【寄り道】第1話「本通りを外れる」
【冒頭】
この物語は、『彼女の時空』の世界からの小さな寄り道です。独立した短編としても読めます。二巻と三巻の幕間にも置かれています。カノジョ。スター。カレシ。 知らなくても構いません。本通りから少し外れた道を、どうぞ。(全四話)
第1話「本通りを外れる」
中継セクターの片隅で、カノジョがラムネを一つ溶かしていた。色が変わるまで待って、舌の上に乗せる。甘さは、すぐに消える。何かを待っているようで、何も待っていない時間だった。彼女は、もう一つラムネを取り出そうとして、やめた。今日は、これでいい気がした。
「ねえスター。今日、表のアーカイブ見に行かない?」
スターはギターを膝に置いたまま、首を横に振った。
「表は整理されすぎてる。音がしない」
「音がしないの?」
「ああ。データは揃ってる。でも、匂いも温度もない。色も、均一だ」
カノジョは、その言葉を聞いて、少しだけ考えた。表のアーカイブは、確かに綺麗だった。でも、綺麗すぎて、何かが足りない気がしていた。
「じゃあ、裏?」
「裏は、残ってるらしい」
「何が?」
「……分からない。分からないまま残ってるもの」
二人は、0612アーカイバの公開区画を抜けた。照明は白く、床は磨かれている。誰もが通る道。誰もが使うデータ。すべてが整然と並んでいる。カノジョは、その並び方を見ながら、少しだけ早足になった。
公開区画の端に、古い保守用の通路があった。鍵はかかっていない。誰も使っていない。ただ、そこにあるだけの通路。
カノジョが先に足を踏み入れる。照明は落ちかけ、壁には剥がれたラベルが点々と残っている。床には、長い間、誰も通っていないことを示す埃が積もっていた。
カノジョが歩くと、足音が変わった。表の廊下とは違う。少しだけ湿った、柔らかい音。スターが後ろからついてくる。ギターのケースが、壁に軽く当たる音がした。
「……ここ、誰も来ないの?」
「公式の地図には載ってないからな」
「じゃあ、私たちが来たことは?」
「ノイズだよ。残るか、消えるか、分からない」
カノジョは、その言葉に何も言わなかった。でも、その「分からない」という言葉が、なぜか気に入った。
足元の埃を靴で払うと、小さな光の粒が舞い上がった。カノジョは、しゃがみ込んで、その粒を指先でそっとつまんだ。光は、かすかに明滅している。冷たくもなく、熱くもない。ただ、そこにある。
「これ、データ?」
「ノイズだ。誰かが消したか、残したか、分からないやつ」
スターがその粒を指でつまむ。
一瞬、遠い子どもの声のような音がして、すぐ消えた。カノジョは目を細めた。その音は、どこかで聞いたような気がした。でも、思い出せない。思い出せないまま、彼女はその粒を指先で転がした。
「……おいしい匂いがした」
「俺には、昔の曲のサビに聞こえた」
「同じものなのに、違う感じ方をするんだね」
「ノイズは、そういうものだ」
「ねえ。これ、持って帰っていいのかな」
「分からない」
「じゃあ持って帰ろう」
二人は顔を見合わせ、その粒を分けてポケットに入れた。提出はしない。報告もしない。ただ、持っておくことにした。
スターが歩きながら、その粒のことを考えていた。音がしたのに、記憶には残らない。そんなノイズが、この世界にはまだあるらしい。
通路の奥で、風ではないものが通り過ぎた気がした。振り返っても、誰もいない。カノジョは、その気配を感じて、少しだけ足を止めた。
「……今、何かいた?」
「いたかどうかも分からないのがノイズだ」
「それもそうだね」
二人は、本通りの光を背にして、さらに奥へ歩いていった。足元の埃が、また一つ、光の粒になって舞い上がる。カノジョは、それを無視しなかった。彼女は、その粒がどこへ行くのか、一瞬だけ目で追った。粒は、通路の壁に吸い込まれるように消えた。それだけのことだ。
スターが、歩きながらギターの弦を一本だけ弾いた。低い音が、通路の奥へ吸い込まれていく。その音は、どこにも届かない。でも、確かに、そこにあった。
【非公式観測記録】
対象:カノジョ/スター
場所:アーカイバ裏道(非公開区画)
処置:未分類ノイズを個人保管
観測継続。




