第38話 部屋に誘われたのは、人生で初かもしれない
水洗トイレのレバーを引いてから、10秒ほども便座に座っていた。
親指と中指で眉間を揉んでから、足にかかる下着に手を伸ばした。履いて、スカートを戻して、ようやく立ち上がった。
緑がかったドア、眺める。未だに便所での作法がわからぬ。
スカートは付けたままでいいのか、下ろすのが正解なのか、どっちだろう。雫に聞けば教えてくれるか、いや、それは不自然か。肝心要の秘密は、まだ伝えられていないのだから。
「春に聞くか……」
壁面に付いた染みが、ぼやけて見えた。何度眉間を揉んでも、その奥が痛んでいる。
鍵を開けようとすると、個室の外で扉が開いたのがわかった。叩きつけるような足音が数度響いて、こちらに接近してくる。
謎の足音は目の前で動きを止めて、その場で跳んだ。
「雫……ではないっ」
音が重い。体重が異なる。
手のひらに手裏剣を生み出す。敵、こんなところで、狙われた、雫ではなく、なぜこちらを。
ドアの天辺に片手をかけて、頭が上がってきた。
「くせ者ッ!」
手首を振って、手裏剣を投じた。
――しかし、伸びてきた指に、いとも簡単に受け止められてしまう。追撃に移ろうとしていると、頭蓋に響く高い声が聞こえてきた。
「プリーズ、お時間ちょっといいですか」
長い金髪を肩に垂らした女――アリスが能天気に笑っていた。
「プレゼント、お返しです」
指の隙間から手裏剣が落ちてくる。受け取ろうとして、しかし、手のひらを滑り落ちていった。
手裏剣を拾ってから、頭上に顔を向けた。
「なんだ貴様か。どうした、雫になにかあったのか」
「ノンノン、二人っきりでお話しがしたいのでお尋ね者しちゃいました」
「なにゆえ。わざわざこのような場所を選ぶ理由もなかろう」
アリスはさらに口角を上げた。
「お外だといっつも雫さんとべったりですからね」
「当然だ。早急に戻らねばならん、要件があるなら手短に話せ」
アリスはドア枠をよじ登って、身体をねじこむようにしてこちらへと降りてきた。
リンは一歩引いて、奥側の壁に背中を付けた。視界を覆うでかい胸が鬱陶しい。便器を挟んだ対話、なぜこんなシチュエーションが多い。
やや身をかがめて、アリスは顔を近づけてきた。
「ドライ、お肌が乾燥しちゃってますね。お髪も艶が不足してますね」
リンは自分の頬を触った。水気もない、引っ掛かりもない、だが。
「それがどうした」
「目やにも残ってますよ。クマも目立ちます。10歳くらいお年を召しましたか?」
「召していない。くだらないことばかり、失礼させてもらおう、そこをどけ」
アリスを手で除けて、鍵を開けた。ドアを押すと、耳元でささやかれた。
「無茶な献身では、雫さんは喜びませんよ」
「物事には優先順位がある。本来ならば用を足す時間すらも惜しい」
「大丈夫ですよ、学校ではワタシかまひるが側にいてくれますし、お外でも監視はリンさんおひとりではないのでしょう」
手と足を止めた。首を回しきらずに、目の淵でアリスを見た。
「万が一があってはならんのだ。このことはもう口にするな、特に雫の前ではな」
アリスは「ふふ」と鼻を鳴らした。
「雫さん、雫さん、なにがあっても、雫さんです。彼女が認めているのなら、ワタシたちももう敵ではないのですね。羨ましいです、おふたりの関係が」
「だったら二度と邪魔をするな。もう行くぞ」
ドアを全開した。一歩踏み出すと、ぺたんという足音がした。
個室の中で、アリスが言った。
「陰ながら応援してますけど、今のリンさん限界ウーマンなので、ひとつ、ふたつアドバイスさせてください」
足を止めず出口を目指した。5分も浪費してしまった。雫は怒っていないだろうか。
背後から、アリスの声は聞こえていた。
「めいっぱい甘えるか、めいっぱい元気でいるか、そのどちらしかありませんよ。じゃないと雫さんどんどん悲しんじゃいます、ワタシ、そうゆうの見たくないのでお願いしますね」
トイレのドアノブを回しながら、リンはつぶやいた。
「それだけは同意だな」
わかっている。理屈ではなく、行動で示さなければ雫は納得しない。
重たいドアを開けた。段差に一瞬足が滑って、身体で押し開けるような形になった。
廊下の喧騒が襲いかかってきて、頭痛がひどくなった。
放課後、チャイムが鳴ると同時に、雫の席へと駆け寄った。机に両手を置いて、声を張り上げる。
「雫っ、雫、この後お時間よろしいか。今日もどこかに寄っていきましょう」
カバンに手を突っ込んだまま、雫はリンを見つめた。
「うん、もちろんいいけど、なんか、どしたの? また無理?」
「ではありません。ご一緒できる時間が楽しくて仕方がないので、街などを行脚したいと、授業中ずっと思っていました。それに今日一日ご心配をお掛けしたことの、埋め合わせもしたいので」
笑顔だ、笑顔を作る。雫は相変わらずくもり空のような顔をしているが、それはきっとこちらの笑顔が足りないせいだ。
目をおっきく、眉を上向きに。口を開く、歯を見せるようにする。
「どうでしょうか、そうだ、せっかくなので都会に行ってみませんか。東京などこれからでも行けないことはないかと、渋谷です、原宿です、余暇を満喫いたしましょ……しょう」
吐き気のようなものが上がってきて、喉がつっかえた。
違う、違う違う、吐き気などではなく、これはゲップ、ただの生理現象だ。
雫の腕を掴む。鞄から引っ張り――重い。指先が滑る。手に力が込められない。
ぐら、ぐら、と視界が揺れる。きつくまばたきをする。笑顔、笑顔。
「ねえ、リンちゃん」
張りのない、声だった。重しをつけて、深く沈んでいるような、そんな。
雫は目を伏せた。なにも言わずに、リンの手を見つめていた。
「どう……なされたか、行きたい場所があるのなら、地球の裏側でも、」
頭が落ちかける。目にかかる前髪と雫が二重に見える。首の骨が、重たい。
体重がかかって、雫の腕がへこんだ。戻そうとするが、手の筋肉がない。
「ぁ」
雫が小さな声を漏らした。軽く笑顔を浮かべながら、顔を上げた。
「だったら、今すっごく行きたい場所があるの、いいよね」
「も、もちろんです、ぜひ申して、ください」
ゆっくりと、雫は頷いた。目を細めて、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
雫は、言った。
「わたしの部屋。ふたりでだらだらしよ」
「だら……は……?」
音がばらばらに聞こえて、意味が繋がらなかった。




