第一話 夜担当の「俺」は、字が汚い
朝、目が覚めて最初に視界へ飛び込んできたのは、俺の机の上にピラミッドめいた安定感で積み上げられた、カップ焼きそばの空き容器三つだった。しかも微妙に配置が整っているあたり、ただの食い散らかしではなく、どこか作為的な美意識すら感じるのが腹立たしい。
最初に、はっきり言っておく。
俺は食っていない。
いや、正確さを重んじるなら、俺の“身体”は食ったのかもしれない。というか、状況証拠だけを冷静に並べていけば、むしろ食っていないと主張するほうが無理筋ですらある。胃の奥にはべっとりとした濃厚ソースの余韻が居座っているし、唇の端には申し訳程度に青のりが付着しているし、スマホの歩数計アプリは無慈悲にも午前二時ちょうどにコンビニまでの往復ルートをきっちり記録していた。ここまで証拠が揃えば、もはや弁解の余地はない。警察に通報されたら、俺は間違いなく現行犯逮捕だろう。罪状は深夜カップ焼きそば三連食および翌朝の胃もたれ誘発という、社会的にも生理的にもかなり重めのやつである。
それでも、俺は断固として主張する。
――俺は、食っていない。
なぜなら俺、雲隠零には、夜の間の記憶がまるごと存在しないからだ。
目覚ましが鳴る少し前、まだ薄暗さの残る部屋の中で、俺は布団の中からゆっくりと上体を起こした。起き上がった瞬間に感じたのは、まるで他人の身体を借りているかのような鈍い重さと、どこか芯のずれた違和感だった。寝起き特有のだるさとは明らかに質が違う。頭の奥がわずかに霞んでいるのに対して、身体のほうだけが妙に活動済みの疲労を抱えている、そんなちぐはぐな感覚だ。
そして視界の端に入り込んできた自分の前髪を見て、俺は小さく眉をひそめる。
……長い。
どう考えても、昨日より主張が強い。目にかかる長さが明らかに増しているし、指でつまむと妙にさらさらしていて、寝癖というより整えられたあとの名残みたいな落ち着き方をしている。寝ている間に髪が伸びるなんてホラー現象、普通なら悲鳴のひとつも上げる場面だが、残念ながら俺にはそこまでの新鮮な驚きはない。
なにせ――
胸がある。
これについては、もはや毎朝の定例報告みたいなものだ。布団の中で上体を起こしたとき、視線を少し落とせば、そこにあるはずのないはずの柔らかな膨らみが、きっちりと存在を主張している。重力に従って自然に形を変えながら、しかし確実に“そこにある”とわかる質量で、俺の現実認識に毎朝地味なダメージを与えてくる。
もっとも、いちいち「なんでだよ!」と叫んでいては身がもたないので、今ではもう悲鳴も出さない。慣れたというよりは、単純にコストパフォーマンスの問題だ。朝の限られたエネルギーをそんなことに使うくらいなら、顔を洗って現実をやり過ごすほうがよほど建設的である。
……とはいえ。
夜の記憶がないうえに、起きたらカップ焼きそば三連食の痕跡と身体の変化がセットで置いてあるこの状況、どう考えても「はいそうですか」で流していいラインはとっくに踏み越えている気がするのだが。
まあ、それでも。
とりあえず一つだけ、はっきりしていることがある。
――昨日の俺は、俺の知っている限りかなり自分勝手で、ろくでもないということを。
俺の体は、昼は男で、夜は女になる。
こう言うと、まるでどこかの怪奇現象か、深夜アニメの第一話で雑にぶち込まれる特殊設定みたいに聞こえるが、残念ながらこれは比喩でもなければ、俺の精神状態が生み出した詩的表現でもない。事実として朝になると俺――雲隠零がこの体で目を覚まし、夕方を過ぎて夜の気配が濃くなる頃には、彼女――雲隠零子が同じ体で目を覚ます。太陽が出ている間は俺の時間で、街灯がつき始めたあたりからは零子の時間。人体をシフト制で運用するな、と言いたい。
俺たちは同じ体を使っている。とはいえ、完全に同じ見た目というわけでもなく、時間帯によって顔つきも声も骨格も、それなりに都合よく、あるいは都合悪く変化する。日中の俺は、平均より少し線が細く、体育の授業では筋肉質な連中の横に立つと若干影が薄くなるタイプの男子高校生だ。身長も声も態度も、まあ頑張れば普通の範囲に収まる。一方夜の零子は、目つきが妙に鋭く、髪が長く、黙って立っているだけで夜道の不良が少し道を譲りそうな雰囲気を持った女子である。本人は共有ノートで「ボーイッシュで通せる範囲のイケてる女」と主張していたが、俺から見れば、ボーイッシュという言葉にヤンキーの皮ジャンを着せ、さらにコンビニ前でしゃがませたような存在だった。
ここで大事なのは、俺たちが互いに直接会話できない、という点である。
心の中にもう一人の自分がいて、「やれやれ、困った相棒だぜ」だの「今だけは力を貸してやる」だの言いながら、脳内会議で格好よく問題を解決する展開はない。そんな便利機能が搭載されているなら、俺はまず真っ先に零子へこう言う。カップ焼きそば三つはやめろ、と。夜中の二時にコンビニへ行く行動力は認めるが、毎晩毎晩、俺たち共有の胃袋をフードファイター養成所みたいに酷使しないでほしい。翌朝に胃もたれとソース臭だけを相続する俺の身にもなってほしい。
俺たちにできることは、ただ一つ。
メモを残すことだけだ。
机の真ん中には、いつから使い始めたのかもはや曖昧な、少し角の潰れた大学ノートが一冊置かれている。表紙には黒の油性ペンで、妙に圧の強い文字がでかでかと書かれていた。
『共有ノート。勝手に捨てたらマジでしばく』
しばく相手、俺しかいないんだけどな。
俺は寝起きの重いまぶたを半分だけ開けたまま、その物騒なノートを開いた。開いた瞬間、紙面いっぱいに暴れ回る文字の群れが目に飛び込んでくる。誤解のないように言っておくが、読めないわけではない。読めないわけではないのだが、零子の字は、世界一やる気のあるミミズが全力で運動会を開催したような形をしている。文字の一本一本に無駄なガッツがあり、払いも跳ねも自己主張が強すぎて、もはや日本語というより喧嘩腰の暗号だった。
俺の字だって、別にきれいとは言えない。授業中に急いで取ったノートなど、後から見ると自分でも若干首をかしげることがある。しかし少なくとも、俺の字には日本語として社会に出る気がある。人に読まれる可能性を、ぎりぎり意識している。
だが零子の字は違う。
あいつの字は、社会とケンカしている。
最新のページには、赤ペンでこう書かれていた。
