に飛び込んだ。
「誰?」
まるで森のように、柔らかな細い光が差し込む箱の中には、オーガと同じくらい小さな生き物がいた。白くて柔らかそうで、オーガにはない長い金色の毛が頭から生えていた。
その生き物は、口元に手を当てて、目を丸くした。
「まぁ、あなた、オーガなのね。それに……ひどい怪我をしてる。村の人たちに叩かれたの?」
村の人たち、がよくわからなかったけど。オーガは「うん」と答えた。
「オーガは、人間の村に来ちゃダメだよ。みんな、オーガは怖いって言っているの。見つかってしまったら大変よ」
オーガはこのとき、初めて知った。自分はオーガという生き物であること。自分に良く似たこの生き物は、人間ということ。頭の毛が長くて、柔らかそうなこの子は、女の子であること。そして、オーガと人間は、仲良くなれないこと。
「おれ、きみと仲良くなれない?」
「わからないわ。大人はみんな、魔物と仲良くしちゃいけないって言うの。けど、私にはわからないわ」
女の子がそう答えたとき。石の箱――人間の家の外から、オーガを叩いた人間たちの声がした。
「ミサカ! ここに、オーガは来なかったか?」
「いけない。嘘をつかなくちゃ」
女の子は素早く、白い粉を舐めた。ちょっぴり大人びた声で答える。
「知らない、知らないわ」
「そうか。外は危ないから出たらダメだぞ」
「いい子にしてるわ」
「ああ、そうしてくれ」
オーガは小さな声で訊ねる。
「今、何をしたの?」
「お塩を舐めたのよ。嘘をつくときは、お塩を舐めて、舌を綺麗にするの。じゃないと、舌が真っ黒になっちゃって、嘘つきだとみんなに知られてしまうのよ。これ、大人になるまで内緒よ?」
「うん、わかった。大人になるまで、誰にも言わないよ」
オーガは、初めての約束をした。体はまだズキズキして痛かったけれど、叩かれて傷ついた気持ちは、もう痛くなかった。
女の子はそっと、細く開けた扉から外を見る。
「こら、ミサカ。外に出ちゃダメだと言ったじゃないか」
さっきの人間がまた来た! オーガの肩がびくんと跳ねた。
「う、うん。ごめんなさい。もう、オーガはいなくなったの?」
「こっちにはいないみたいだ。西の方を見てくるよ。全く、すばしこいやつだ。手を焼いているよ」
「そう……頑張ってね」
女の子は扉を閉めて振り返ると、なぜだか目から雫を落としながら言う。
「なんだか、とっても悪いことをしている気がするわ。私、村のみんなに嘘ついてる」
「どうして、目から水が出ているの?」
「これ?」
女の子は細い指で目元を拭った。
「これはね、涙って言うのよ」
それは、オーガが初めて見た涙であった。森では見ることが出来ないくらい、その雫は透き通っていた。光が祝福しているようだった。
オーガは、人間は泣くんだ、と知った。
女の子は外を素早く窺うと、オーガを手招きして言う。
「今よ。みんな、西に行ってる。左の方に真っ直ぐ走れば、きっと捕まらないわ!」
「ありがとう、本当に、ありがとう!」
オーガは女の子にお礼を言うと、さぁっと風のように走り出した。この村に来たときよりも、ほんの少しだけ、体が大きくなった気がした。
森に帰ったオーガは考えた。どうにか、女の子に恩返しをしたいと思ったのだ。けれど、女の子はオーガは村に来ちゃいけない、と言っていた。
オーガは考えることが苦手だった。勉強を教えてくれるお父さんやお母さん、神父さんがいないどころか、話し相手すらいないのだ。頭を働かせることは、あまりなかった。
物思いにふけるようになってから、一ヶ月が経った。それだけの間うんうんと悩んで、ようやく名案が思いついたのだ。何か、美味しいものを女の子の家の前に置いて、誰にも気づかれないうちに逃げる。夜中にやればバレないだろう。女の子を困らせることもないはず。
