ep9 さつまいも山脈とアルプスの風
朝の朝礼は、分離礼から始まる。
全員が調理台の前に並び、曽野チーフの号令で、
ぴたりと礼をする。
「おはようございます。」
マニュアル通りの言葉なのに、少しずつ息が合って
きているのがわかって、背筋が自然と伸びた。
「では、今日の工程、確認していきましょう。」
一人ずつ、自分の担当を読み上げていく。
最初のころは、聞いているだけで精一杯だったけれど、
今はわたしも順番が来るのを待つ側だ。
「浅倉さん。」
「はい。」
胸のあたりが少しどきどきしながら、
用意してきた言葉を口にする。
「今日は、大学いものさつまいもの下処理を
進めています。この後カットに入ります。
そのあと、味噌ラーメンの野菜の仕込みです。
午後は洗浄3番に入ります。」
「はい、ありがとう。」
曽野チーフがうなずき、工程表にペンを走らせる。
隣で、サブチーフの朽木さんが手帳をめくりながら、
工程表を確認している。
「みそラーメンは、みんなが喜んでくれる日です。
笑顔をイメージして、前半は落ち着いて、
後半はリズムよく、って感じでいきましょう。」
朽木サブチーフの声は、いつも通り穏やかで、
でも要点だけはちゃんと刺してくる。
「浅倉さん。」
「はい。」
「さつまいも、硬いから気をつけてね。
この前の初日は、野菜切るときも“猫の手”じゃなかったでしょ。」
玉ねぎは、芽とりだったけどあのときの、
あのヒヤッとした感触が一瞬でよみがえる。
肩が、すこしだけすぼまった。
「……はい。ちゃんと、気をつけます。」
「うん。怖いと思ってるなら、それはいいこと。
怖いまま、ちゃんと“止まれる”なら、ケガは防げるから。」
朽木サブチーフはそう言って、ふっと笑った。
指を曲げて、第二関節を前に出した形をしてみせる。
「この第二関節を、刃のガイドにするイメージ。
指先じゃなくて、ここ。」
「……ミャー。」
思わず、猫の真似みたいな声が漏れてしまって、
周りから小さな笑いが起きた。
「はいはい、その調子で。よろしく。」
◇
さつまいもを洗って、皮を少しだけ残すようにむき、くし切りにしていく。
手首の「ケガさせない君」が、うっすらとあたたかい。
包丁を握った瞬間、バンドのプレートが、かすかにブルッと震えた。
――え?
みんなは気づいてないけど私にはしっかり伝わった
驚いている間にも、さつまいもの山は減っていかない。
リズムよく、でも急ぎすぎないように、くし形に切っていく。
「猫の手」の形にした指の第二関節に、刃がコツッと当たる
感覚があるたび、バンドが小さく脈打つ。
ふと、集中が途切れた瞬間だった。
さつまいもが硬くて、刃先が思った方向に入らず、
指先のほうへ滑りかける。
その瞬間・・・・・・
腕にピリッとした刺激が走った。
「っ!」
反射的に手を止める。
刃先が、指先の皮一枚手前で止まっていた。
バンドのプレートが、赤く光っている。
「浅倉さん、大丈夫?」
曽野チーフがすぐ近くに来ていた。
わたしは、あわてて首を縦に振る。
「だ、大丈夫です。ちょっと、
ヒヤッとしただけで……切ってないです。」
「よかった。」
曽野チーフは、さつまいもとまな板、それから
わたしの手元を一度だけ確認すると、にこっとした。
「さっき止まれたから、大丈夫。
“怖い”って思えたら、一回止まる。それができたなら、合格です。」
「……はい。」
指先を確かめると、ほんの少し白っぽくなっているだけで、
血は出ていなかった。
わたしは小さく息を吐いて、もう一度「猫の手」の手をつくる。
「ミャーお。」
さっきより、すこしだけ力を抜いて。
シュ、シュ、と一定のリズムで、くし切りが進んでいく。
バンドの光は、さっきよりも穏やかになっていた。
さつまいもを油で揚げている間に、わかめサラダの担当を手伝う。