『おはよー、昼の俺。冷蔵庫のプリン食った。うまかった。あとバイト先で新人入るらしい。店長がテンパってた。制服洗っとけ。あと体重計乗るな。絶対乗るな。乗ったら呪う』
――と、紙面いっぱいに、妙に勢いのある筆圧で殴り書かれていた。
「うまかった」で終わっていないあたりが腹立たしい。食レポをするならするで、せめて種類とかメーカーとかカラメルの苦味具合とか、もう少し有益な情報を残してほしい。あと「呪う」はやめろ。共有ノートに呪詛を書き残すな。
俺はしばらくそのページを無表情で見つめたあと、静かにノートを閉じた。
そして、心の中で結論を出す。
体重計に乗るなと書かれたら、乗るしかない。
これは反抗心とか好奇心とか、そういう青臭い感情ではない。生活管理である。現状把握である。共同生活を送る上での最低限のリスクマネジメントだ。相手が「絶対」と強調してきた時点で、それはもう確認事項に昇格する。むしろ乗らないほうが不誠実と言ってもいい。
俺はベッドから降り、床に足をつけた瞬間の微妙なだるさを感じながら立ち上がると、そのまま部屋を横切った。途中で鏡の前を通り過ぎるが、わざと視線は合わせない。こういうのは一度立ち止まると、無駄に現実確認をしてしまって時間を食う。まずは洗面所だ。現実は逃げない。なら後回しにしても問題はない。
洗面所の前に立ち、蛇口をひねる前に、ようやく俺は鏡へと目を向けた。
そこに映っていたのは、見慣れた“朝の俺”だった。
ちゃんと男に戻っている。夜の零子の面影は、少なくとも外見上はきれいさっぱり消えていた。髪は耳にかからないくらいの長さに収まり、寝癖が多少跳ねている以外は、いつもの適当な男子高校生の頭だ。肩幅も自分の感覚と一致しているし、首筋から鎖骨にかけてのラインも、昨晩までの妙な丸みはない。もちろん、さっきまでちゃんと膨らんでいた胸もない。確認するまでもなく平坦だし、触っても変な感触は返ってこない。喉仏も、鏡の中でしっかりと主張している。
つまり、見た目だけ切り取れば、完全に昨日までと同じ俺である。
……科学的に考えるとおかしい。
というか、どういう角度から考えてもおかしい。医学的にも、生物学的にも、倫理的にも、ついでに常識的にもアウトだろう。もしこの現象を保健室の先生に真顔で相談したら、おそらく先生は一瞬フリーズしたあと、「ちょっと横になろうか」と言って俺ではなく自分のほうがベッドに倒れ込むと思う。カウンセリング案件どころか、研究対象としてどこかの大学に送られる未来しか見えない。
だが、そんな“おかしさ”とは別に、俺の中にはずっと前から、言葉にしづらい違和感が積み重なっていた。
小さい頃から、どうにも辻褄が合わないことが多かったのだ。
たとえば幼稚園の頃。寝る前に、俺はお気に入りだったティラノサウルスのフィギュアを、いつものように枕元へ並べてから布団に入ったはずだった。翌朝、目を覚まして最初に見たそのフィギュアは、なぜか首元にピンクのリボンを結ばれていた。しかもただ巻いただけじゃない。蝶結びが妙に綺麗で、園児の適当な手つきでできるレベルを明らかに超えていた。
小学校に上がる頃には、その違和感はもう少し具体的な形を取るようになる。自分の持ち物に、見覚えのないヘアピンが紛れ込んでいることが増えた。最初は拾ったのかと思ったが、そういうレベルではない頻度で増えていく。ランドセルの底から、なぜか少女漫画の付録のキラキラした小物入れが出てきたこともある。あのときの俺は、しばらく本気で妖精か何かに取り憑かれているのではないかと疑った。
母さんにそのことを話しても、「零、また変な遊びしてるの?」と笑われるだけで、深刻に取り合ってもらえなかった。確かに第三者から見れば、男子小学生がこっそり女の子っぽい遊びに興味を持っているようにも見えるのかもしれない。だが当時の俺には、そのどれにも心当たりがなかった。少なくとも、自分の意思でやった記憶は一切ない。
だから最初は、俺自身もそういうものだと納得しようとした。
つまり、自分は寝ぼけて何かをしているのだ、と。
夢遊病。夜中に無意識のまま起き上がり、部屋の中を歩き回り、意味のわからない行動をとる症状。テレビか何かで見たことがあったし、「ああ、あれか」と思えば、一応の説明はつく。夜中に起きて、何かを食べて、何かを買って、変なものを持ち帰る。ここまではまだ理解できる範囲だ。
……だが、その範囲はわりとすぐに逸脱した。
たとえばある朝、近所で飼われている柴犬の首輪に、「舎弟一号」と油性ペンで書かれた紙の名札がぶら下がっていたことがある。しかもご丁寧にラミネート加工までされていた。誰がやったのかと近所でちょっとした騒ぎになり、俺は心の中で全力で謝罪した。夢遊病の行動範囲としては、あまりにもアグレッシブすぎる。
決定的だったのは、小学四年生の夏休みのことだった。
あの日の朝のことは、今でもやけに鮮明に覚えている。蝉の声がやたらとうるさくて、カーテンの隙間から差し込む光がやけに強くて、寝起きの頭にじわじわと熱がこもっていくような、いかにも「夏休みの朝」だった。そのくせ、机の上に置かれていた一枚の紙だけが、その空気から完全に浮いていた。
白いコピー用紙。折り目もなく、やけにきれいに置かれている。
そしてその中央に、太い黒ペンでこう書かれていた。
『お前だれ?』
その一文を見た瞬間、俺はかなり真剣に泣いた。
いや、誇張でもなんでもなく、本当に涙が出た。状況としてはホラー映画の導入そのものである。ここで「気のせいか」とか言いながら二度寝した主人公は、だいたい三十分後にとんでもない目に遭う。映画だったら、このあと家の中の電気が勝手に点滅して、冷蔵庫が開いて、天井裏から何かが這い出てくる流れだ。
だが現実の俺は、小学四年生である。
泣くしかなかった。
「なにこれ……」と情けない声を出しながら、俺は机の前に座り込み、紙を持つ手を震わせた。怖いのか、混乱しているのか、自分でもよくわからない。ただ一つ言えるのは、このまま何もしないのはもっと怖い、ということだった。
だから俺は泣きながらペンを握り、その紙の裏に返事を書いた。
『雲隠零。ここ俺の部屋』
自分でも驚くくらい、字が小さくて震えていたと思う。まるで「これ以上関わらないでください」とでも言いたげな、弱気な筆跡だった。
そして――
夜の誰かは、翌朝、きっちり返事をくれた。
机の上、同じ場所に、同じ紙が置かれていて、その下に新しく書き足された文字があった。
