ep11 夜のふーぴょんと見えない動線
天井の模様が、だんだん別のものに見えてくるくらいには、
眠れない夜だった。 浅草の実家の、自分の部屋。
古い木造の家の二階。窓の外には、遠くに隅田川の灯りが
細い線になって見える。
布団の上で、わたしは仰向けになって、胸の上に
ふーぴょんを乗せていた。
「……ねえ、ふーぴょん。」
小さな声で話しかける。
「明日の作業動線、やっぱりこわい。」
声に出すと、胸の奥で何かがじわっと熱くなる。
入社してから、まだ一週間ちょっと。
エビクリームライスのルウを失敗した初日。
その後のハッピーコロッケの日。
こないだの大学いも。
包丁を持つたびに、あの瞬間が頭をよぎる。
玉ねぎの芯取りで、指先を少し傷つけた冷たい感触。
あと数ミリ深かったら、たぶんもっと大ごとになっていた。
あのときから、「大きな傷の未来」が、変なリアリティを
持ってついてくる。
「今日の大学いも、作業動線、ぐちゃぐちゃだったよね。」
回転釜から揚げたさつまいもをバットにあげて、味をからめて、
冷やして。ボウルに配缶していく作業動線が、
頭で思ってたのとぜんぜん違った。
ベテランの手は、流れるように動いていた。
わたしだけが、そこに“流れがある”ことは分かるのに、
どの線に乗ればいいのか見えないまま、足元だけバタバタしていた。
「こないだの大学いもなんてさ、ボウルの横通るだけで、
手、震えたもん。」
熱い油。 重いバット。
並行して進んでいく作業。
自分の動きひとつで、全部を止めてしまいそうな気がして、
怖くて、でも誰にも言えなくて。
「エビクリームライスルウを焦がしたときもさ、大学いものときもさ、
曽野チーフは『大丈夫』って言ってくれたけど……。」
“現場は、誰かひとりの失敗で終らせない”と、
真正面から言ってくれた人。
頭では分かる。
でも、心のどこかで、まだ勝手に
「自分のせいで全部ダメになる未来」をリピートしている。
「明日、つぶつぶオレンジゼリーなんだってさ。」
三浦さんが、洗浄室で笑顔いっぱいに教えてくれたメニュー。
オレンジゼリーに小さな果肉が入っていて、
光に当たると、つぶつぶがキラキラする、あれ。
「ゼリーカップ、配缶も、アレルギー対応食も。
作業の動線、頭がいっぱいに……。」
1000人分のゼリーカップが並ぶ光景を想像して、
思わずため息が漏れる。
「ねえ、ふーぴょん。」
胸の上のぬいぐるみの耳を、指先でつまむ。
「わたしさ、“何が危なそうなのか”はなんとなく分かるの。
でも、“何を直せばいいか”は分かんないんだよね。」
作業の動線そのものが不安なんじゃない。
「どこが交差しやすいか」「どこで優先順位が入れ替わるか」みたいな、
目に見えない“意味の線”が分からないことが怖いのだ。
「池尻栄養専門学校でさ、集団給食の授業、ちゃんと
聞いてたはずなんだけどな。」
黒板に書かれたフローチャート。
先生の身振りで示された動線図。
そのときは「ふんふん」とノートを取っていた。
でも、現場はあの図よりずっと、狭くて、重たくて、速い。
「佐藤先生、こういうときになんて言うのかな。」
就職課でエントリーシートを一緒に直してくれた先生の
顔を思い出す。
『完璧な職場はないよ。でも、自分が一番がんばれる場所は、
自分で選べる。』
「がんばれる場所は、選んだつもりなんだけどな……。
がんばり方が、まだ分かんないや。」
そうつぶやいて、ふーぴょんをぎゅっと抱きしめた。
ハートの部分が鼓動するように光った。
その光は、古代の紋様みたいな線をふーぴょんの内部に走らせ、
やがて光の糸になって指先へ――
その瞬間を見届ける前に、わたしは眠ってしまった。
私はまだ知らなかった毎晩、わたしが眠ったあとにふーぴょんが
未来の織機みたいに、ガジェットを編んでいるなんて。
翌朝。
「……できたよ、しいな。」
枕元で声がして、わたしはうっすら目を開けた。
「ふぇ……もう朝……?」
「うん。朝。今日の“悩み”に合わせて、ちょっと頑張った。」
そう言ってふーぴょんは、
編みあがったばかりの小さな道具を胸の前に乗せた。
「新作
動線解析型光学可視レイアウト・ビュー・フェーズユニット α グラス」
「長い!!」
寝起きなのに、その一言だけは全力で出た。
「なんで毎回こうなるの……?
