第二十三話:悪意は夏と一緒にやってくる
「お待たせしました」
扉を開けて、真夏が出てきた。
ふっと、タオルと同じ柑橘系の匂いが鼻先を通り過ぎる。
真夏は少し厚手の半袖パーカーを羽織り、どこか恥ずかしそうに俯いている。
寝坊のことを気にしているのだろうか。
あまり突っ込んでも、藪蛇だろう。
そう思って、話題を変える。
「ちなみに、モーニングコールって和製英語らしいぞ。本場じゃ伝わらないから気をつけろよ。wake-up callが正しいんだって」
「知らないわよ、そんなこと」
どうやら、俺はまたコミュニケーションをミスったらしい。
これ以上何か言うと、さらに墓穴を掘りそうなので黙ることにした。
そのまま、じいちゃんと菖蒲さんと食卓を囲んだ。
真夏とは、ほとんど会話がない。
昨日あれほど食欲がなかったはずなのに、今は箸が止まらない。
いわゆる、コンビニ飯やシリアルを主食にしていた俺には、菖蒲さんの朝ごはんは美味しすぎる。
焼き鮭をほぐして、ご飯を口に運ぶ。
豆腐とわかめの味噌汁を飲んで、またご飯を食べる。
身体というのは、随分と現金なものだ。
「……和ちゃん」
「ん?」
菖蒲さんが、俺の茶碗を見ている。
「おかわり、いる?」
「お願い」
「ふふ。よかった」
その一言に、少しだけ胸が詰まった。
たぶん、菖蒲さんが見ているのは、俺の食欲だけじゃない。
昨日の夜、何も食べられなかった俺が、今こうして普通に飯を食っている。
それだけで安心してくれているのだろう。
本当に心配をかけてしまった。
「真夏ちゃんも、お味噌汁いる?」
「……お願いします」
「はい、どうぞ」
真夏が差し出した汁椀に、菖蒲さんが味噌汁を注ぐ。
しばらくは、箸の音だけが食卓に響いた。
ときどき、じいちゃんがする冗談みたいな話が心地よかった。
こういう時間は、嫌いじゃない。
誰かが無理に会話をするわけでもない。
沈黙を気まずいと思う必要もない。
久しぶりに囲む家族との朝食。
それだけなのに、妙に落ち着いた。
「そういえば」
食べ終わったじいちゃんが、食器を片付けながら聞いた。
「今日も勉強するんか?」
「うん。そのつもり」
俺が答えると、真夏がちらりとこちらを見る。
「……昨日の続き?」
「うん」
「……やる」
小さな声だった。
でも、昨日までとは少し違う。
俺から言われるのを待っているんじゃない。
自分から、やると言った。
「じゃあ、食べ終わったらやろうか」
「うん」
真夏は短く返事をして、残っていたご飯を口に運んだ。
ーーー
朝食を終えると、昨日と同じように勉強道具を広げた。
ただし、昨日とは少し違う。
今日は真夏のほうから机の上に教材を並べている。
ノート。
筆記用具。
そして、昨日俺が渡した大量のプリント。
「全部やるの?」
「……駄目?」
「いや。むしろ偉いけど、無理してない?」
そう言うと、真夏が少しだけ眉を寄せた。
「……子ども扱いしないで」
同い年の女の子を、わざわざ子ども扱いするつもりはないんだけど。
「してないよ」
「してる」
断固否定しても、彼女の中では何か引っかかったらしい。
少しだけ眉間に皺を寄せている。
「じゃあ、昨日の復習から」
「……うん」
最初の問題を指差す。
「これ、解いてみて」
真夏はシャープペンを持ち、問題文をじっと見つめた。
昨日なら、ここで手が止まっていた。
けれど、今日は違った。
少し考えてから、ゆっくりと式を書き始める。
俺は何も言わずに見ていた。
途中で口を挟みたくなる。
でも、我慢する。
見守るのは得意だ。
一生懸命な人が、自分で答えに辿り着くのを待つのは嫌いじゃない。
真夏は、昨日教えたことを自分で思い出そうとしている。
やがて、真夏が答えを書いた。
「……できた」
「うん」
ノートを覗き込む。
「合ってる」
真夏が顔を上げる。
ほんの少しだけ、目が明るくなった気がした。




