その2
暑い夏休みに入った。蝉の鳴き声が道場での稽古の集中力を五月蝿く欠かせている。道内はエアコンなど無く、出入口と窓が開いているだけだ。風が通り抜けない限り、逃げ場のない熱気が充満している。その茹だるような温室の中にも関わらず、キノは計画を実行しようとしていた。
「キノ様、体が動揺しておいでだ」
涼しい顔のフェイルは一挙一同の動きの変化も見逃さない。
「考え事でもおありか。それとも流石にこの暑さに耐えかねますか」
乱取りが終わり、二人は並んで上座に向けて正座をしている。
「ねえ、先生」
一呼吸入れて、キノは話を切り出した。
「何でしょう」
男は目を閉じたまま正面を向いている。
「休暇を取りたいと思うんだけど」
「夏休みはもう始まっておりますぞ」
背筋を伸したまま、微動だにしない。
「違うよ」
少しだけ目が開いた。
「先生たちの休暇だよ」
「……は?」
切れ長の瞳を向け、そして眉間に皺を寄せる。
「休暇、ですか?」
「そ、そう。ほら、いつも僕らの側で何かとやってくれてるけど、普通仕事って休日があるでしょ」
「まあ、普通の仕事であるならば……」
両膝に置いていた手掌は、次に顎に当てた。
「でしょ。だから、僕らは夏休みにも入ったし、家のこと自分たちで出来るよ」
キノも両手を挙げると、振りが大きくなる。
「うむ……。だから?」
「三人は、しばらく休暇を取ったらいいじゃないかなって」
考える間を与えないように、矢継ぎ早に言葉を詰めていく。
「いや、ここにお仕えしているのは、そう言う意味ではなく……」
再び男はその意見に対して、素直に考え込む。
「だから! もう決めてあるの! この家から退去! 亜紀那さんと好きなところへ行ってバカンスしてよ、ね!」
苛つくキノは、間髪入れずに叫んだ。
「は?」
「夏期休暇は一週間だからね」
いつの間にか中腰になって、指を一本立てている。
「……はあ」
その勢いに飲まれているフェイルは、不可思議な顔で返事せざるを得なかった。
「夏期休暇、ですか?」
亜紀那は庭の掃除の途中で、手を止めて聞き返す。
「一週間ぐらいにしようか、と考えてるんだ」
彼女はキノを見据える。視線に耐えれそうにないので、目をわざと違う場所に移した。
「いつからでございますか?」
「明日から」
「それは随分と急なことですね……」
勘ぐる亜紀那の眼光に油汗が滲み出る。
「あ、亜紀那さん! フェイルと……、そう、先生との時間もゆっくり取れるし。先生喜んでいたよ!」
完全に目が泳いでいた。
フェイルはいいように丸め込めても、幼い頃から一緒にいる亜紀那には生半可な状態では太刀打ち出来ない。無理矢理、押し通すしかない。
「ねっ! 絶対、良い休暇になると思うよ!」
「キノ様」
彼女はキノの近くに寄ってくる。
「はい!」
何故か直立するキノだ。焦る表情で口を真一文字に締め、ボロが出ない様に堪えている。
「マコ様は、何と?」
「ま、マコ? 彼女だったら、だ、大丈夫だよ。いい考えだねって」
亜紀那は品定めをするように、じっとキノを凝視する。
「あ、暑いね、今日は」
蛇に睨まれた蛙のようだ。脂汗が更に顔に吹き出している。
「お二人だけになりますが」
「う、うん……。そうだね」
「キノ様」
亜紀那の真剣な目はキノの動きを完全に止めてしまう。
「大丈夫ですか? 誰も居なくても」
やや淋しげな表情を見せた。
「あ、亜紀那さん、マコと二人でちゃんと出来るから」
彼女はキノがフェイルと共に鈴美麗家に留めていることに、呵責を感じていることを知っている。
考えあぐねて、一旦ため息を吐いた。
「わかりました。明日からでよろしいのですね」
キノの頭が何度も頷く。
「しかし、ここに寝て泊まりさせて頂いている身。離れるとなると、何処に行きましょう?」
「そ、それは先生と相談して、ぱあ〜と、何処か行ってきたら」
探られる詰問に堪え兼ねている。
「御旅行に、お供いたしましょうか?」
「いい!」
完全に見透かされていた。
「キノ様、ワシは孫の世話でもしてきますわい」
後藤は笑いながら、即答する。
「婚前旅行でもないから、誰にも気兼ねなく、しっかりと愉しんできなされ」
「あ、ありがとう」
彼が一番的を得ている答えだった。
しかしこれが、これからの二人を決定づけることになろうとは、まだキノは知らない。