オーガは、森の中で一生懸命に果物を集めた。ときどき顔がついていたり、手足が生えていたりするので、慎重に分別した。
オーガは村の様子を、昼間のうちに見に行こうと思った。明るいうちによく見て、女の子の家を思い出しておかないと、間違った家の前に果物を置いてしまうかもしれないからだ。
木の陰から、そっと覗いた。妙なことに、村の大人たちはみんなで同じ種類の草が生えた場所に集まって、かがみ込んで何かをしている。それを見て、ふと思った。今なら、女の子の家に行っても、見つからないんじゃないか、と。
このひと月の間に、オーガは少しだけ大きくなり、前よりもずっと素早くなった。
「こんにちは」
ドアの前でそう言うと、あの女の子が出てきた。オーガとは違い、相変わらず背が小さくて華奢だった。
女の子は両手にたくさんの果物を抱えたオーガを見て、悲しそうに首を振った。
「ダメよ、来ちゃったら。その果物も要らないわ」
「どうして?」
「もうすぐ、私、お姉さんになるの。弟か妹が産まれるのよ。魔物が訪れた家で産まれた子どもは不幸になるって、神父さんが話していたわ。私はお姉さんだから、弟と妹を守らなきゃいけないの。だから、帰って、もう二度と来ないで。お願い」
「そんな……」
オーガは途方に暮れた。初めて出来た友だちだと思っていた女の子からの拒絶は、胸の奥にズキリと深い痛みを刻んだ。オーガは、やっとの思いで頷いた。
「……うん。ごめんなさい」
オーガが最後に見た女の子の顔には、二筋の涙が流れていた。何故だろうか、それは、オーガの胸の傷をより深くして、同時に、痛みを和らげてくれた。傷口に深く沁みこむ、薬のようで。癒しの泉の水のように。
森の中で、オーガは悲しみにくれていた。自分と人間の違うところを、幾つも幾つも数えているうちに、いつの間にか、季節は四つも繰り返されていた。
久しぶりに、人間の村を眺めようと、オーガは森の端に行った。もう、村の中に入ろうなんて思わなかった。村のすぐ近くまで行ったとき、オーガはとても驚いた。なんと、あの女の子が森の中に入っていたのだ。
女の子は、最後に話した日よりもぐっと大きくなっていて、金色の美しい髪は、腰にまで届いていた。かつてはなかった、愛らしさや親しみやすさとはまた違う、香るような魅力すらも、あの日と違うのだと感じさせた。オーガを見たその子は、か細い悲鳴を漏らした。オーガは気づいていなかった。たった四年の間に、自分はすっかり恐ろしい姿の魔物に成長していたことに。
「大丈夫? おれだよ!」
オーガは一生懸命、女の子の名前を思い出そうとした。笑顔を浮かべてみたり、四苦八苦しつつ、なんとか言おうとする。
「えっと、みさ、ミサカ。そう、ミサカ! おれ、助けて貰ったオーガだよ」
途端に絶望に染まっていたミサカの顔色が戻った。オーガに飛びつき、抱きついた。涙を流して、必死な様子でしがみつく。
「ああああぁぁ。怖かった、怖かったよ。うぁぁぁぁああ!」
オーガはどうしたら良いかわからずに、持て余した笑顔と手を、きょどきょどと動かしていた。
ひとしきり泣いたミサカは、涙を拭うと、鼻声で事情を話した。それは、とてもオーガにとっては不思議なものであった。
夢に、魔女が入り込んで追ってくる。
ミサカは両手では収まりきらないほどたくさんの言葉を使って、その恐ろしさを説明した。そして、それだけ恐ろしいものと戦っているのに、なおかつ、家族に魔女が牙を剥かないように、村を離れたという。
オーガは思った。
――きっと、こういう他の人を思い遣る優しさが、オーガにはなくて、人間にあるものなんだ。
そして、それがあれば、オーガも人間と生きていけるんじゃないか、と、微かな希望を見つけた。
