第34話 某は絶対に任務の最中に居眠りなどしない
午後11時の住宅街に、カラスが鳴いていた。
リンはほとんど定位置である電柱の上に立って、雫の部屋を見守っていた。
今日はなぜか意識がふわりとしている。かくっと頭が下がって、慌てて戻す、と、そんなことを繰り返した。
「むぅ……」
カーテンからうっすら明かりが漏れている。雫はまだ勉強でもしているのだろうか。それともテレビでも見ているのだろうか。なんにせよ変わった様子はない、静かな夜だ。
視界が少し、滲んで見える。まぶたが落ちては、すぐに開く。ぴくぴく、ぴくぴくと目の前が揺れている。雫、雫、今日も無事だ、なにもない、合宿所の事件以降……一週間は平穏でいる。ニュースのせいで、かえって動き……。
リンの顔が完全に下を向いた。かぁかぁとまた、鳴き声が聞こえていた。
「リンちゃん、リンちゃんいるー? あれ、おかしいな?」
綿が浮かんで、白い光がもやもやしてる。かくかくして、自分の鼻息がよく聞こえる。
「むにゃ……」
ずんと垂れている、皮膚が垂れている。遠いところでぴちゃぴちゃとよだれを弾くような音がする。
聞き覚えのある人の声も混ざっている。少女の声、雫の声、柔らかい声。
「おーい、おーい、うーん? いつもいるはずなんだけどなぁ、また悪い人? そんな様子ないけど」
雫、心配せずともそれがしはここにいまする。今おそばにいつでもおそばに、おみゃもりを……。
いっそう高い声が、響き渡った。
「リンちゃーんってば、本当にいないのー?」
ぷすんっと、鼻のあたりでなにかが割れる音がした。それを聞いて、パッと目が開いた。
「はっ、し、雫」
周囲を見回す。雫が自室の窓から顔を出していた。
なぜ気づかなかった、先程の声は夢……夢? いや、いい、とにかく行かなければ。
足音を立てずに、民家の屋根に飛び乗る。部屋に近づくと、雫はぴくっと眉を上げた。
パジャマ姿の雫は、窓枠に両肘を乗せていた。
「お、お待たせしました、某になにか御用でしょうか」
「あ、うん、数学の課題あるじゃない? ノート取り忘れちゃって……ていうか、どしたの、その顔?」
「顔、ですか? ……ぁ」
触れてみると、唇の下側が濡れていた。ぬるぬるとして、指の滑りがいい。雨や水滴ではなくて、これは。
「わはっ、もしかして居眠りしてたぁ?」
みるみるうちに、雫の口角が上がっていく。頬が丸っこくなって、目が細い。
「していません、護衛たるものいついかなる時も即応態勢で待機しております、さ、数学の課題でしたね、同居人に届けさせますので、今しばらくお待ちを」
「あ、いいよ、それ後で。そんなことよりさあ、居眠りなんて珍しいね。なにかあったの?」
「ですからっ」
「嘘はやめようね」
笑顔のまま、雫は顔を斜めにした。
一瞬きゅっと胸が詰まって、リンは肩を落とした。
「はい、その正直に申しますと……ほんの僅か、短時間だけ、30秒ほど意識が違うところを向いていたかもしれません。ですが、ですが誤解なきようお願いします、某は決して手を抜いていたわけでも、雫を軽く見ていたわけでもなく、でもなく、その……脳のメンテナンスでした」
「リンちゃんこそ誤解しないで。わたしは責めてるんじゃなくて、具合でも悪いのかなぁって心配してるんだよ。ていうか、夜中はいつも外にいるっぽいけど、ちゃんと寝てるの?」
リンは姿勢を正した。口元を緩める。雫の目を見る。ゆっくりと頷く。
「はい、もちろんです。交代要員がいるので、平均して日に1時間半ほどは睡眠を取っています。ですから、その点に関しましてはご心配いりません」
「いちじかん?」
雫の顔から笑顔が消えた。眉をひそめて、訝しむようにこちらを見ていた。
両目をよく開いて、その顔をじっと見つめた。なにかおかしなことを言っただろうか。いや、おかしいのか、おかしくないのか。
頭に厚みがある。鮮明ではない感覚。脳が回っていない。事後処理のせいで最近は睡眠を30分に短縮していたせいだろうか。だが、平気なはずだ。
「わかります、雫の言いたいことはよくわかります。それは普通ではないと仰りたいのでしょうが、違います」
リンは両手の拳を丸めて、胸に当てた。
「この身体は魔法少女ゆえに、人並みに睡眠を取る必要がないのです。疲労の蓄積などないはずです。この任に付いてから、これまでもずっと同様の生活を続けてきましたから」
「でもぉ、居眠りしてたよね?」
合わさった唇を揉むように動かす。目が勝手に斜め下を向く。声が小さくなった。
「……脳のメンテナンスです」
「ふぅん……あ、てことはぁ」
突然雫は表情を明るくして、これまでより大きな声を出した。頭にぴりっと亀裂が入るような感じがあった。
「アリスたちも同じだってことだよね。明日聞いてみよっと」
「はい、是非そうしてください。彼奴らも夜な夜な西へ東へと深夜の街を徘徊しているはずです」
雫はにたにたぁと笑った。
「じゃ、また賭けね。嘘だったら罰ゲームってことで。んふふ、語尾に、にゃんとか付けさせちゃおっかなぁ」
緩んだ顔で、しばらく雫はあれこれと罰ゲームのアイディアを口にしていた。