『は? ここあたしの部屋でもあるんだけど。あと字ちっさ。男ならもっとでかく書け』
……理不尽すぎるだろ。
初対面の相手に対して、第一声が「誰だお前」で、返事をしたら「字が小さい」とダメ出し。しかも“あたし”ときた。つまり相手は女だと自己申告している。情報量が多すぎるし、方向性もだいぶおかしい。
だが、そのときの俺は、怖さよりもむしろ別の感情に引っ張られていた。
――返事が来た。
得体の知れない相手が、確かに存在していて、しかもこちらの言葉に応答してくる。その事実が、恐怖と同じくらい、いや少しだけそれを上回る形で、俺の中に奇妙な納得感を生んでいた。
その日から、俺たちの奇妙な交換日記が始まった。
ノートを一冊用意したわけではない。最初はそのコピー用紙一枚から始まり、やがて大学ノートに移行し、気がつけば「共有ノート」という形で固定化された。ルールは単純だ。俺は昼の出来事を書く。零子は夜の出来事を書く。それだけ。
俺は学校のことを書く。授業で当てられて答えられなかったこととか、給食のデザートがじゃんけんで取れなかったこととか、体育で転んで膝をすりむいたこととか、母さんの機嫌がやたらいい日と悪い日の違いとか、冷蔵庫の中身が減っている理由の推測とか、宿題の締め切りが迫っている焦りとか、近所のスーパーで卵が安かったとか、そういうどうでもいいけど確実に「俺が生きている証拠」になる情報を、できるだけ丁寧に書き残した。
零子は、夜のことを書く。バイトの話、コンビニで見つけた新商品の感想、駅前で絡んできた酔っ払いを睨みつけたらあっさり引いた話、深夜ラジオに送ったメールが読まれてテンションが上がった話、街灯の下に集まっていた猫たちが妙に統率の取れた動きをしていてちょっと怖かった話。文章は荒いが、妙に臨場感がある。読んでいると、自分が知らない時間に、自分の体が別の世界を歩いている実感がじわじわと湧いてくる。
同じ体を使っているのに、俺たちは同じ時間を生きていない。
俺が眠ると、零子の一日が始まる。俺の意識が落ちたその先で、彼女は普通に目を覚まし、普通に外へ出て、普通に誰かと関わり、普通に何かを食べて、普通に笑ったり怒ったりしている。
そして零子が眠ると、俺の一日が始まる。
俺たちの人生は、どこにも同時進行する時間がなくて、ただノートの罫線の上だけで、断片的に交差する。ページをめくるたびに、「ああ、こいつはちゃんと存在しているんだな」と確認するような、そんな関係だ。
それが普通になってしまったのだから、慣れというのは本当に恐ろしい。
最初は泣いた。混乱した。怖かった。けれど、毎日ノートに言葉を書き、毎日そこに返事があって、気づけばそれが当たり前になっていた。違和感は消えないまま、生活の一部として固定される。人間は、思っている以上に何にでも適応してしまう生き物らしい。
――そして今。
俺は洗面所で、体重計の上に足を乗せた。
冷たいプラスチックの感触が足裏に伝わり、わずかな間を置いて、電子音とともに表示が切り替わる。その一瞬が、妙に長く感じられた。
表示された数字を見て、俺は静かに深呼吸した。
……なるほど。
これはたしかに、「乗るな」と言いたくなるやつだ。
「零子……お前、昨日だけで何を食った」
洗面所の鏡越しに、自分の顔に向かってそう呟く。問いかけている相手は不在だが、返答はだいたい予測できているし、なにより証拠があまりにも揃いすぎている。
答えは、すでにノートと現場に転がっている。
カップ焼きそば三つ。これは机の上のピラミッドが雄弁に語っている。さらに冷蔵庫のプリン一個。これもさっき本人が自供していた。そして――ゴミ箱を漁った結果、くしゃくしゃになったレシートが一枚。印字された時刻は午前二時十二分、購入品目には「からあげ(2個)」の文字。しかもレジ袋の奥から、チョコバーの包み紙がひょっこり顔を出してきたときには、さすがの俺も無言になった。
……罪が増えた。
しかも単なる過食ではなく、見事なまでの高カロリーコンボである。炭水化物、糖質、脂質の三点盛り。栄養バランスという言葉に対する挑戦状みたいな食事内容だ。もはや食事というよりイベントである。深夜二時に開催される個人主催のフードフェスティバルだ。
俺は蛇口をひねり、勢いよく水を出して顔を洗いながら、鏡の中の自分をじっと睨みつけた。冷たい水が頬を打ち、さっきまでの眠気が少しずつ引いていく。その代わりに浮かび上がってくるのは、共有者に対する理不尽な怒りと、どうしようもない諦めの中間あたりの感情だ。
「今日の夜、絶対に苦情を書く」
口に出して宣言してみるが、自分でもその効果の薄さはよくわかっている。
これまで何度も同じことをやってきた。食いすぎ、散らかしすぎ、無駄遣いしすぎ。そのたびに俺はノートへ苦情を書き、零子は一応それに対して返事をくれる。
たとえば、こんな感じだ。
『悪かった。もうしない。たぶん』
……この「たぶん」が危険物だ。
言葉としては謝罪の形をとっているくせに、核心部分だけしれっと保留している。「もうしない」と言い切らずに、「たぶん」という逃げ道を用意しているあたり、完全に確信犯である。ガソリンの隣にライターを置くようなものだ。いや、むしろガソリンの中に火種を混ぜ込んでいるレベルで危ない。
顔を拭き、タオルを適当にかけると、俺は部屋へ戻って制服に着替え始めた。
学校の制服は当然ながら男物だ。昼の俺の体型に合わせてある。問題は、夜になるとこの体が零子仕様に変わることだ。そのため、クローゼットの中はきっちり左右で分けられている。左半分が俺の服、右半分が零子の服。ハンガーの色まで変えて、ぱっと見で区別できるようにしてある。ここを曖昧にすると、本当に面倒なことになる。
境界線を越えると、戦争になる。
これは比喩ではなく、実体験に基づいた教訓だ。
以前、うっかり俺が零子の服に手を出したことがある。いや、正確には手を出したつもりはなかった。ただ朝の寝ぼけた状態で適当に掴んだパーカーが、たまたま零子のものだっただけだ。黒地に銀色の英字が入った、妙に威圧感のあるデザインで、なんというか「近づくと殴られそう」なオーラを放っている一着だった。
それをそのまま学校に着ていった結果、昼の俺には少しサイズが大きく、袖が余って手の甲まで隠れる形になった。鏡で見たときは「なんか違うな」くらいの感想だったが、教室に入った瞬間、同級生の反応でようやく異変の大きさに気づいた。
