第69話 血が上って、雫しか見えなくなった
停戦協議は落ち着きを取り戻した、と言っていいのだろうと、思う。
まひるはぱくぱくとナポリタンを口に放り込んでいる。
「んふぅ……喫茶店のナポリタンってどうしてこんなに美味しいんだろう」
めいたんはグーにした手でフォークを握り、段になったパンケーキに突き刺した。二枚重ねになったそれに、くりぃむがこぼれるのも気にせずかじりついている。
「めいたんしあわせぇ、かわいいくぁわいいめいたん極楽浸り中~」
リンはグラスの水を、一口だけ飲んだ。液体が、きゅるっと喉を滑り落ちていった。
「それでは、場も落ち着いたところで、改めてこちらの要求を伝える。停戦条件はふたつ。ひとつ、東山雫への攻撃、拉致、その他一切の実力行使と介入の停止。ふたつ、指定区域への立ち入りに際し事前通告を徹底し、当方の承認なき侵入を禁ずる。返答を聞かせてもらおうか」
めいたんはシロップの滴るフォークで、リンを指した。
「やだっていったら?」
片側の口角を上げて、めいたんはこちらを見ている。幼子のような顔でいて、眼光だけが妙に鋭い。
リンはその目を真っ直ぐに見た。
「交渉には応じる。そちらの要求とすり合わせて、最終決定をしたい」
「えへぇ、怒らないんだぁ。お姉さんって、実は結構いー人?」
「個人的な感情は持ち出さん。無論、人格の評価とも無関係。なによりも戦いに来たのではなく、交渉に来たのだ、わきまえている」
「え?」
箸でナポリタンを蕎麦のようにすすっていたまひるが、手を止めた。
「どうした?」
「ぁ、いや、なんでもないです、私は黙ってますね」
それ以上はなにも言わず、まひるは食事に戻っていった。
リンは首を傾げた。そうしていると、めいたんが言った。
「悪者でも信念はあるんだ。嫌いじゃないよ、そういう人。さっすがライバル」
めいたんは唇に指を当てて、撫でるような動きをした。目を細めて、考え込むように喉を鳴らしていた。
「どうしよっかなぁ、ルーシィちゃんはどう思う? そっかぁ、そうだね、正義の味方は正々堂々、だもんね。――おっけー、こっちもしばらくお休みってことで意見が一致したよ。ただしステッキが直るまで、それでいいならお姉さんと約束する」
リンは頷いた。
「構わん。その際には連絡を寄越せ、公明正大な貴様らしく」
「もっちろん、パワーアップしたら次は負けないんだから」
めいたんは笑顔になって、左右に頭を揺らしていた。気持ちよさそうに目を細めていて、上機嫌に見える。口周りにはシロップやらくりぃむやらが付着していて、まるで幼子のようだ。
存外、このような女でも話せばわかるものか。アリスには感謝する必要があるな。
極悪人というわけでも、ないのかもしれん。
「なるべく衝突は避けたい。その折には停戦期間の延長を願う。貴様のかわいさも、実力も嫌というほど教えられたのでな」
リンは口元を緩めて、小さな笑顔を作った。テーブルの下から出した右手を、めいたんに向かって伸ばした。
「西洋式だが、握手をもって交渉成立としよう」
めいたんもテーブルの上に手を出した。中央に向かって、ゆっくりと伸びてきた。
「あはっ。なんかかっこい~、お姉さんのこともっと好きになっちゃうかも」
相変わらずの笑顔で、めいたんは陽気な声を出した。
手のひらと手のひらが近づいて、影がひとつになった。
重なる。触れる。あと2センチ――ぼそっとめいたんが言った。
「でも災難だよねぇ、あんな化物のお守りするなんてさあ」
リンの手が止まった。ぴくと指先が動いた。
急に目が乾いた。ふくらはぎの筋肉が跳ねた。
「決めた、お姉さんもめいたんが救ってあげる。悪い心は愛と正義で――あれ、どしたの?」
伸ばした手を引っ込めた。身体の脇まで戻って、手のひらには魔力がたぎりはじめた。
「今、なんと言った」
肩のあたりから熱感が広がって、こめかみに収束した。頭が締め付けられる、視界が明滅して見える。
「あ、うん、だからね、あの、なんだっけ、えーと、えーと」
唇の下に指を当てて、めいたんは頭を左右に振った。その目は斜め上を向いていた。
無様な顔で、まるで悪びれる様子もなく、あっけらかんとめいたんは言った。
「てへっ、忘れちゃった。でねでね、そのなんとかって悪い女みたいなやつを、守れってお姉さんの方の秘密組織が言ってくるんでしょ、だからね言ってあげる」
思考が冷える。頭が冷める。抑揚のない自分の声が脳内に聞こえている。
こいつはどうするか。
「もう、無理しなくていいんだよ。組織もそいつも始末して、絶対、ぜーったい助けて、あげ、る、か……へ」
決まっている。ひとつしかない。
「貴様は殺す」
手の中に短刀・黒き翼の柄が出現した。立ち上がって、上段にそれを構えた。
喉だ、喉を狙う。一撃で絶命させる。二度とその腐った口を開かせるな。二度と。
「か、かお、こわいよ? ていうか武器、交渉は……? 会談は……?」
「知るか。貴様は殺すと言ってるんだ、今すぐ殺すと言ってるんだ、死ねぇっ――んぬ」
脇の下に、誰かの腕が滑り込んできた。背後から、羽交い締めにされている。
「あーっととと、リンさんストップ、ストップです、それ以上はだめ、だめですっ、血を流したらいけないんですっ」
腕は細いのに力が強い。何者だこいつだ誰だこいつは、誰でもいい。
「離せっ、奴は雫を侮辱した。生かしてはおけぬ、首を落とさねばならぬ」
「わかってます、わかってますけどここじゃダメです、まずいですっ」
カタカタとテーブルが揺れていた。天井で照明が音を立てていた。
めいたん――敵は椅子からずり落ちそうになっていた。
視界が赤く染まる。頭が真っ黒になる。殺す殺す殺す、ころ――後ろで足音がした。
よく知った、シューズの音。踏み込みの深さ、適度な体重、わずかに漂ってくるローズの匂い。
声。
「リンちゃん、もういいよ」
さらぁと頭の中に滾っていたなにかが、羽箒で掃かれていった。
羽交い締めが解けて、違う感触に抱きしめられた。
「怒ってくれてありがとう。でも、わたしは大丈夫だから、慣れてるから」
耳元で、雫がささやいた。
「そんなことより、リンちゃんが悪者だって勘違いされちゃうほうが、わたしはやだな」
こりがほぐれるように力が抜けた。
指はほどけて、短刀は消えてなくなった。




