第36話 雫は某の弱いところばかり狙ってくる
5分前から待機して、時間ちょうどにチャイムを押した。ぷつっと電子音が鳴って、母君の声が聞こえてきた。
『はーい、はいはい、雫ならもう玄関だから、ちょっと待ってあげて』
「はい」
母君はマイクから口を遠ざける。抜けのいい声が、スピーカーと、玄関の向こうからほとんど同時に聞こえてくる。
『ほうら、リンちゃん来てるよ。鳴らされる前に出てないと捨てられちゃうわよ』
がさごそと物音が混じる。雫が返事をする。
『はーい、じゃ明日からそうするー。あ、そしたら5分早く来ちゃうかな、ならその5分前に出て、でも向こうはまた5分前……行ってきまーす』
『行ってらっしゃい。気をつけなさいよぉ、変な事件があったばっかりだし』
ガチャと扉が開いた。少しずつ隙間が大きくなって、雫の姿が見え始める。今朝はぴっちり伸ばした黒ソックスと、白地の半袖が目に付いた。
昨日は鞄と髪……どこを見ても、いつも変わりはないのだが、毎日違うところに意識が向く。揺らぎのあるフェロモンの類、これもまた特異体質がなす魔力の放出なのかもしれない。
「リンちゃんが守ってくれるから平気でーす」
ローファーのかかとを指で直しながら、雫は外に出てきた。
笑顔になって、リンは駆け寄った。
「おはようございます、雫。昨夜はよく眠れましたか?」
「んー、まあまあかな。リンちゃんは眠るとかなかった?」
「ええ、まあ、必要ないので、そういうのは。はは」
唇を開く。歯を見せる。雫はあまり機嫌がよくなそうに、目を細めている。
「めっちゃ徹夜明けテンション。いつからそうだったの、ダメだよちゃんと休まないと」
視線がぶれそうになった。目を無理やり制御する。雫を見つめる。
「いつからもなにもありません。某は本来このようにハッピーだったのですが、当初は馴染めず、本性を隠していただけなのです。ささ、行きましょう、遅刻してしまいます」
歩き出しても、雫はその場を動かなかった。
振り向くと、視線が刺さった。
「コンディション最悪でいざってときに本当に守ってくれるの?」
腹の肉が縮まる。言葉は詰まる。口を閉じるな、開け、無理やり開け。
そうだ、そうだ、心配などさせるな、雫には健やかでいてもらわなければ。
「どのような時でも、必ずお守りします。忍びは、死の間際であろうとも、身体を動かせるように鍛錬を積んでいますので、体調は無関係です」
目の圧に、背筋に鳥肌が走る。
「それでリンちゃんが死んじゃったらわたしやなんだけど」
「死にません、雫を残しては。ものの……例えです」
顔を伏せる。すぐに上げる。笑顔を維持する。
「どうなされた、雫らしく……はありますが、そのお顔は似合いません。どうか機嫌をお直しください、主が下僕の体調を――」
雫の口元が、ぷくと膨れた。「んぅ」と喉を鳴らした。
「下僕じゃないもん。お付き合いしてるってやっぱりただの設定なの?」
穿たれたように、胸に穴が空いた。鞄を握る手に、力が入った。
雫の目が、雫の口が、顔が、歪んでいる。影ができていて、朝日が暗く見える。
目元から力が抜ける。緩んで、崩れそうになって、きつくまぶたを閉じた。左右に首を振った。
目を開けて、真っ直ぐに雫を見た。
「いいえ、そのようなことは、決して。雫は恋人です、どんなときも、どのような日もあなたをお慕い申しています」
雫は閉じた口を突き出すような動きをした。
「なら、そういうこと言うのもうやめてね。禁止、絶対禁止、わかった?」
「はい、注意します」
「じゃあこれ」
雫は両腕を伸ばした。抱っこをせがむ赤ん坊のように、リンを見つめていた。
「あの……ご自宅の……いえ、かしこまりました」
数歩引き返して、リンは雫の背中に腕を回した。両手で、包み込む。
腕の中に熱が広がる。つぶれた感触が、胸に伝わる。雫は頬に頬をこすりつけてきた。とろりとしたものどうしが擦れ合う。
「ん」
周りから、足音がなくなった。鳥の鳴き声も、車の音も、なにもかもが。
耳元で雫がささやいた。
「本当に、絶対に、ぜったいにやだからね」
「はい、承知しております」
腹に回された腕に、少しだけ力が込められた。手のひらで、横腹を触られた。
雫の声色が、明るくなった。
「でも、ちゃんと賭けは賭けだからね、負けたら語尾ににゃんって付けてね」
「は……はい」
のしかかる感触が、遠ざかった。腕を伸ばした雫は笑顔になっていた。
「じゃ今だけは許してあげる。その代わりに、もらっちゃうね」
ちゅっと首筋を吸われた。
一瞬触れるだけの、キスだった。
それが終わると、雫は離れていった。
音が戻って、周囲から声が聞こえてきた。
「うわ……見ちゃった」
「あの子達カップルかなぁ、こんなところでやばぁ」
「だいたぁん……あ」
まぶたがひっくり返るほど気合を込めて、リンは殺気を振りまいた。
それぞれ一睨みすると、また住宅地は静かになった。
「ふん、破廉恥な奴らめ」
「ふふっ」と楽しそうな声が聞こえてきた。
拳で口を覆って、雫は息を吐くように笑っていた。
「また守られちゃった」
やはりこちらのほうが似合う。花のような香りまでが、漂ってくる。
思わず頬が緩んで、リンも笑い声を漏らしてしまった。
そうしていると、突然、雫は刺すような目つきをした。
「うれしい。でも、アリスにはちゃんと聞くから、魔法少女のこと」
「も、もちろんです、それは約束ですから」
悟られないように、つばを飲み込んだ。問題はない、そのための手は打った。
信頼しているぞ越谷まひる、いや、まひる。
雫の不安は取り除かなければならない。
なんとしてでも。