「雲隠、今日ちょっとワイルドじゃん」
と、普段あまり話さないクラスメイトにまで声をかけられる始末である。ワイルドってなんだ。服一枚で人間の属性はそんなに変わるのか。内心でツッコミを入れつつ、その日は妙に落ち着かないまま一日を過ごすことになった。
そしてその夜。
例によってノートには、きっちりと苦情が書かれていた。
『勝手に着んな。あれ勝負服。あと似合ってたのムカつく』
……勝負服らしい。
なにと戦うつもりなのかは知らないが、とにかく重要な一着だったらしい。そして「似合ってたのムカつく」という一文に、なんとも言えない複雑な感情が湧いた。
似合っていた、らしい。
そこは、少しだけ嬉しかった。
リビングへ下りると、トースターの中でパンが焼ける規則正しい音と、バターの溶ける匂いがちょうどいい具合に部屋へ広がっていた。キッチンに立っている母さんは、いつものエプロン姿で、片手にトングを持ちながらトーストの焼き色をじっと見極めている。朝の光が窓から差し込んで、その横顔をやけに穏やかに見せていた。
うちの母さんは、俺と零子のことをどこまで理解しているのか、いまだによくわからない。
知らないふりをしているのか、本当に気にしていないのか、それとも最初は深刻に悩んだ結果、ある時点で「まあいいか」に到達したのか。小さい頃から妙なことが起こりすぎていたせいで、途中から思考を放棄して“そういうもの”として処理しているようにも見える。
「零、昨日の夜、また出かけた?」
トースターからパンを取り出しながら、母さんが軽い調子で聞いてくる。その声色には疑いも責めもなく、ただ確認だけをしている感じだ。
「俺じゃない」
即答する。
「はいはい」
母さんは慣れた調子で相槌を打ち、バターを塗ったトーストを皿に乗せながら続けた。
「じゃあ零子ちゃんに言っといて。冷蔵庫のプリン、ちゃんと名前書いてあったでしょ」
「書いてあったなら、なおさら食うなって話だよな」
俺がそう返すと、母さんはほんの少しだけ肩をすくめて笑った。
「まあ、あの子そういうとこあるから」
軽い。
あまりにも軽い。
怒るでもなく、困るでもなく、「そういう子だから仕方ないわね」で片付けるその姿勢は、ある意味で達観しているし、ある意味で完全に感覚が麻痺している。普通の家庭なら、ここでもう少し議論が発生するはずだ。というか発生しなければおかしい。
俺は椅子に座り、皿の上のトーストにかじりつきながら、ぼんやりと遠い目をした。
うちの家庭、受け入れ能力が高すぎる。
普通なら、もっと段階を踏むはずだ。まず家族会議が開かれる。真剣な顔で「これはどういうことなんだ」と話し合う。次に病院へ行く。精密検査だの心理カウンセリングだの、専門家の意見を聞く。そして、なにかしら科学で説明がつかないとなれば、今度は神社や寺に行く。お祓いとかそういうやつだ。テレビ局には行かないでほしいが、最悪そこまで行く可能性もゼロではない。
しかし、うちは違う。
会議は開かれないし、病院も最小限だし、神社に行った記憶もない。ただ日常の中に「昼は俺、夜は零子」という事実が自然に溶け込んでいる。…順応が早すぎないか…?
父さんはというと、長期出張でほとんど家にいない。海外だか国内のどこかだか、よくわからない場所を飛び回っているらしい。あの人がこの状況をどこまで把握しているのか、正面から聞いたことはない。
ただ、おそらく知っている。
昔、まだ小学生の頃だったと思うが、父さんの書斎に入ったとき、机の端に貼られていた付箋を偶然見たことがある。そこには黒いペンで、簡潔にこう書かれていた。
『夜の零には強く言いすぎない』
あのときは意味がよくわからなかったが、今ならなんとなく察しがつく。
強く言いすぎると、何かが起きるのだろう。
具体的に何が起きるのかは知らないし、知りたくもない。ただ、リビングの壁の一角に、微妙にへこんでいる場所が一つある。ちょうど人の肩の高さあたりに、丸く、しかし無理やり押し込まれたような痕跡が残っている。
……まあ、だいたい想像はつく。
朝食を食べ終え、適当に身支度を整えて家を出ると、外の空気は思ったより少しだけ冷たかった。季節の変わり目特有の、朝だけ温度が一段階低いあの感じだ。住宅街の塀やアスファルトには、まだ夜の湿り気がうっすらと残っていて、靴底にわずかな抵抗を感じる。
俺はカバンを肩にかけ、ポケットから取り出したガムを一枚口に放り込んだ。
ミント味。
やたらと刺激が強い。舌の上でじんわりと広がる冷たさというより、ほとんど軽い攻撃だ。これは間違いなく、零子が昨夜買ってきたやつだろう。レシートの中にもそれらしき記載があった気がする。
あいつは辛いガムが好きだ。
一方で、俺はどちらかといえば甘いガムのほうが好きだ。フルーツ系とか、ちょっと人工的なくらいの甘さのやつのほうが落ち着く。けれど今口の中にあるのは真逆の方向性だ。噛むたびに頭が冴えていくのはいいが、同時に「なんで朝からこれなんだ」という気分にもなる。
味覚まで微妙に違うのだから、本当に面倒くさい。
同じ体を使っているくせに、好みは一致しない。食べ物ひとつとってもこうだ。となると、そりゃあカップ焼きそば三つにプリンに唐揚げにチョコバーなんていう暴走コンボも成立するわけである。
……いや、成立させるな。
俺は口の中のミントの刺激に顔をしかめながら、いつも通りの通学路を歩き出した。
駅前の角を曲がったところで、俺は足を止めかけた。
視界の先、朝の通勤通学でほどよく人が流れている歩道の中に、やけに見覚えのある背中が混ざっていたからだ。人混みの中でも不思議と目に留まる、あの少しだけ跳ねた毛先と、肩のラインの柔らかい動き。
椎名陽菜。
幼馴染だ。
家が近くて、小さい頃はよく一緒に遊んだ。公園で泥だらけになったり、コンビニでアイスを分け合ったり、夏には水鉄砲で意味もなく撃ち合ったり、そういうどうでもいいけど確実に楽しかった時間を、当たり前みたいに共有していた相手だ。
ただ、それも中学に入るあたりで少しずつ変わった。
クラスが分かれ、部活が分かれ、生活リズムが分かれ、気づけば「わざわざ一緒に帰る理由」がなくなっていく。話さなくなったわけじゃない。ただ、話すきっかけが減っていった。そして高校に入る頃には、同じ校舎にいるはずなのに、顔を合わせても軽く会釈する程度の関係に落ち着いていた。