きゅうりとコーン、キャベツをゆでわかめは
ブランチングして、80度達温を確認する。
記録表に温度を書き込んでから、加熱しておいた
ごま油と醤油ベースのドレッシングを絡めていく。
「こういうのはね、混ぜる人の機嫌が微妙に味に出るのよ。」
三浦さんが、冗談めかしてそう言う。
「今日は?」
「うーん……“指守れた記念日”って顔してるから、大丈夫そうね。」
「顔に出てます?」
「出てる出てる。」
わたしは思わず苦笑しながら、
ボウルの中身をへらでやさしく返した。
回転釜では、味噌ラーメンのスープが
少しずつ姿を見せ始めている。
鶏ガラと野菜のだしに、味噌だれを溶き入れ、さっと沸かす。
おたまに取ったスープと野菜の温度を、温度計で測る。
「八十二度、確認しました。」
大きな声でそう読み上げてから、
すぐに記録用紙に数値を書き込む。
「やっていること」を、「やった証拠」にするのが、
HACCPでありこの仕事の一部だ。
麺は、別の蒸し器で蒸されている。
給食用の中華麺を大きなバットにあけて、
ロングエンボスをして油をまぶし、一本一本ほぐしていく。
手からの汚染が一番危険だって友部部長がいいていたことを思い出した。
これをクラスごとのバットに分けて教室に運び、
子どもたちが自分たちで取り分けて、スープをかけるのだ。
「教室、札幌ラーメン屋さんみたいになるんだよ。」
縣さんが、麺をほぐしながらぽつりと言った。
「へえ……見てみたいです。」
「いつか、タイミング合えばね。」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
検食と見本食、アレルギー対応食を三浦さんが作っている。
給食用の深皿に、バットから麺を入れ、スープをかける。
湯気がふわっと立ち上がり、その一瞬だけ、
給食室の中が本物の札幌ラーメン屋さんみたいになる。
わたしは思わず唾をごっくんと飲み込んだ。
大学いもも、陶磁器の小皿に盛りつけられていく。
トレーの上に、見本食、検食、アレルギー対応食がずらっと並ぶと、
深皿と小皿とコップが連なって、本当に小さな山脈みたいに見えた。
南沢先生も来て、アレルギー対応食のチェックをチーフとしている
かっこいい大人の女性のやり取りって空気が出ていた。
「見本食、検食、出ます。」
三浦さんの声とともに、トレーが運び出されていく。
ほどなくして、廊下の向こうから、小学生の大きな声が響いてきた。
「味噌ラーメンだぜー!」
「やったー!」
子どもたちの歓声が、給食室の奥まで届く。
さっきまで数字と工程表の中にいた「味噌ラーメン」が、
いま実際に誰かの前に置かれて、「わあ」と言ってもらえている。
――いいな。
胸の奥の方が、じんわりと熱くなった。
配膳が終わって、子どもたちの「ごちそうさま」が
廊下の向こうに消えていく。
教室から戻ってきた食缶とバットが、次々と下膳台に
積まれていく音が、少しずつ静かになっていった。
「じゃ、私たちも食べちゃいましょうか。」
曽根チーフが、台車をふきながら、にこっと笑った。
子どもたちの給食が一段落してから、
ようやくわたしたちの番になる。
同じ陶磁器の深皿に、同じ麺、同じスープ。
少しだけ冷めているけれど、見た目は見本食とまったく同じだ。
テーブルにつき、大学いもの小皿と、わかめサラダの小鉢、
それから牛乳を並べる。
全員で軽く会釈し合ってから、手を合わせる。
「「いただきます。」」
目の前の深皿には、ミルキーベージュの味噌スープ。
中から、麺と野菜が顔を出している。
その横には大学いもが盛られた小皿と、わかめサラダの小鉢
それから、いつもの紙パックの牛乳。
箸でそっと麺をすくって、口に運ぶ。
ずるずるっと吸い込んだ瞬間、あたたかいスープといっしょに