この名前じゃ、読む前に朝の会終わっちゃうよ。」
「え……かっこいいと思ったんだけど。」
「かっこよさじゃなくて、現場で実際に使えることが大事なの。」
わたしは、光のフレームがほのかに揺れる
ゴーグルのような道具を指先で持ち上げた。
「……これは今日の動線、見えるようにするやつ?」
「そう。今日、しいなが悩んでたでしょ。
“位置につくタイミングが毎回ズレる”って。」
痛いところを突かれて、思わず黙った。
そう、今日はつぶつぶみかんゼリー。
動線も配膳タイミングも、少しでも崩れると全体がズレる。
曽野チーフも朽木サブチーフも動きが速くて正確で、
そこに追いつけなかった自分が、
ちょっと情けなかったのだ。
「じゃあ、名前はわたしがつける。」
しばらく考えて、短く答えた。
「ライン・ビューワー。これ。」
「短っ!!ふつう」
「短くて普通がいちばん便利なの。」
ふーぴょんは、むくれて耳を垂らした
すぐ耳が立ち
「了解。じゃあ“ライン・ビューワー”で登録するね。」
「登録……?」
「うん。名前は大事だから。」
幾何学模様がちりばめられたシルバーフレームのメガネ。
レンズの中央を、薄いオレンジ色の細い線が縦横に走っている。
少し迷ってから、メガネを顔に近づけた。
かけてみる。
視界は、思ったより自然だった。
度が入っている感じもしない。
少しだけ、輪郭がくっきりしたような気がするくらい。
試しに、机から布団までの動きを意識してみる。
その瞬間、床の上に、細い線が一本ふっと浮かんだ。
「……え。」
机と布団をつなぐ、一本の白い線。
わたしがさっき歩いたところとぴったり重なる。
線は、しばらくするとすっと消えた。
今度は、布団からドアまで歩いてみる。
足を運ぶたびに、線がすーっと伸びて、
わたしの通ったあとをなぞっていく。
その線の一部が、少しだけ濃いオレンジ色になった。
パーカーが椅子にひっかかって、歩幅が乱れたところ。
そこだけ、線がモヤっと太くなって、すぐに薄くなる。
「……作業動線、ってこと?」
自分の口から出た言葉に、自分でぞわっとした。
メガネを外す。
線は見えなくなる。
またかける。
さっきの線は消えているけど、わたしが動けば、
新しい線が生まれる。
膝のあたりが、じんわり重くなった。
さっきまで「不安」としか思えなかった作業動線が、
急に「観察できるもの」に変わった感覚。
「……自分だけのカンニングペーパー、ってこと?」
思わず笑ってしまう。
「……今日、使ってみよ。」
わたしは決めた。
朝からメガネをかけたままにするのはさすがに抵抗があったので、
いったんケース代わりに小さなうさぎの巾着にくるんで、カバンの中に入れる。
そのとき、メガネが一瞬だけ、ふっと視界から消えたように見えた。
「え?」
巾着を開けると、ちゃんと中にある。
取り出してみると、手の上ではふつうに見える。
「あー……寝ぼけてるな、わたし。」
自分で自分にツッコミを入れて、
ふーぴょんをカバンの一番上にぬいっと差し込む。
「じゃ、行ってくる。」
小さくそう言って、部屋を出た。
ちゃちゃっと準備を終え、階段を降りる。
家を出ると、
朝の浅草はまだゆるい空気の中にあった。
ふだんより少し早く家を出たので、
空気がまだ冷たい。
「行ってきます。」
家を出て、自転車を引き出す。
朝の下町の風は、スーッとしていて好きだ。
自転車で隅田川沿いを走ると、
橋のたもとに差し掛かる頃には太陽がちょうど川面に反射して、
今日が始まる音がした。
学校につくと玄関先の用務さんが落ち葉を掃いている。
「おはようございます!」
自分から挨拶できるようになったなわたし
「おはよう。……うん、いい天気だね。」
その短い一言だけで、気持ちがすっと軽くなる
「ありがとうございます」
椎菜にとって新しい明日へ“知らないまま飛び込む
こと”は不安でしかなかった。新人のころは
だれでもそうだと思う。そんな心揺れが揺れるラインとなる。
動線が見えない夜ほど、頭の中の線は勝手に太くなってしまう。
でも、ふーぴょんがそばにいると、
「不安」が少しずつ「観察できる」に変わる。
この1章は、椎菜が“自分の弱さに名前をつける”大事な時間。