――まあ、落ち着いたというよりは。
俺が勝手に意識しすぎて、距離を測り損ねただけとも言える。
陽菜は、昔から明るい。
よく笑うし、誰にでも自然に話しかけるし、朝から髪がきれいにまとまっている。あれがどういう仕組みで成立しているのか、俺はいまだに理解していない。寝起きの人間が、どうやったらあそこまで整った状態で外に出てこれるのか。少なくとも、俺の朝とは根本から別物だ。
なにしろ俺の朝は、零子の後始末から始まる。
カップ焼きそばの残骸確認、レシートの精査、冷蔵庫の被害状況のチェック、そして体重計という名の現実との対峙。そのあとにようやく顔を洗い、制服を着て、なんとか「人前に出せる状態」へと持っていく。髪を整える前にゴミ箱の中身を確認している男子高校生など、恋愛市場においてはかなり不利な立場にあると言っていい。
そんなことを考えながら、俺は無意識のうちに歩幅を少しだけ落としていた。
追いつける距離。
でも、追いつかない距離。
その中途半端な位置をキープしながら、頭の中でひたすらシミュレーションを繰り返す。
声をかければいい。
おはよう、椎名。
たったそれだけでいい。
たったそれだけのはずなのに、喉のあたりに見えない壁があるみたいに、言葉が外へ出ていかない。口の中で何度か小さく動かしてみる。
おはよう。
椎名。
おはよう、椎名。
……いや、待て。
「椎名」って、なんか距離がある気がする。昔は普通に「陽菜」って呼んでたじゃないか。だったら今も――
おはよう、陽菜。
……無理だ。
脳内でフルネームから名前に切り替えた瞬間、心臓が勝手に体育祭を開催し始めた。しかも開会式とかじゃなくて、いきなりリレーの最終走者くらいのテンションで走り出している。落ち着け。まだスタートラインにも立っていない。
そんなふうに頭の中だけで無駄に盛り上がっていた、そのとき。
前を歩いていた陽菜が、ふと何かに気づいたように、ほんの少しだけ首を動かした。
振り返る気配。
――やばい。
反射だった。
考えるより先に体が動いて、俺はすぐ近くにあった電柱の陰へと滑り込むように身を隠した。
……何をしているんだ俺は。
いや本当に何をしているんだ。自分でも理解が追いつかない。電柱に隠れられるくらいには細身でよかった、などと冷静に分析している場合ではない。状況だけ切り取れば、完全に不審者である。朝の住宅街で、好きな子の背後を一定距離でつけ、振り返られそうになった瞬間に電柱と同化しようとする男子高校生。
通報されても文句は言えない。
電柱の影からそっと様子をうかがうと、陽菜はきょとんとした様子で一度だけ後ろを振り返り、不思議そうに首をかしげたあと、すぐにまた前を向いて歩き出した。どうやら、完全には気づかれていないらしい。
……助かった。
助かったが、同時にものすごく情けない。
俺は電柱の陰に背中を預けたまま、小さく息を吐いた。
「いや、だからなんで隠れるんだよ……」
俺は電柱からそっと出た。
「……今日も無理だった」
小さく呟いた声は、朝の車道を走る自転車のベルにあっさりかき消された。
こういう時、零子ならどうするのだろう。
たぶん、普通に声をかける。いや、普通どころか、妙に自然な顔で横に並び、なんなら肩まで組むかもしれない。そのうえで「あんた朝から髪サラサラじゃん、何使ってんの」くらいの距離感で踏み込んでいく。零子の人との距離の詰め方は、どこか根本的にバグっているのだ。初対面のコンビニ店員に対しても、「そのピアスいいっすね」と当然のように言えるタイプである。
一方の俺は、コンビニでパスタを買って箸を入れ忘れられても、「あ、大丈夫です」と反射的に言ってしまい、そのまま割り箸なしでペペロンチーノに挑もうとする人間だ。大丈夫ではない。どう考えても大丈夫ではないのに、口が勝手に社会性を優先する。
同じ体なのに、どうしてこうも違うのか。
そんなことを考えながら学校に着き、教室の扉を開けると、俺の席にはすでに友人の高梨が腰かけていた。人の席を自分の待合室みたいに使う男である。背もたれにだらしなく寄りかかり、片手でスマホをいじりながら、こちらを見るなりにやっと笑った。
「おう、零。顔死んでるな」
「毎朝、生き返るところから始めてる」
「哲学?」
「生活習慣の話」
俺がカバンを机の横に置くと、高梨はなぜか当然のように俺のカバンを開け、中から教科書を取り出し始めた。勝手に人の荷物を漁るな、と言いたいところだが、こいつの場合、悪意より距離感の雑さが先に来るので反応に困る。
高梨は教科書を机の上に並べながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういやお前さ、昨日の夜、駅前にいた?」
その一言で、俺の背筋にわずかな緊張が走った。
「夜?」
「うん。なんか、お前にめちゃくちゃ似た女子がいたんだよ。目つき悪くて、黒いパーカー着て、コンビニ前でチキン食ってた」
俺はゆっくりと目を閉じた。
零子。
お前、目撃されている。
しかも場所が駅前、服装が黒パーカー、行動がコンビニ前でチキン。弁解の余地が少なすぎる。よりによって高梨に見られるな。あいつは好奇心に足が生えたような男だぞ。
「……人違いじゃないか」
できるだけ平坦な声でそう言うと、高梨は首をひねった。
「いや、顔がさ、すげー似てたんだよ。雲隠の姉ちゃん?」
「姉はいない」
「妹?」
「いない」
「じゃあ女装?」
「朝から殴られたいのか」
高梨は「こわ」と笑いながら、ひらりと俺の席から逃げた。逃げ足だけは無駄に速い。俺はため息をつきながら椅子に座り、机の上に肘をついた。
頭の中に、共有ノートの表紙が浮かぶ。
今夜の連絡事項が増えた。
『駅前でチキンを食うな。少なくとも知り合いに見つかるな』
……いや、違う。
そもそも夜中に俺の顔で堂々と出歩くな、から書くべきかもしれない。
『高梨に見られてる。コンビニ前でチキン食うな。せめて店内で食え』
いや、店内でも駄目だ。そもそも俺の知り合いが多い場所で活動しないでほしい。零子には零子の生活があるとはいえ、俺の生活圏と重なりすぎると危険だ。昼の俺が積み上げてきた地味で平和で目立たない高校生活が、夜の零子のチキン一本で崩壊する。
一時間目の授業中、俺はノートの端に零子への連絡事項を書き出していた。
一、カップ焼きそば三つ禁止。
二、母さんのプリン禁止。