「村にね、大きな枯れ木があったの。それに触れてしまったから、枯れ木の魔女にとりつかれてしまったのよ。枯れ木だって、もともとは森の一部だから、よく考えればわかることだったの。だから、どうか森にお帰りくださいって、私はやってきたの。それに、もし私が魔女になってしまっても、はじめから森にいれば、魔女は森から出てこないでしょう?」
ミサカの覚悟を知り、オーガは彼女を守り抜こうと決めた。
その晩、ミサカは、月の光が出来るだけ多く差す場所で、大きな枯れ木にもたれかかるようにして眠っていた。月の力の下、鬼は騎士のように跪き、彼女が夢の世界に足を踏み入れる瞬間を待っていた。
そして。
その場には、ただ、静かにときを待っていたオーガと、目を覚ましたミサカがいた。朝日が木々の隙間を縫って、暖かくミサカを照らす。
「大丈夫だった?」
「……うん。なんでだろう?」
理由はよくわからなかった。けれど、オーガの目には、さっきまでミサカがもたれかかっていた枯れ木に、おどろおどろしい気配が宿っているのがわかった。触れれば、その命無き表面にぐいと引きずり込まれそうな魔性が宿っていた。これが魔女か、とオーガは息を飲んだ。
そっと枯れ木から距離を置くように、二人は下がった。それに、なぜか枯れ木からも安堵の気配が伝わってくるようであった。
オーガに送られ、ミサカは村に戻った。心配した村人たちが、みんなで森に入ろうか相談をしていた。みんな、魔女と戦ってでも、ミサカを守ろうとしていたのだ。
また、涙を流すミサカに、森の陰からオーガは別れを告げた。
自分が出ていっても、ミサカの為にならない。そう思ったのだ。
「ありがとう。ありがとう。また会えたらいいね……」
「うん。一つだけ聞いていい?」
「何でも答えるわ」
「どうして、ミサカはそんなに涙を流すの?」
ミサカは恥ずかしそうに目を拭った。
「えーとね。嬉しくても悲しくても、不安になっても、安心しても、気持ちが大きく動いたら、勝手に溢れてきちゃうのよ」
「そうなんだ……人間って、すごいや」
オーガは、ミサカと別れてから、人と会わない日が続いた。森から出ようとも思わなかったし、村に行こうとも思わなかった。オーガと人間は相容れないのだから。
結局、わからないのだ。
どうして、ミサカはあれほど美しい涙を流すことが出来たのか。
きっと、涙のような結晶が出来てしまうくらい、人間の内側には、綺麗で大きく揺れる、こころの泉があるのだ。オーガはそう思うと、人間がとても羨ましかった。
せめて、自分も涙を流すことが出来たなら。
いや、せめて、涙の意味を心から理解できたなら。自分は、人間と仲良くなれるんじゃないか。
考え、感じ、ときには自分の体を傷つけた。それでも、オーガの目からは涙は流れなかった。
――泣きたいくらい、オーガは泣きたかった。泣きたいくらい、人恋しかった。
◇◇◇
それから、あまりにも人に出会わなかったせいで、言葉が片言になってしまったそうだ。
僕はオーガの思い出話に心を打たれていた。ただ魔物としてしか見ていなかった、さっきまでの自分が恥ずかしい。彼を打ち据えた人間と、何も変わらない。
涙くらい流れる。けれど、僕の中には彼が言うような、こころの泉があるとは思えなかった。きっと、そもそも彼のまぶたには、涙をつくる器官がないのだろう。それは生まれながらの残酷な違いで、僕はそれを指摘するのを躊躇った。
話を聞いていたフランが、足を止めた。
「オーガさん。しゃがんで貰えますか?」
首を傾げながらも、オーガはフランの前で膝をついた。フランは両手を大きく広げると、自分よりもずっと大きな赤鬼の体を、優しく包み込むように抱きしめた。
「これ、なにしてる?」
「抱きしめているんです。オーガさん、今まで、よく頑張りましたね」
「……うん」
