第17話 接吻で昂ぶれば、冷静さを欠く
雫の鼻先が、やや赤くなっていた。
うっすらした光沢が、外からの光を反射している。
夕日に照らされるマンションの一室は、驚くほどに静かだ。そのせいで、唇の隙間から漏れる雫の呼吸音が、よく聞こえる。
行為を待っている少女の、吐息が。
「ん……」
「むぅ……」
雫の肩口から少し離れたところで、自分の指が暴れている。ぐねぐね動いて、開いて、閉じて、落ち着きがない。
好いてもらえるのは好都合とはいえ、本当に――いや、いいのだろう、このような待ちの顔をしている以上は。
これも任務だ。
「それでは……お言葉に甘えて……」
指先が触れると、雫の二の腕がぴくっと反応した。
唇を見定め、ゆっくり顔を近づける。無垢な、少女の柔肌。
どれだけ傷つこうとも、おそらく汚れはまだ知らない。
「……」
それを奪うのか、邪な動機で。
雫の吐息が顔にかかる。鼻先が触れそうになる。交差させるように頭を傾ける。
触れるだけにしよう――
そのときだった。
ビー、ビーとけたたましい警報音が鳴り響いた。警告灯が回りだし、部屋中が赤色灯に照らされた。
ベランダからは機械音が伝わり、プランターに擬態した機銃が首を振っていた。
「敵襲かっ」
「えっ」
咄嗟に雫を抱き寄せた。ソファの裏から防弾プレートを引き出し、防御の体勢を取った。
「おのれ、敵めぇ、このようなときにっ」
許せん。不埒な闖入者め、成敗してくれる。
カッと発火して、頭の中が熱っぽくなる。脱出よりもなによりも、敵の排除が最優先だ。どこだ、どこにいる。
玄関からも天井からも敵襲はなかった。ベランダを確かめると、機銃は頭を振り続けるのみで標的を認識していなかった。
誤検知、いや、そんなことが――立ち上がろうとすると、雫に腕を引っ張られた。
瞬きひとつせず、雫はこちらを見つめていた。
「待って、誤魔化すつもりなの」
「そのようなことはありません、これは現実の脅威なのです」
「ほっとけばいいよ。そんなことより、言ったことは守って」
「ですが――」
雫の瞳がうるんだように震えていた。腕を掴む手に、力が込められた。
浸っている場合ではない、だが、雫殿が望んでいる。
最低限の礼儀は果たすべきだ。
「いえ、わかりました。失礼」
雫の左頬に、口を寄せた。さらに近づけて、唇を触れさせた。
撫でるように優しく、傷つけないように。
0.3秒ほど、そうしていた。離しても、唇とひとつになったような肌の感触が、余韻として残っていた。
「これでご勘弁を。これ以上の行為は、現状では不適切です」
「ぁ……口じゃ、ないんだ」
立ち上がってから、返事をした。
「昂ぶれば、冷静さを欠きます」
雫はほうけたようにこちらを見つめて、掴んだ腕を離した。先ほどとは対照的に、何度も瞬きを繰り返していた。
「この防弾プレートは対物ライフルの直撃すらも防ぎます、どうぞお隠れください」
無警戒にソファに座ったまま、雫は言った。
「ま、いっか……でも、続きは今度ちゃんとしてね?」
「む……善処します」
「約束だよ」
呟いて、雫は自分の頬を撫でた。何度も繰り返しているうちに、笑顔が浮かんできた。
場に似つかわしくない微笑に、一瞬だけ心が惹きつけられる。
ふわりと胸が浮くような感覚になって、それをすぐに振り払った。
見とれている場合ではない、ではないのだ、仕事だ、仕事をせねば。
右手に短刀・黒き翼を出現させ、制服を忍び装束へと変化させた。
雫殿の平穏を乱す監視者め、決して許してはおかん。
ソファに背を向けて、一歩踏み出した。
リンは天井の抜け穴を通って、空中へと飛び出した。
「出てこいくせ者。そこにいるのはわかっているぞ」
カマをかけてみるが、反応はない。
眼下の住宅地にも、澄んだ夕暮れの空にも歪みは見つけられない。以前あのブランシュと対峙したときのような、光の反射もまた確認できなかった。
鼻に頼ってみるが、魔力の独特な匂いは感じられない。嗅覚が鈍っている、あるいは、隠遁の術を行使されると体臭までも隠されてしまうものか。
逃がしたか、あくまでも監視が目当てか、いずれにせよ防犯装置を強化しなくてはならん。
この任務、不覚を取ってばかりだ。
「……影に潜むものよ。また、学校で会おう」
つぶやいたその瞬間、空気のゆらぎを感じた。
クナイを投擲してみたが、空中を切り裂くのみで手応えはなかった。
今日だけでも保護させてほしいと言ったのにも聞かず、雫はそわそわした様子で家に帰っていった。頭の動きがせわしなく、どうもこちらを直視するのを避けているようだった。
色に溺れていたせいで遅れを取った、その事実に失望されているのかもしれなかった。
夜中、電柱の上で全周警戒を続けている際に、ふと独り言が漏れた。
「機能を果たせたのなら……頬でよかったのかもしれん」
そうに違いない、と、一人の夜更けに頷いた。
「今度……今度か……ええい、煩悩退散!」
なかなか胸が落ち着かず、いつもの数倍も疲弊した。
次いで、日が昇るまでの間、どのように越谷まひるを尋問しようかということだけを考えた。