三、駅前コンビニで目立つな。
四、体重管理に協力しろ。
五、陽菜を見かけても絶対に変なことをするな。
五番を書いたところで、俺はシャーペンを止めた。
零子は、陽菜のことを知っている。
そりゃそうだ。俺がどれだけ隠そうとしても、共有ノートという名の自白装置に、何度も何度も名前を書いてきたのだから。小学生の頃から、事あるごとに「椎名がどうした」「陽菜がこうだった」と記録していれば、そりゃあ夜の人格にも筒抜けになる。
最初にそれを突かれたときのことは、今でもはっきり覚えている。
ノートのページをめくったら、いつもより妙に筆圧の強い文字でこう書かれていた。
『へー、昼の俺、椎名って子好きなんだ。ヘタレそう』
――うるさい。
と、そのときの俺は思ったが、実際には何も言い返せなかった。というか、言い返せる材料がなかった。
ヘタレ“そう”ではない。
すでに、ヘタレている。
否定できないところが、いちいち精神にくる。
それから中学に入って、陽菜と少しずつ距離ができていったあとも、零子はたまに彼女を見かけていたらしい。夜の行動範囲は俺より広いし、時間帯も違うから、すれ違う可能性はむしろあいつのほうが高いのだ。
ある日のノートには、こんなことが書かれていた。
『駅で見た。背伸びたな。笑うと昔のまんま。お前まだ好きなん?』
その一文を読んだ夜、俺はやけに長い時間、ペンを握ったまま固まっていた。
「まだ好きか」と聞かれて、即答できない自分が情けなかった。昔みたいに毎日話すわけでもないし、今の関係はほとんど他人に近い。それでも、姿を見れば目で追ってしまうし、笑っていると安心するし、声をかけようとして結局できない。
それを“好き”と言っていいのかどうか、妙に慎重になってしまったのだ。
一晩悩んで、俺は結局、ノートにこう書いた。
『好きだと思う』
我ながら、歯切れが悪い。
そして翌朝、ページを開いたとき、そこには乱暴な字で短くこう書かれていた。
『思う、じゃなくて好きなんだろ。めんどくせーな、お前』
……零子にだけは言われたくない。
あいつはあいつで、だいたいのことを勢いで処理しているくせに、こういうところだけ妙に核心を突いてくるのが腹立たしい。
そんなことを思い出しながら迎えた昼休み。
購買でパンを買い、袋を片手に教室へ戻ろうとしたそのとき、廊下の向こうから見覚えのある人影が歩いてくるのが見えた。
椎名陽菜。
タイミングがいいのか悪いのか、判断に困る遭遇である。
今度こそ、声をかける。
朝は失敗した。電柱に逃げた。自分でもどうかと思うレベルの敗北だった。だが今回は違う。ここは校内の廊下だ。電柱はない。曲がり角もない。ロッカーに隠れるのも不自然すぎるし、窓はあるが、三階から飛び降りるほど恋愛に命を懸ける段階ではまだない。
つまり――逃げ場がない。
逆に言えば、やるしかない。
陽菜は友達と並んで歩いていた。楽しそうに何かを話しながら、くすくすと笑っている。その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥でなにかが変な跳ね方をした。
心臓という臓器は、本来もっと淡々と血液を送り出す仕事に徹するべきだと思うのだが、どうして好きな子が笑っただけで業務量を勝手に増やすのか。労働基準法を読ませたい。過労で訴えられても知らないぞ。
――来る。
距離が縮まる。
数メートル。
三メートル。
二メートル。
そして、陽菜の視線がふとこちらへ向いた。
目が合う。
ほんの一秒。
だが、その一秒がやけに長く感じられた。
陽菜は「あ」と小さく口を開いた。
俺も「あ」と言いそうになった。
言えたらよかった。
おはようでもいい。久しぶりでもいい。なんなら「その靴いいね」でもいい。とにかく、人間として成立している会話の入口に立てれば、それでよかった。
だが、実際に俺の口から出た言葉は――
「購買の焼きそばパン、今日は具が多い」
……なんでだ。
本当に、なんでだ。
自分でも理解できない。なぜこのタイミングで、焼きそばパンの具材量に関する速報を流したのか。会話の神様が存在するなら、俺の担当だけ明らかに新人か、あるいは研修中だと思う。
陽菜は一瞬、きょとんとした顔になった。
俺も、ほぼ同じ顔をしていたと思う。
一拍遅れて、隣にいた陽菜の友達が「ぷっ」と小さく吹き出した。その空気につられるように、陽菜も少しだけ笑う。
「そ、そうなんだ。よかったね、零くん」
「うん。よかった」
――終了。
会話、終了。
これ以上広がらない。広げる余地もない。「具が多い」という情報からどう会話を展開しろというのか。誰だよこの話題を選んだやつ。俺だよ。
俺は購買の袋を握りしめたまま、できるだけ平静を装って廊下の端へと歩いていった。背中のほうで、陽菜たちの小さな笑い声が聞こえる。
悪意はない。
むしろ、普通に和やかな笑いだ。
だからこそ、余計にきつい。
俺は心の中で静かに土下座していた。
――ごめん、今のは本当にごめん。
教室に戻ると、高梨が俺の顔を見て首をかしげた。
「どうした。焼きそばパンに負けた顔してるぞ」
「勝負にもなってない」
「何と戦ったんだよ」
「会話」
高梨は何か察したように、俺の肩を叩いた。
「雲隠、まずは天気の話から始めろ」
「焼きそばパンの具量よりは自然か」
「比べる相手が弱すぎる」
まったくその通りだった。
午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板では教師が何かを書き、チョークの音が規則正しく響いていたが、その内容は俺の頭の中を右から左へと素通りしていった。数学だか現代文だか、もはや科目すら怪しい。俺は窓の外に流れる雲をぼんやり眺めながら、昼間の自分ではなく、夜に目を覚ますもう一人――零子のことを考えていた。
零子なら、陽菜と普通に話せるのだろうか。
あいつは俺よりずっと度胸がある。口は悪いが、妙に人懐っこくて、相手の懐に入るのが早い。距離感はだいぶ雑だが、その雑さが逆に警戒心をゆるめることもある。顔立ちは俺に似ているとはいえ、夜の零子は女の子だ。陽菜だって、俺が相手のときほど妙な空気にはならないかもしれない。普通に会話して、普通に笑って、もしかしたら友達になれるかもしれない。
そこまで考えたところで、俺は慌てて自分の思考にブレーキをかけた。
――俺が陽菜と話せないから、零子に近づいてもらう?