フランは絡めていた腕をほどくと、オーガと顔を近づけ、にこりと笑った。まるで、清廉な春先のつぼみが開く瞬間のような、美しくも汚れなき笑顔だった。どきり、とはしない。それなのに、ただ心を惹かれる、魅力的な表情だ。
「オーガさん。涙と笑顔って、とっても似ているんです。笑顔も、心が大きく揺れたときに、思わずこぼれてくるんです。オーガさんは、笑えるんですよね? きっと、オーガさんはもう、人間の気持ちを理解出来ているんだと思いますよ」
「でも、まだ俺、人と仲良くなれない」
戸惑いながら、おろおろと首を振るオーガの手を取り、フランは力強く握りしめた。
「私が友だちです。今から仲良しです」
その言葉に。
オーガの瞳から、一筋、雫がこぼれた。
誰も予想できなかった、小さな奇跡。フランとオーガは抱き合い、喜びを分かちあっていた。
ひとりだけ輪の外にいるような疎外感を覚えながら、僕は一歩引いたところで、それを眺めていた。偽りの涙と笑顔を上手に浮かべられるようになってしまった大人は、そこに加わるべきではないと思ったからだ。
オーガに送ってもらい、森の端までついた頃には、太陽はうっすらと朱色を帯びて西の空で輝いていた。森から出ようとしないオーガと三人で、木々の間から空を見上げる。薄墨色の東の空へ、あたたかい赤みがするりするりと染みていく様子は、僕でさえ泣きたくなるくらい、別れにぴったりの哀しい美しさだ。
一歩、森の外に出ると、僕らはこの日初めて後ろを振り返った。
寂しそうな顔をしながらも、やっぱり森に入るオーガとの間に、それまでにはなかった壁のようなものを感じる。森は、人と魔物の領域を仕切るものなのだ。それにやるせなさを感じた僕は、右手を差し出した。不思議そうに僕の手を見るオーガに言う。
「握手だよ。大人の男がよくつかう、仲良くなろうっていう挨拶だ」
「握手……俺、握手、好きかもしれない」
僕の手を握り返し、オーガは照れくさそうに笑った。
「僕の名前はメルン。よろしく」
「私はフランです。改めてよろしくお願いしますね。荷物を持ってくれてありがとうございました。本当に助かりました」
「メルン。フラン。覚えた。俺、絶対に忘れない」
オーガはフランとも握手をしながら言った。
「どうしよう、俺、名前ない。名前ほしい」
「そうですね。ずっとオーガさんではちょっとよそよそしい感じがしますもんね。どうしましょう」
「名前、つけてほしい」
フランが何故か期待に満ちた目で僕を見上げる。一番仲良しなのは君なのだから、君がつけろ、と言いたい。僕は少しの間考える。
「……パストラル。羊飼いたちが、新天地を求めて旅をしていくのを指す言葉なんだ。この森に囲まれた不自由な世界で、自由に旅をすることが出来る君が、新たな楽園を見つけられるといいなって願いを込めたんだけど、どうだろうか?」
「パストラル。いい名前。俺、今日からパストラル。ありがとう」
オーガはおもむろに、自分の角を握りしめ、それをぼきりと折った。
「また、すぐに生えてくる。俺、あげられるものこれくらいしかない」
差し出された角は、僕の親指くらいの長さで、黒曜石のような艶やかな黒色をしていた。撫でると、ひやりと背筋が冷たくなるような、本能に直接響くような恐怖を秘めている。
――これが、鬼の角、か。
昔は魔除けとして重宝したという。ただの角の欠片であったとしても、そこらの魔物なら逃げ出すような威圧感が、オーガにはあるのだ。
「ありがとう。大切にしよう。きっと、パストラルがくれたこれは、僕らを守ってくれる」
「痛くはないのですか?」
「痛くない」
すっかり濃くなってしまった茜色の夕日が、森に斜めに差し込み、パストラルを照らす。
「またね」
フランが小さく手を振った。パストラルも、真似するように、ぎこちなく手を振った。
「またね」
「また会おう」
そして、僕らは半日間旅をともにした友だちに、別れを告げた。