だしと味噌の匂いがふわっと鼻に抜けた。
――ああ……しみる……。
自然と、ほっぺたの力が抜ける。
たぶん、今の顔を鏡で見たら、完全に「幸せの顔」だ。
「おいおい。」
少し口の中でもぐもぐしながら、横から声が飛んできた。
見ると、斜め前の席で同じラーメンをすすっていた
縣 陸が、にやっと笑っている。
「給食食べてるときの顔、反則級だな、それ。」
“反則級にかわいい”まで言いかけて、
その手前で言葉を飲み込んだみたいな、妙な間があった。
「えっ。」
思わず両ほっぺを両手で押さえる。
周りのパートさんたちが、くすっと笑った。
「だって……おいしいんですよ、これ。」
「知ってるよ。」
縣さんは、わざと視線を外すみたいに、もう一度麺をすすった。
さっきより、ちょっとだけ耳が赤い気がする。
「仕込みしてるときより、だいぶいい顔してる。」
「それ、褒めてます?」
「半分くらいは、な。」
その言い方にまた、テーブルの空気がふわっと和んだ。
わたしはそれ以上何も言えなくなって、
黙ってスープをもう一口すすった。
ラーメン屋みたいな、長時間煮込んだ豚骨出汁や
強い化学調味料のパンチはない。
そのかわり、鶏ガラと野菜のだしと味噌だけで、
じわっと押してくる、無添加の旨みという名の
優しさが真ん中に座っている。
――これが、給食の味噌ラーメンか……。
ラーメン屋さんみたいな濃さや脂っこさはないのに、
鶏ガラと野菜のだしの奥に、ほんのりとした甘さがあって、
その上に味噌がふわっとかぶさっている。
やさしい。
でも、「ラーメンを食べた」って胸を張って言いたく
なるくらいには、ちゃんと満足感がある。
その絶妙なところを、ど真ん中で狙ってきている味だ。
麺をもう一口。
つるつるっと吸い込むと、少しだけのびかけた麺が、
スープをまとって舌の上に乗ってくる。
コシは、ほとんど残っていない。
でも、そのやわらかさが、午前中ずっと立ちっぱなしだった
足の裏を、ふわっとぬるま湯につけてくれる
みたいに、全身をほどいてくる。
――子どもたちと、同じ一杯なんだよな、これ。
さっき廊下で叫んでいた「あ、味噌ラーメンだ!」の声と、
今、自分がすすっているこの一口が、一本の線でつながる感じがする。
もやしを一緒にすくってみる。
シャキッ、というより、くたっとした、やわらかくなりかけの歯ごたえ。
にんじんの千切りや玉ねぎの薄切りも、スープの中で少し透き通っていて、
噛むたびに甘さがじわっとにじんでくる。
口の中で、麺と野菜がいっしょにほどけていく。
塩気と甘さと、だしの旨み。
それを、味噌がやさしくまとめている。
――ちゃんと、栄養士さんが考えた味噌ラーメンだ。
そう思うと、なんだか急に、この一杯の裏側が頭に浮かんでくる。
麺は一食何グラムで、野菜は何グラムで
塩分は一食何グラム以内で――。
専門学校で散々見てきた数字たちが、
今、目の前の深皿の中で、少し冷めた湯気を上げている。
スープをもう一口。
さっきよりも舌が味になじんできて、
味噌の感じが少しだけはっきりしてきた。
赤味噌ほど強くなくて、白味噌ほど甘くない。
たぶん、給食用にブレンドされた味噌なんだろう。
今度はちゃんとラベル確認しよう。
味噌職人さんたちが考えて、選んで、
ここに辿り着いた味だ。たぶん。
――子どもたち、これ、絶対好きだな。
そう思った瞬間、テーブルの向こう側から、
三浦さんの声が聞こえてきた。
「昔はね、ラーメンっていったら“ソフト麺”
だったのよね。懐かしいわあ。」
「出た、ソフト麺。」
「ビニールの袋に入ってるやつね。
あれを割りばしで、ずぼっとほぐしてさ。」
スタッフさんたちが、箸を動かしながら楽しそうに笑っている。
――ソフト麺? なにそれ。