最低だ。
それは違う。絶対に違う。零子は俺の道具じゃないし、俺の代わりに都合よく動く代理人でもない。俺たちは同じ体を使っている。けれど、同じ人間ではない。昼と夜で時間を分け合いながら、それぞれ別の一日を生きている。零子には零子の考えがあり、都合があり、好き嫌いがあり、勝手にプリンを食う自由まである。いや、最後の自由はできれば制限したいが、それでも俺が勝手に命令していい相手ではない。
放課後、俺は寄り道もせず、まっすぐ家に帰った。
夕方が近づいている。
俺の一日は、時計よりも太陽の高さに支配されている。日が傾き、空の色が少しずつ薄い青から橙に変わり始める頃、体の奥に重たい眠気が溜まり始めるのだ。最初はまぶたが重くなる程度だが、やがて指先の感覚がぼんやりし、思考の輪郭がゆるみ、世界全体が水の底に沈んでいくような感覚になる。どれだけ踏ん張っても無駄だ。俺が意識を手放したその先の時間は、零子のものになる。
だから、その前に書かなければならない。
俺は机に向かい、共有ノートを開いた。
今日の報告。苦情。注意事項。そして、言い訳みたいな本音。
ペン先を紙に置き、少しだけ息を吸ってから書き始めた。
『零子へ。
まず、カップ焼きそば三つはやめろ。朝から胃がソース味だった。歯を磨いても、水を飲んでも、なんか体の奥からソースの残響がした。あれは食事じゃなくて事件だ。
それと、母さんのプリンも食べるな。名前が書いてあるものは、その人のものだという意味だ。これは家庭内ルール以前に、社会のルールだ。お前が夜の街でどれだけ自由に生きていようと、冷蔵庫の所有権まで無法地帯にするな。
あと、高梨に駅前で見られてる。黒パーカーでコンビニ前チキンは目立つ。かなり目立つ。というか、俺に似た女子が夜中にチキン食ってたって普通に話題にされた。知り合いの多い場所では、もう少し静かにしてほしい。せめてチキンは持ち帰って食え。
それと、今日、陽菜と話した。
と言っても、購買の焼きそばパンの具が多いと報告しただけだ。自分でも意味がわからない。なぜそこで焼きそばパンの話をしたのか、いまだに脳内で検証しているが、原因不明だ。陽菜は少し笑っていた。嫌な感じではなかったと思う。でも俺は、しばらく廊下に埋まりたかった。
最後に。
陽菜を見かけても、変に絡まないでくれ。これは俺の問題だから。』
そこまで書き終えて、俺はペンを止めた。
最後の一文が、妙に弱く見えた。
頼んでいるようで、突き放しているようで、そのくせ本当は助けてほしい気持ちが透けている。情けない文章だ。零子なら、きっと鼻で笑うだろう。そして俺の字の横に、あの社会とケンカしている乱暴な字で、「めんどくさ」とか「ヘタレ」とか書いてくるに違いない。
俺はしばらくノートを見つめたあと、ペンを持ち直した。
そして、追記した。
『でも、もし偶然会ったら、元気そうかだけ教えてくれ。』
情けない。
本当に、情けない。
自分で書いておいて、胸の奥が少し痛くなった。結局俺は、頼るなと言いながら、ほんの少しだけ零子に頼っている。自分では声もまともにかけられないくせに、彼女が笑っていたかどうかだけは知りたいのだ。
それでも、その一文を消すことはできなかった。
窓の外は、いつの間にか茜色に染まり始めていた。遠くの家の屋根が赤く光り、電線に止まった鳥の影が細く伸びている。カーテンの端が夕方の風に揺れ、部屋の中の空気が少しだけ冷たくなった。
俺はノートを閉じ、机の真ん中に置いた。
零子が、必ず見る場所に。
ベッドに横になると、体の奥からじわじわと重さがにじみ出てきた。
布団に沈み込むというより、身体の内側に見えない重りを仕込まれていくような感覚だ。手足の先から順番に力が抜けていき、指を動かそうとしても、ワンテンポ遅れてしか反応しなくなる。まぶたも同じだ。閉じようと意識した瞬間には、もう半分以上閉じている。
この感覚には、いまだに慣れきれない。
普通の「眠る」とは、どこか違うのだ。
眠気に負けて意識を落とすというより、もっと能動的に、どこか別の誰かに場所を譲るような――そんな感覚に近い。
席を立つ。
誰もいないはずの教室で、俺だけが立ち上がる。
そして次の瞬間、そこには別の誰かが当然の顔で座っている。
俺がどいた席に、零子が座る。
俺たちは、一度も顔を合わせたことがない。
声を聞いたこともない。
互いの存在を直接感じたことはなくて、ただノートの上の荒い字と、朝に残る胃もたれと、クローゼットの中で微妙に増えている服の数と、そういう間接的な証拠だけで、「ああ、いるんだな」と確認している。
それでも確かに、俺の中にはもう一人いる。
その事実だけは、どれだけ時間が経っても変わらない。
意識が薄れていく直前、ぼんやりとした思考の中で、俺はふと思った。
今日の夜、零子は何を書くのだろう。
焼きそばパンの件は、きっと笑うだろう。あの状況でそんな話をする俺のことを、遠慮なく「意味わからん」と切り捨てるに違いない。
プリンの件では、たぶん逆ギレする。「名前書いてあるからって食うなとは限らない」とか、意味不明な理屈を展開してくる可能性もある。あいつはそういうやつだ。
そして――
陽菜の名前。
そこに、どんな反応をするのか。
からかうのか、茶化すのか、それとも意外と何も言わないのか。ノートの上に並ぶあの乱暴な字が、どんな言葉を選ぶのかを想像しようとして――
そこで、思考がふっと途切れた。
視界がゆっくりと暗くなり、音が遠ざかる。
俺の一日は、そこで終わった。
――そして。
俺の知らない夜が、静かに始まる。
◆
目が覚めたとき、部屋はすっかり暗くなっていた。
カーテンの隙間から入ってくる光はもうほとんどなくて、代わりに窓の外の街灯がぼんやりと部屋の輪郭だけを浮かび上がらせている。昼のあいつが見てたはずの景色とは、まるで別の場所みたいだ。
――ああ、来たな。
ここからは、あたしの時間だ。
ベッドの上で上体を起こして、ぐっと両腕を上に伸ばす。背中が鳴る。肩の位置、髪の重さ、胸元の感覚、視界の高さ。全部がすっと馴染む。さっきまでの違和感が嘘みたいに消えて、きっちり「あたし」の輪郭に戻る。
雲隠零子。
昼のあいつが勝手に「夜の俺」とか書くから、たまに自分でも「どっちだよ」ってなるけど、あたしはあたしだ。少なくとも、カップ焼きそばを三ついけるくらいには、しっかりした意思を持ってるあたしだ。いや、三つはさすがにちょっとやりすぎたかもしれないけど。
ベッドから降りて軽く髪をかき上げながら、あたしは机のほうへ歩いた。
中央に置いてある共有ノートを手に取って、ぱらっと開く。
