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9話 私の居場所はここにある。


 バトラー王国という名の国家が地図から消え、レオナルドが自らの業に焼かれて表舞台から消え去ってから三ヶ月。

 大陸の情勢は、ガルディア王国を中心とした新たな秩序へと再編されつつあった。エリンの放つ強大かつ慈愛に満ちた聖魔力は、ガルディアの国境を越え、近隣諸国の荒廃した土地までも癒やし始めていた。今や彼女の名を知らぬ者はなく、大陸各地から「救済の聖女」をひと目見ようと、巡礼者や各国の使節が絶え間なく押し寄せていた。


 しかし、当のエリンは、相変わらず城の庭園で土に触れる時間を大切にしていた。


「エリン様、またそんなところにいらしたのですか」


 溜息をつきながら歩み寄ってきたのは、侍女長のアナだ。彼女の手には、豪華な装飾が施された招待状の束が握られている。


「アナさん。ふふ、この子たちが『喉が渇いた』って言っていたものですから」

「それは重畳ですが……今夜は建国以来最大、いえ、大陸史上最大の大晩餐会なのですよ? 各国の王族や名門貴族、果ては教皇様までお見えになるのです。主役が泥だらけでは、カイル陛下がまた『私の配慮が足りなかった!』と城を半壊させるほどの勢いで嘆かれますわ」


 エリンは苦笑しながら立ち上がった。カイルの溺愛ぶりは、以前にも増して凄まじいものになっていた。エリンが少し咳をすれば国中の名医が集められ、エリンが「あの果物が美味しそう」と言えば翌日にはその果樹園ごと買い取られる。


「分かりました。カイル様を困らせるわけにはいきませんね」


 エリンは、かつてレオナルドに「陰気だ」と言われた自分の笑顔が、今は鏡を見るたびに明るくなっていることに気づいていた。愛されることが、これほどまでに女性を、そして聖女を強く、美しく変えるものなのかと、彼女自身が一番驚いていた。


 夜。ガルディア王城の「大王冠の間」は、数千の魔石灯の光によって、昼間よりも眩い輝きを放っていた。

 ホールを埋め尽くすのは、各国の第一線で活躍する権力者たちだ。彼らの話題はただ一つ――本日、カイル王が発表するという「重大な決意」についてだった。


「聖女エリン殿下を、正式に第一王妃として迎えるのではないか」

「いや、もはや彼女は一国の王妃に収まる器ではない。大陸全土の『守護聖女』としての地位を確立するはずだ」


 そんな憶測が飛び交う中、ついに巨大な扉が開かれた。


 ファンファーレが鳴り響き、カイル王が姿を現す。漆黒の礼装に身を包んだ彼は、かつての「冷徹王」としての鋭さはそのままに、その奥底に深い慈愛を湛えた表情をしていた。

 そしてその隣には、純白のシルクに金糸で生命の樹を描いた、息を呑むほどに美しいドレスを纏ったエリンがいた。彼女の歩みに合わせて、大気中の魔力がキラキラと光の粒となって舞い踊り、参列者たちはその神々しさに思わず跪いた。


 カイルは演壇に立つと、会場全体を見渡した。


「諸卿。今夜、集まってもらったのは、ある報告と……一人の男としての切実な願いを皆に証言してもらうためだ」


 会場が静まり返る。カイルはエリンの正面に向き直った。


「エリン・クロムウェル。君が我が国に来てから、私は毎日、神に感謝している。君の力は大地を救い、君の笑顔は私の凍てついた心を救った。君がいなければ、今のガルディアも、今の私も存在しない」


 カイルの声は、魔法によってホールの隅々まで、そして城外に集まった民衆にまで届くように響いていた。


「かつて、君を『無能』と呼び、居場所を奪った愚か者がいた。……だが、私はここで全世界に宣言しよう。君こそが、この世界で最も尊く、最も代えがたい存在だ。君の居場所は、誰かに与えられるものではない。君がいる場所こそが、人々の集う聖域となるのだ」


 カイルは、おもむろにその場に膝をついた。

 最強の軍事大国の王が、他国の使節たちの前で、一人の女性に跪く。それは常識では考えられない、衝撃的な光景だった。カイルは懐から、一つの小さな箱を取り出し、それを開いた。


 そこにあったのは、王冠でもなければ、宝石でもなかった。

 それは、エリンが一番大切にしていた「最初にカイルと出会った時に拾った花の種」を象った、魔石の指輪だった。


「エリン。私は君を、王妃という肩書きで縛りたくはない。君が望むなら、世界中のどこへでも行くといい。……だが、もし許されるなら。私の隣を、君の永遠の居場所にしてくれないだろうか」


 カイルの瞳は、まるで少年のように真っ直ぐで、そして切実だった。


「私の命が尽きるまで、いや、尽きた後も、君を愛し、守り抜くことを誓う。エリン……私の妻になってほしい」


 エリンの目から、大粒の涙が溢れ出した。

 かつて、夜会で衆人環視の中、「お前の居場所はない」と罵られた記憶。雨の中、泥にまみれて絶望した記憶。そのすべての痛みが、カイルの温かな言葉によって、黄金の光へと昇華されていく。


「……はい。カイル様」


 エリンは震える声で答えた。


「私を救ってくれたのは、聖女としての力ではありません。カイル様、あなたの優しさです。……私の居場所は、他でもない、あなたの隣にしかありません。喜んで、お受けいたします」


 エリンがカイルの手を取ると、二人の手から眩いばかりの光が放たれ、城全体を包み込んだ。それは、契約の魔法よりも強く、神の祝福よりも確かな、魂の絆が結ばれた瞬間だった。


 会場からは、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。

「おめでとうございます!」「真の聖女様に、真の王の祝福を!」

 かつてエリンを捨てたバトラー王国の生き残りである小貴族たちも、その場に平伏し、自分たちがどれほど大きなものを手放してしまったのかを思い知り、涙を流していた。


 カイルは立ち上がると、エリンを力強く引き寄せ、参列者の前で深く口づけを交わした。


「愛している、エリン。君の幸せこそが、私のすべてだ」

「私も愛しています、カイル様。……これから、たくさんの花を咲かせましょう。二人で、この広い世界に」


 窓の外では、王都中の民衆が掲げる提灯の光が、まるで地上の星空のように揺れていた。

 不幸だった少女は、もうどこにもいない。

 そこには、愛する夫に守られ、世界を優しく照らす、幸福な一人の女性の姿があった。



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