頭の中でだけ、ことばを繰り返す。
聞いたことのない単語。
でも、「それ、なんですか?」ってここで割って入るのは、
なんだか、この人たちの大事な思い出話を
途中で止めてしまう気がした。
みんなの会話は、小学校時代の給食の話に
どんどんふくらんでいく。
わたしは相づちを打つタイミングもつかめず、
ただ麺をすすりながら、
耳だけダンボみたいにそっちを向けていた。
――いつか、ちゃんと聞いてみよう。
――「ソフト麺って、どんな味だったんですか」って。
そう心の中でだけ決めて、もう一度、
目の前の“無添加の味噌ラーメン”に意識を戻した。
麺を半分くらい食べたところで、ようやく大学いもに箸を伸ばす。
こんがりと飴色のタレをまとったさつまいもが、
陶磁器の小皿の上でつやつやしている。
一つ、口に運ぶ。
カリッ、とまではいかない、やさしい歯ざわりの衣が、ふわっと崩れて、
中から、ほくほくのさつまいもが顔を出す。
甘じょっぱいタレがからんで、さつまいもの素朴な甘さを、
ぐっと手前に引っぱり出してくる。たまんないよこれ。
そこで、牛乳パックに手を伸ばす。
紙パックの口を開けて、そっと一口。
冷たい牛乳が、さっきまで味噌ラーメンと
大学いもで忙しかった口の中を、すーっと一度リセットしてくれる。
でも、ただ流して終わりじゃない。
味噌スープの塩気と、だしの名残が、
牛乳の中に少しだけ溶け残っていて、舌の上でふわっと広がる。
――あれ。ちょっとポタージュみたい。
コーンスープでも、じゃがいものポタージュでもないのに、
「スープのあとに飲む牛乳」だけで、そんな顔をしてくる。
まるでフランスのアルプス風を感じ草原を巡っているよう
もう一度、大学いもを一個。
今度は、さつまいもをかじった直後に、続けざまに牛乳を一口流し込む。
さつまいものホクホクした甘さと、牛乳のまろやかさがくっついて、
口の中で一瞬だけ、「スイートポテト未満・スイートポテト以上」
みたいな味になる。
スイートポテトは日本発祥のデザート、
同じ日本だからなのかな
デザートの日本代表って言える!にっぽん!日本!
――味噌ラーメンに牛乳。大学いもに牛乳。
文字にしたら、ちょっとひいちゃいそうなのに。
実際は、変に主張し合わないで、
ちゃんと一つの献立としてまとまっている。
栄養のバランスも考えられていて、
塩分も脂質もカルシウムも、「先生の思いが込められた」感じがする。
――これが、学校給食の良さなんだろうな。
誰か一人の「好きな味」じゃなくて、
千人の、いろんな子どもの体と心をまとめて支えるための味。
深皿の底が見える頃には、
わたしのお腹の中も、気持ちの中も、牛乳の白さで
ふわっとコーティングされたみたいに、やさしい気分になっていた。
第三章は、給食の“おいしさ”と“哲学”をまとめて
詰め込んだパートです。
味噌ラーメンと大学いも、わかめサラダ、牛乳。
文字にするとちょっと重そうな組み合わせですが、
実際の学校給食でも、こうした「主食・主菜・副菜・牛乳」の
バランスで献立が組まれています。
ラーメン屋さんの一杯とは違うけれど、
だしと味噌のやさしい旨み、さつまいもの甘さ、牛乳のまろやかさ。
それを栄養計算と現場の工夫で“ひとつの給食”としてまとめるのが、
牛乳論争はあるけど、そこも学校給食の面白さであり、文化であり
難しさでもあると思っています。
ソフト麺の思い出話に、まだ入っていけない椎菜は、
「聞く側」にとどまっています。
でも、その外側から耳だけダンボで聞いている時間も、
いつか自分の言葉で混ざるための、大事な準備期間です。
南沢先生の
「指を守れる人は、子どもの命も守れる人」
「給食って、思いの結晶なの」
という言葉は、現場の栄養士さんたちへのささやかな敬意として書きました。