相変わらず、零の字は細い。
なんていうか、遠慮がそのまま線になってる感じ。紙に対して「お邪魔します」って言いながら書いてるだろ、これ。もっとこう、インクで殴るくらいの気持ちで書けっての。読めるからいいけどさ。
ページを目で追っていくうちに、あたしは思わず口元がゆるんだ。
「焼きそばパンの具が多い、ねえ……」
くくっと小さく笑いが漏れる。
「昼のあたし、やっぱ天才的に不器用じゃん」
零は真面目だ。
真面目すぎて、好きな子の前に立つと脳みその中で学級委員会が始まる。議題はだいたいいつも同じ。「失敗しない無難な一言」。で、あーでもないこーでもないって慎重に審議した結果、なぜか焼きそばパンの具が多いっていう、絶妙にズレた発言が採用される。
どういう会議だよ。
むしろどうやったらそこに着地するんだよ。
あたしは肩をすくめながらペンを取って、そのままノートに書き始めた。
『零へ。
カップ焼きそば三つは悪かった。さすがにちょっとやりすぎた。反省はしてる。だから次から二つにする。ゼロにはならない。そこは譲れない。
プリンは名前見たけど、夜のテンションが勝った。あの時間帯の甘いものは抗えない。母さんには一応あたしから謝っとく。たぶん許される。たぶん。
高梨に見られた件は、あいつ視力いいな。夜の距離であそこまで顔認識してくるの、普通に怖いんだけど。今度また何か言われたら、姉ってことにしとけ。無理そうなら親戚。もっと無理なら幽霊で押し通せ。
焼きそばパンの具報告、普通に笑った。お前らしくて逆にいいんじゃね。椎名が嫌な顔してなかったなら、それはもう勝ちでいい。かなりちっせー勝ちだけど、勝ちは勝ち。ゼロより全然マシ。』
そこまで書いて、あたしは少しだけ手を止めた。
視線を少し下げると、零があとから付け足した一文が目に入る。
『でも、もし偶然会ったら、元気そうかだけ教えてくれ。』
……はあ。
「まったく、めんどくさいやつだな」
小さく息を吐きながら、あたしはペンをくるっと指で回した。
強がりたいのか、突き放したいのか、でも結局気になるのか。全部中途半端で、全部正直。こういうとこ、ほんと扱いづらい。
でもまあ、嫌いじゃない。
あたしは軽く肩を回してから立ち上がり、クローゼットの右側を開けた。
並んでいる服の中から、黒いパーカーを引っ張り出す。
勝負服。
昼のあいつがこの前、勝手に着ていったやつ。
「ほんとさぁ……」
手に持ったまま、少しだけ眉をひそめる。
似合ってたのが、本気で腹立つ。
あたしより線が細くて、いかにも頼りなさそうな顔してるくせに、このパーカーを着ると妙に雰囲気が出る。なんていうか、無駄に儚い感じになるのがまた腹立つ。こっちはもっとこう、強そうに、近寄ったら蹴られそうな感じで着たいのに。
あたしはそのままパーカーに袖を通しながら、小さく鼻を鳴らした。
「……ま、いいけど」
スマホを見ると、ちょうどいいタイミングで通知が一件入っていた。
ロック画面に表示されている名前は、見慣れた「店長」。時間もきっちり、あたしが起きるであろうこのあたりを狙って送ってきてる感じがしてなんか悔しい。
メッセージを開く。
『今日、新人さん来ます。零子ちゃん、面倒見てあげてね』
……はいはい。
あたしは画面を見ながら、自然と口元がにやっと歪んだ。
新人の面倒を見るのは、別に嫌いじゃない。
むしろちょっと楽しみ寄りだ。相手が変なやつなら、それはそれで観察対象として面白いし、妙に真面目なやつなら軽くからかって反応を見るのも悪くない。最初は緊張してるくせに、ちょっと話すとボロが出るタイプとか、見てて飽きないし。
あたしが働いてるのは、駅前の少し裏に入ったところにある小さなカフェバーだ。昼は普通のカフェっぽい顔してるくせに、夜になると照明が落ちて、軽く酒も出すし、ついでに軽食もやる、なんとも中途半端で都合のいい店。客層もサラリーマンから学生までバラバラで、夜の街にしては平和なほうだと思う。
あたしはそこで週に何回かシフトに入ってる。
昼の零が学校でノートとにらめっこしてる間、夜のあたしはカウンターの向こうでグラス拭いて、注文取って、たまに酔っ払いの相手をしてる。生活費の一部はあたしが稼いでるわけで、そう考えると――
「カップ焼きそば食う権利くらいはあるでしょ」
小さく独り言を漏らす。
……まあ、やっぱ三つはちょっとやりすぎたな。
それは素直に認めるよ。
あたしはノートのほうへ視線を戻して、さっき書いた文章の下にペンを走らせた。
『今夜、新人来るらしい。どんなやつか見てくる。面白かったら報告する。
椎名に会ったら、元気そうかくらいは見といてやるよ。わざわざ話しかけたりはしない……たぶんな。
あんま期待すんな、ヘタレ。』
最後の一行は、ちょっとだけ筆圧を強めにしてやった。
どうせ読んだとき、ムッとするか、ちょっと凹むか、そのどっちかだろう。どっちでもいい。あいつはそのくらいでちょうどいい。
ペンを机に置いて、ノートをぱたんと閉じる。
それからそのまま部屋を出て、廊下を抜けて玄関へ向かった。
靴を履く前に、ふと横の鏡に目がいく。
そこに映っているのは、夜のあたし。
少しだけつり上がった目に、黒を基調にした服。さっき羽織ったパーカーがちょうどいい具合にシルエットを崩していて、昼のあいつとはまるで別人に見える。髪は後ろでざっくりまとめて、邪魔にならない程度に整えてある。
ボーイッシュ、って言葉で片付けるには目つきが悪いし、かといってヤンキーってほど荒れてるわけでもない。顔の作り自体は零に似てるから、余計に中途半端な位置にいる感じがする。
でもその中途半端さが、わりと嫌いじゃない。
きっぱりどっちかになれない。
零でもないし、零子だけでもない。
同じ体なのに、同じ時間を持てない。
それでも――
昼のあいつが歩けない夜を、あたしは普通に歩ける。
それだけで、十分だと思う。
玄関のドアを開けると、ひんやりした夜の空気が頬に触れた。
昼間の熱が少しだけ残ったアスファルトを、街灯がぼんやり照らしている。遠くのほうで電車の走る音が低く響いて、どこかの家からテレビの音が漏れていた。
あたしはポケットに手を突っ込んで、軽く肩を回しながら駅前のほうへ歩き出す。
今日も夜が始まる。
昼のあいつが知らない、あたしだけの時間。
そして――
あいつの好きな子に、もしかしたら会うかもしれない夜。
「……まあ」
小さく息を吐いて、あたしは前を向いた。
「会ったとしても、変に絡むつもりはないけどさ」
少しだけ口元がゆるむ。
「普通に絡むだけだし」
それの何が悪い。




